其の四:李平怒りを買う
夜になると、田氏は、一人の男を伴って帰ってきた。
その男は武官で、鈴の婚約者なのだと言う。
鈴は、男を見るや、頬を染め、小躍りしながら夕餉をよそいに行った。
武官の男は、微笑をもってその後姿を見送ってから、李平をじろじろと見ると、たれか、と田氏に聞いた。
「先生の弟子、李子だ」
と田氏は武官の男に紹介した。
李平は師の書いた木簡をしっかりと見てはいなかったが、どうやら師は、田氏がかつて師事した者の名を騙って李平を寄こしたらしい。李子の子とは、先生くらいの意味である。
「張先生のところに、このような者がいたか」
と武官が言ったから、田氏とは共に学んだ同門だったのだろう。
李平は、自身に向けられる冷たい視線も意に介さず、李です、とだけ言って、勝手に引っ張り出して読んでいた田氏の書に視線を戻した。
武官もそれっきり李平へ興味を示さず、完全に無視して、田氏と話しだした。
「どうやらまた敗れたらしい」
武官は迎撃に出た斉軍の劣勢の噂を聞いたという。
日々届くのは敗報ばかりなのだ、と武官は目に憂いの色を浮かべた。
「母の病も篤くなるばかりだし、これからどうなるのか」
武官の顔はますます曇る。
田氏が、その力なく落ちた肩を叩く。
「これから妹を嫁がせようというのだ。汝がそんな事でどうする」
そう田氏が励ますと、そうだな、と武官は無理な笑顔をつくった。
そんなやり取りを、李平は冷ややかに聞いている。
――どうせ、皆死ぬ。
この武官にしても、死相が浮かんでいる。
幸いにして、鈴にはその死相が見えないため、恐らく婚礼は成らないだろう。婚礼を前に燕の軍が邑を囲み、きっとこの武官は戦死する、と李平は見た。
「燕軍も心配いらぬ。この李子がいるからな」
と突然、田氏は李平に水を向けた。すると、それまで路傍の小石程度にしか李平を見ていなかった武官が、ほうと、目を向けてきた。
――この田氏の信用ぶりはどうだ。師はどのように私を紹介したのやら。
内心、李平は苦笑した。
さしずめ、田氏にとっての太公望だ、とか、管仲だ、などと吹いたのであろう。管仲とは、かつて桓公を覇者たらしめた名臣中の名臣の名である。
武官は、田氏の言に乗せられたようで、にわかに興味の目を李平に向けてきた。
「李子よ。燕を退ける秘策があるなら教えてくれ」
良策なら太守に進言する、とまで言ってきた。
「燕には勝てぬ。適当に抵抗しておいて、退路を保ち、速やかに斉都へ退くのが良いだろう」
と、李平はあっさりと答えた。
李平からしてみれば、本当の事である。おそらく、斉は燕によって、滅亡寸前にまで追い込まれるだろう。
しかし、当然ながら武官は顔を真っ赤にして怒り出した。
その憤りは凄まじく、李平の顔にむかって怒声をぶつけ、なだめようとした田氏にまで何事か怒鳴ると、さっさと帰ってしまった。
ちょうど夕餉を運んできた鈴の顔が、泣き出さんばかりになっている。
「李子よ、いきなりあれはまずかろう」
と田氏は苦笑したが、鈴だけはぷいと横を向いて、口を利かなくなった。気にするな、と田氏は李平を気遣ったが、しかし事はそれで終わらなかった。
翌日、何と、武官は鈴との婚約を破棄する、と言ってきたのである。
よほど李平の言ったことが腹に据えかねたのだろう。一方的に田氏も李平と同じ考えだと決め付け、そんな家の娘は要らぬ、と言ってきたのだった。
「奴は気が立ってそう言っているだけだ。あと数日もすれば、考え直すさ」
田氏はそう言って、妹を慰めた。
李子も気に病むことはない、と李平にも心遣いを見せた。
もともと、気にもしなかった李平なのだが、鈴の落ち込み様を見るに、さすがに責任を感じてきた。とは言え、燕軍と戦えばどうせ死ぬ男だ、などと鈴に言ったところで、慰めにも何にもならない事は、さすがに李平にも分かる。
長い仙人暮らしでその辺りの機微にはすっかり疎くなった李平は、鈴が居ない時を見計らって、どうしたらよいかを素直に田氏に聞くことにした。
「気にするなと言っただろう。男女の仲だ。我々ではどうしようもない」
と田氏は、一笑した。
仕方ないので、李平は自分で考えることに決め、とりあえず武官の家へ行ってみた。そこは田氏のところとほとんど同じような住まいである。
戸を叩くと、年老いた男が出てきた。武官の父親であろう。
武官は留守であったが、父親は李平の名を聞くと、これまた武官と同じように怒りだし、箒を掴むと、李平へ向けて振り下ろしてきた。
武官の父もかつて武官であったらしく、その振りはなかなかに鋭いものであったが、いかんせん年寄りである。李平は難なくかわすと、失礼、とだけ言い残して、その場を立ち去った。
田氏のところに戻った李平が武官の家での一件を話すと、田氏は腹を抱えて哄笑し、鈴はそのまなじりを吊り上げ、顔を覆って泣き出してしまった。
「義父上にまで嫌われた」
と泣き叫ぶ妹を、田氏は笑いながらなだめたが、その笑いが鈴には許せなかったらしい。こうして口を利いてもらえない者がまた一人増えたのであった。
「このままでは、燕が来るまえに、うちが滅んでしまう」
と、田氏は、妹が怒って食事の用意をしなくなった境遇を茶化しながら、ぐうぐうと腹を鳴らす。
李平は食事を摂らなくても死ぬことは無いが、さすがに田氏はそうもいかない。
外で飯を、と誘おうとも思ったが、問題はそこではないという事は間違い無さそうなので、やめておいた。
――あの武官の怒りをどうにか鎮めねばならん。
人の心が無い李平には、難問である。
かといって、自らの非を認め、斉は燕に負けない、と伝えたところで、まるで事態は改善しないであろう。
そうして身じろぎ一つせずに考え込んでいる李平を、いよいよ鈴は怪訝な目で見るのであった。