其の五:仙医
翌日、朝から田氏は出かけていた。
普段、田氏の家に居て、何か手伝いをするでもない李平は、日がな一日寝転んだり、書を読んだりしていたが、この時だけはじっと黙考していた。
一緒に居る鈴は、相変わらず怒りを目に宿して、李平とは一切口を利かなかったが、それでも普段の李平と少し様子が違うことだけは分かるらしい。時折、李平の顔を覗き込むと、目の前で手を振ったりして、生きているかどうかを確かめたりした。
李平が瞬きもせず、ぎょろりと目を鈴に向けると、
「ひっ」
と言って、あわてて手を引っ込め、ばたばたと厨房へと逃げていった。
その後姿を横目に、何とかしなければ、と李平は思うのだが、良案は一向に出ない。
だが、熟考より、成り行きというものが事態を変えることというのは、ままある。
その日の宵であった。
田氏が珍しく慌てた様子で帰ってきた。武官の母が、いよいよ危篤であるという。
「もはや仲たがいがどうのという時ではない」
と、忙しく言うや田氏は嫌がる鈴の手を引いて、武官の家へ行こうとした。
こうなれば一人李平が家に残される形となるが、
――これだ。
と、李平の脳裏に光明が差し、何食わぬ顔で、田氏と鈴の後について行った。
田氏は、ちらと背後の李平を見たが、特に何も言わず、武官の家へと急いだ。
武官の家は、田氏のところからさほど離れていない。田氏を出迎えた武官の男は、さすがに憔悴していた。
「よく来てくれた」
とだけ、田氏に言ったが、鈴には言葉をかけなかった。
二人は中に通されたが、その後ろに李平が居るのを見ると、武官の目つきが途端に変わる。
「汝は関係がなかろう」
怒りを押し殺したような武官の声である。
室内の田氏はふりかえって何かを言いかけたが、それより早く李平が口を開いた。
「私には医術の心得がある。ご母堂を診せていただけまいか」
なんだと、と、再び武官の表情が変わった。驚きと淡い期待のようなものが、その見開かれた目に浮かんでいる。
李平は、武官の言葉を待たずに、脇をすり抜けると、そのまま家の中に入った。
室内はやはり田氏のところとさして変わりはない。奥のほうに、老婆が寝かされていて、武官の家族がその周りを取り囲んでいる。
武官の父だけは、李平を見るなり色をなしたが、李平は平然として、老婆の横に座った。
――これはもう、長くはない。
ひと目で判った。
だが、病を得ているのは間違いなく、その病を除くことで、わずかばかりでも延命ができるという望みがある、と李平は見た。
李平は老婆の腕や身体のあちこちを触り、その病巣をさぐる。
武官や、その家族、そして田氏や鈴も、ただ黙ってそんな李平を見守っていた。
しばらく、触診を続けていたが、ふと李平はその手を止め、
「暫時待たれよ」
と言って、ふいと武官の家を出て行った。
残された一同は、狐につままれたような顔を互いに見合わせる。
――あの者は、虚言に窮して逃げたのではないか。
と、武官が言いかけた時、李平が戻ってきた。
「白湯を」
というと、再び老婆の側に座り、懐から白い紙に包まれた薬を取り出した。
李平はその薬を口に含むと、受け取った白湯をすすり、老婆を抱き起こして唇を寄せ、それを直接口内へ流し込んだ。
老婆の喉が動き、すべてを飲み込んだのを確かめると、再び寝かせる。
「これで直近の重篤からは逃れられよう。だが、安静にせねばならないのは、これからも変わらぬ」
李平はそれだけ言い残して、さっさと帰っていった。
残されていた者は、しばらく茫然としていたが、田氏がはっと我に返って、鈴に、
「ここは私が残る。お前は李子と家で待っておれ」
と言って、鈴を帰した。
夜が明けると、早速田氏が戻ってきて、既に起きていた李平に、
「汝の薬が効いた」
と喜びを満面にあわらした。
死の淵にあった武官の母は目を覚まし、重湯をすするまでに快復したのだという。
「これで婚礼は成る」
と田氏は鈴に言うと、鈴は飛び上がって喜んだ。
そんな様子を、李平は、ただ黙って見ている。共に喜ぶ気にはなれなかった。
李平は目を窓の外に移すと、まだほの暗い明け方の空を見た。
――いよいよ戦雲が濃い。
李平の耳には、地響きを立てて行軍する燕軍の兵馬の音が聞こえてくるようだった。