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其の三:田鈴

 田氏には妹がいた。

 鈴、というのが、その名である。

 田氏と二人暮らしをしており、李平が訪ねた時分は出かけていたが、夕になって帰ってきた。

 鈴は珍客に驚いたが、兄の、


「斉を救う知恵者だ」


 というのを聞いて、そうですか、と言って簡単に挨拶し、そのまま夕餉の準備を始めた。

 鈴の年の頃は、十代の半ば、といったところであろうか。


「なかなかの器量良しだろう」


 と田氏は笑顔をつくったが、李平からは既にそうした感覚が消えている。

 ああ、という曖昧な返事に、少しだけ田氏は不満げであった。

 しかしながら、長らく人の食するものを摂ってなかった李平にとって、鈴の作る食事は、意外に口に合った。その事を伝えると、田氏はようやく満足いった顔になり、自慢の妹だ、と胸をそらす。

 田氏はそれから鈴へ、


「李子はこれからしばらく我が家に住むことになる」


 と伝えた。

 鈴は心得たもので、はい、と答えると、夕餉の器を洗いに家を出て行った。

 驚いたのは李平である。


「一緒に住むなど、聞いておらん」


「斉を救うのが、一朝一夕にできるわけがなかろう。見ての通りの貧しい暮らしだが三人が食べる分には困らぬし、こうして客を泊めることは良くあることなのだ」


 田氏は平然として言う。

 李平は返す言葉が見つけられず、しばらく考えてから、


「すまぬが厄介になる」


 と頭を下げた。

 斉を救うのが師から与えられた使命であるならば、李平はそれを果たさねばならず、そのためには、田氏のような知己は必要であった。

 田氏は当然、と言ったふうに頷くと、これからの斉について、李平に問うた。

 話は夜遅くまで続いた。


 翌朝になると、李平と鈴を残し、田氏は仕事で邑城へと出かけていった。田氏は位の低い役人をしている。

 当然、家には鈴と李平が残った。


「鈴どの。早々に逃げる準備をしておいたほうがいい」


 李平は朝餉を下げる鈴にそう言った。燕軍は間近に迫っているのである。


「異なことを申されます。李先生は、この鋸をお救いいただけるのではなかったのですか」


 鈴はそう言って口を尖らせた。

 こういう仕草も、人は可愛いと思うのだろうか、と李平は不思議な思いで見ながら、


「鋸は小さく、兵も少ない。恐らく、斉都からの援軍も間に合わず包囲され、あっさりと陥落する」


 と無表情に言った。

 包囲されれば、門は固く閉ざされ、逃げようにも逃げられなくなる。その前に脱するべきだ、と李平は言ったのである。

 鋸は、というより、斉は、隆盛を鼻にかけている節があり、かつて散々に攻めた燕を甘く見ている。小国である燕ごとき、篭城して援軍を待てば、容易に撃退できる、という幻想を皆思い描いていた。それは、鈴でさえそのようであった。


「そういう話は、兄にしてください」


 そう言って、ぴしゃりと話を打ち切った。

 

――もう話したのだがな。


 と、李平は昨夜遅くまで田氏と語り合った事を思い返した。

 田氏は燕を見くびることは無かったが、鋸が落ちることは考えていないようであった。既に斉都から迎撃軍は発せられているし、包囲されたとて、援軍はすぐにやってくる、と楽観している。

 

――だが、敵は燕だけではない。


 その事が、なぜもっと危急の事として考えられないのか。

 今回の燕は、韓、魏、趙、秦との連合軍なのである。

 確かに斉の強さは凄まじく、他国をたびたび破り、隣接する宋を攻め滅ぼし、まさに向かうところ敵なし、と言えた。実際に、斉と対等に戦えるのは、西方の強国、秦くらいのものであろう。

 とは言え、秦であっても、今回の連合軍にも加わっていることでも分かるとおり、趙や魏と結んでたびたび斉に侵攻してきている。仮に斉が燕率いる連合軍を退けたとして、果たしてその後、再び襲い掛かってくるであろう秦に対抗できるだけの余力が残っているだろうか。独力で秦を跳ね返せないとなると、もう斉が頼るべき国は見当たらなくなってしまう。


――あるとすれば、南の楚だが。

 

 楚は南に位置する大国である。だが、その楚にしても、秦の名将、白起によって、いまや西方の版図を切り取られており、国力を大きく減じている。秦と対抗するとなれば力は借りられそうだが、もはや往時のような強さは楚には無い。

 と、そこまで考えてから、李平は自分の中に、おかしみを感じた。


――俗世を捨てた身でありながら、こんな事を考えるとはな。


 およそ国家からは最も遠いところにある仙道の自分が国策を考えるなど、滑稽としか言いようが無い。それに、いかに師が斉を救えと言ったところで、肝心の斉に聞く耳がなければ何も始まらない。李平には、それを覆してまで斉の目を覚まさせようという情熱もない。


「まあ、なるようになる」


 と言って李平は、鈴に憚りなく、ごろんと横になった。


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