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其の二十六:下仙李平

 



 記憶というものは、時の経過と共に、次第に淡く色を失って、その輪郭を不明瞭にしていく。

 かつて覚えた感情もその記憶に直結しているから、昔に感じたことであっても、やはり記憶に引きずられて、ぼやけていってしまう。

 では、もっと長久の時間が経つと、人はどうなるのか。


――人は、人らしさを忘れてしまう。


 四方は霧に霞む山に囲まれ、眼前にある湖は遠く煙る空を映し、わずかな波もなく、鏡面のように静まっている。

 李平はそのなかにあって、じっと湖面を見つめていた。


「戻ったか」


 ふいに背後から聞かれた声に、李平は振り返らない。声の主である師は、静かに笑ったあと、


「田単は自ら王にならず、斉王を迎えたな」


 と言った。

 

「当然のことです」


 李平はきっぱりとした口調でそう返す。またしても師の音の無い笑いが背後であった。

 燕軍を斉から追い出した田単は、そののちしばらく斉都にあって政務を取り仕切っていたが、頃合いを見計らって新たに立った王を迎え、自らは臣下の礼をとった。田単は斉王から安平君に封じられ、斉の宰相に任ぜられていた。

 李平が当然だといったのは、田単が王を名乗らなかった、ということである。そうした生臭い野心からは田単は隔たったところにいる。

 

「師にお聞きしたい」


 李平はあらたまって聞いた。師が頷くのを李平は背中で感じた。


「なぜ私を斉につかわしたのですか」


 ずっと気になっていた事である。なぜ斉であるのか。そして、田単と出会わせたのか。本当に滅亡の淵から斉を救うのが、李平の使命であったのか。

 それに対し、師は声を出して笑った。

 

「かつて呂尚どのに頼まれておったのだよ。斉に危難が迫ったとき、救いの手を差し伸べてくれ、とな」


「まさか」


 呂尚とは、周王朝を開いた武王の軍師、太公望のことである。確かに太公望は斉の始祖ではあるが、今の斉王は太公望の子孫ではなく、とっくに田姓の王に取って代わられている。もし太公望の頼みどおりに斉を救うとするならば、その前でなくてはならないはずだ。


「師はとぼけておいでだ」


 李平の言葉に、師は何かを言いたげであったが、結局なにも言わなかった。李平の心に、苛立ちのようなさざなみがたった。  


「それに、私は斉を救ったとは思いません。いずれ斉は滅んでしまうでしょう」


 斉はかろうじて滅亡から逃れたとはいえ、国力は大きく減じている。いつまた他国の侵略にあうか判らず、そうなれば今度こそ滅亡は免れないであろう。

 李平はうつむいた。いったい、斉を救うための戦いとはなんだったのか。多くの犠牲を出しながら、果たして何を守ったと言えるのか。

 師はふたたび笑い声をあげると、穏やかに口をひらいた。


「人が必ず死ぬのと同じで、滅びぬ国などないのだ」


「確かにそうかも知れません。しかし、それでは、あの戦いは無駄だったということになってしまいます」


「生まれ、戦い、そして死ぬ。それが人というものだ。国もまた人によって成り立っている。人が人として生きることは、果たして無駄といえるのか」


 そこまで聞いて、李平ははっとした。

 その驚きに似た感情は、人というものを、あらためて知った、というのもある。それと同時に、実は人にこだわっているのは師のほうではないか、ということでもあった。師がたわむれに言った太公望の約束というのも、まったくの虚言ではないかも知れない。

 にわかに頭上から、師の声が響いてきた。


「限りある命であるからこそ、かりそめであってでも、人は喜びを知ることができる。仙人として、人の理から隔たるということは、煩わしさから逃れることでもあるが、同時に喜びからも逃れることになるのだ」


 顔を上げた李平は、いつしか自分が平伏していることに気が付いた。


――これは、いつかの時とまったく同じだ。


 いつかの時とは、はじめて師と会った時である。手の上では、小さな蟻が指の間を乗り越えようともがいていた。あたかも時が逆流したように、すべてはあの時のままであった。

 すべては師の術であったのか。どこからどこまでが幻であったのか。

 師の言葉が、脳に直接語りかけてくるかのように落ちてきた。


「李平よ。今ならまだ引き返せる。仙人になるための骨がない以上、仙人でもなく、人でもない存在となるか。それとも、人として、人の世で生きるか」


 李平は目を閉じ、斉で過ごした日々を思い浮かべた。

 浮かび上がる像のひとつひとつが鮮烈で、生き生きとした光に包まれている。その光の中心には田単がいて、そして鈴がいた。彼らの悩み、苦しみ、そして喜び。常に殺伐とした戦乱に覆われた日々ではあったが、誰も希望を捨て去ることはなかった。むしろ、戦乱のなかであったからこそ、誰もが懸命に生き、その命の光を激しく輝かせていたとさえ思われてくる。


――だが。


 李平は決然とした眼差しを師に向けた。


「私はすでに人の世を捨てた身です。人にはもう、戻りませぬ」


 胸には、田単と、そして鈴の姿があった。月明かりの下、鈴と結ばれることを拒んだとき、すでに李平は人の世との決別を決めたのだ。田単と鈴との別れは、すなわち人の世との別れでもあった。その決断は、なによりも厳格で、厳粛でなくてはならない。


「そうか」


 という師の声が聞こえた。そう思ったとき、とたんに李平から見える景色がぐるりと変わった。

 気付けば、また李平は静まった湖のほとりに立って、湖面を見つめていた。周囲には霞がかった山々がつらなっている。

 あたりに、師の姿はなかった。

 すべては夢であったのか判然としない。だが、自らが人であることを捨て、神仙の道に留まった、ということだけは判った。

 李平は視線をまわし、遠く斉の地を望んだ。そして、斉でのできごとを、その胸にしまった。




 周囲の山脈には霞みがかかり、足元の湖は鏡面のように静まっている。遠くから時折聞かれる鳥の悲しげな声の他は、常に静寂に満たされていた。

 李平はそのなかにあって、湖面に映りこんだ自らの姿をじっと見つめていた。

  

「さて。では、次はどこに行ってもらおうか」


 ふいに背後で聞こえた師の声に、李平は苦笑した。




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