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其の六:戦雲来る

 果たして、李平が思ったとおり鋸の邑は、一気に戦乱の只中に立たされた。

 斉の迎撃軍は燕軍に敗れ、その敗残兵が一挙に鋸になだれ込んできたからである。

 その数は万を軽く超えており、それまで楽観していた鋸の民は、にわかに浮き足立った。

 

――燕がこの邑にも攻めてくる。


 本来、斉兵は強い。

 趙を援けて中山を滅ぼし、宋まで平らげた強兵である。燕がいかに連合を組もうとも、所詮は烏合の衆であり、個々では斉に歯が立たない国が大半であった。

 そうした思いが、目前に迫った危機に気付く目を曇らせていたのである。

 そして、今、鋸の民は惨めな自国の軍の姿を見るに、目が覚めたような思いになった。噂には、連合軍を率いる燕の武将の名も含まれていた。


――楽毅。


 といった。

 もともと燕の生まれではないらしいが、その才覚が見込まれ、わざわざ燕王が魏から招いたのだという。

 事実、足並みの揃いにくい韓、魏、趙、秦の連合軍を見事に統率し、斉軍を徹底的に叩くことに成功している。

 それを聞いたとき、人々は、かつて斉によって滅亡寸前にまで追い詰められた燕の、燃え盛る執念を見た気がした。

 

 なお、かつて斉への恨みを晴らすため、優れた人材を広く求めようとした燕王に、臣下の郭隗が『隗より始めよ』と説いた。

 まずは能力の低い自分を重用すれば、それ以上の人材はさらに重用されると思って、燕に集まってくるだろう、と言うのである。

 燕王は郭隗の献言を採用し、やがて燕には続々と人材が集まり始めたのだった。


 そうした話を、田氏は李平に静かに語りながら、


「鈴を頼む」


 と言ってよろいを身につけ、邑の防衛のために兵として出かけたきり、帰ってこない。鈴の婚約者である武官の男も、当然同じであるはずだ。

 出かける前、田氏は李平に、


――鋸を救ってくれ。


 とは言わなかった。

 それは、言ったところで、防衛は無駄であり一刻も早くこの邑を逃げるしかない、と李平が言うことが判っていたからであろう。

 事実、李平は問われれば、そう答えるつもりであった。


「そう簡単に、土地を捨てられるものではありません」


 家に残った鈴も、同じく残って暇そうにしている李平にそう言ったが、その考えは、既に人の世を捨てている李平にとって、想像の外にある。

 そんな事を知らない鈴は、緊張感のかけらもない李平に、またしても怒りの目を向ける。


――せっかく、婚礼の話を修復したのに。


 と、李平は思ったが、もともと話をこじらせたのも李平であるし、恩を売る気もさらさらないので、またごろんと横になって、田氏の書を読みふけった。

 昼が過ぎた頃、静寂が破られた。

 不意に田氏が戻ってきたのである。


「汝に頼みがある」


 そう言うと、わけも言わず、李平の腕を掴んで、家を出た。

 連れて行かれた先は、邑のはずれである。


「汝は医の心得があるらしいな。この者たちに治癒を施して欲しい」


 言ったのは、田氏ではなく、敗兵を束ねている将軍だった。

 正確には本来の将は既に遁走しており、彼は副将である。

 李平の目の前には、大小さまざまな傷を負ったおびただしい数の兵士がむしろに寝かされ、苦しげなうめきを上げていた。

 視線を田氏に移すと、田氏は何も言わず、


――すまぬ。


 と目で李平に謝った。謝ったのは田氏だが、恐らく李平の医術の事を斉の将に言ったのは、この場にいない武官であろう、と李平には想像できた。

 李平は息を漏らしながら、これも師の命か、と内心つぶやき、


「私一人では、手が足りぬ。人手を貸して貰いたい」


 と、将軍ではなく、田氏に言った。

 田氏は将軍の顔を見たが、将軍が頷くのを見て、手配しよう、と李平に答えた。

 李平は半ば諦めたように、

 

「判った。引き受けよう」


 と言うと、うずくまった兵士たちから、口々に感謝の言葉があがった。

 そんな様子を李平は静かに見ていたが、


「任せろ」


 と、一言返すと、感謝の声は歓声に変わった。

 しかし、李平は、傷ついた兵士のどの顔にも、はっきりと死相をみとめていた。

 少しだけ李平は空になったはずの心が疼いた気がした。

  



「李子は只者ではありませぬ」


 と、鈴は、防備についていた田氏に言ってきた。

 鈴は、女だてらに李平の治療を手伝っていた。その合間をぬって、田氏に会いに来たのだった。


「何かあったか」


「どこからともなく、大量の薬草を持ってきて、次々に薬を作っているのです。邑からは出られないはずなのに」


 既に目視できそうな所まで燕軍は迫っているため、鋸の城門は固く閉ざされており、いかに薬草を得るためとは言え、容易に邑からは出られない。

 鈴の言うことが本当ならば、確かに信じられる話ではない。

 だが、田氏ははじめから判っていたかのように、微笑で答えた。


「薬は効くだろう。義母になる人も助けたのだ」


「は、はい。それはもう」


 武官の男の母は、危篤から快復し、まだ床に臥せっているものの、意識はしっかりとしている。それだけで奇跡と言っていい。

 そうした神秘を目の当たりにしている田氏は、鈴の話を当然だ、と言って笑った。

 しかし、鈴は形のいい眉をひそめた。


「李子の言うことが本当だとしたら、どうしましょう」


 李平の言うこと、というのは、鋸は燕の攻撃に耐えられず落城する、という事である。

 田氏は、周りの兵に聞かれていないか周囲を見渡してから、小声で鈴に言った。


「恐らく、李子の言った通りになる。燕将の楽毅は、希代の名将かも知れん。あれに勝てる将は斉にはおらぬ」


 鈴は、思いがけない兄の言葉に目を見開いた。

 田氏の胸に、ある人物の名が浮かぶ。


――孟嘗君さえいれば。


 恐らく、楽毅に対抗できるのは、彼だけであろう。

 孟嘗君は斉の王族であり、千人の食客を抱え、宰相として斉の国力を大いに強めた。その声望は斉王を遥かに凌ぎ、孟嘗君がいるから斉がある、とまで言わしめた。

 だが、その名声を斉王は恐れ、身の危険を感じた孟嘗君は魏へ亡命してしまった。魏は、今、斉を攻めている連合国のひとつだが、孟嘗君はそこでも宰相として迎えられている。

 田氏は、孟嘗君に会った事はないが、やはり憧憬をもってその名が思い返される。それと同時に、その孟嘗君を追いやった今の斉王には失望の思いが強い。

 斉王は、孟嘗君が築き上げた斉の国威の上に寝そべって、ただ浪費をしているに過ぎない、と田氏は思っている。斉がいかに武威を示しても他国は一向に心服せず、そればかりか、今回のようにこぞって矛を向けてきているのは、すべて斉王の薄徳に起因するのだ。そう思っているからこそ、李平の言うことには、内心で頷けるのである。

 そうした思いを心中で反芻してから、田氏は諭すように、鈴に言った。当然、声は抑えている。


「今のうちに、馬車を用意しておけ。家財はすべて投げ打ってでも金を作れ」


 鈴は、放心したように何度も頷くと、田氏の、行け、という声に弾かれるように帰っていった。


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