其の二十五:楚邑の酒場
斉から程近い楚の一邑。
そこの人々の表情は暗く沈鬱であった。それというのも、秦の猛烈な攻勢によって、楚軍が連敗を重ねているとの話が聞こえてきたからである。その噂には、秦軍が楚の都にまで達するのではないか、というものまであった。本来は大国であった楚ではあるが、秦によってその版図を削られ続けている。
さらに悪いことには、楚が他国に救いの手を求めようとも、秦の戦略によって楚は外交的に孤立させられていた。唯一結んでいたのが斉なのであるが、その斉にはもはや頼ることは難しいであろう。何しろ、楚王が派遣した将が、あろうことか斉王を殺してしまったのである。
――斉の恨みは強いに違いない。
現斉王から見れば、楚は父の仇でさえある。斉に近いこの楚の邑では、斉の民の憎悪の声が風にのってよく聞かれた。
「まさか斉が滅びず、燕を追い返すとはな」
人々は口々にそう言った。そこには、斉からの復讐に対する恐れがある。
斉が蘇ったのは、まさに奇跡であった。即墨の田単が、燕将の騎劫を撃ち破り、それまで奪われていた七十城を、またたく間に奪い返したのである。
田単が騎劫を破ったのは、奇想天外な計であった。
――火牛の計。
と呼ばれるその策とは、千頭の牛を集めてその角に鋭い剣を結び、尾に火をつけて燕の陣へと放つ、という信じられないものであった。
即墨から偽りの降伏を申し入れられていた燕軍は完全に油断していた。夜であったこともあり、燕軍は陣を襲ったのが牛だとさえ判らなかったであろう。得体の知れぬ敵襲に、燕の陣は大混乱に陥り、燕兵は泡を食って逃げに逃げた。当然それを即墨の兵が見逃す訳がない。それまでたまりにたまった鬱憤を晴らすかのような激しい追撃によって、燕軍は壊滅し、騎劫は討ち死にした。
勢いにのった田単は、奪われた邑を取り返すべく一気に反撃に出た。占領された斉の邑は次々に燕に背き、田単はあっさりと七十城を取り返したのであった。
楚の邑の片隅にある小さな酒場。楚の民も、田単の動向を気にかけている。
――田氏は、このまま王を名乗るのだろうか。
誰からともなくそうした言葉が聞かれる。
田単は斉の邑を奪い返したのち斉都に入り、奪還した七十城の政治をおこなっていた。斉王は燕が去ったあとも、楚に近い邑にこもったままである。誰の目から見ても、田単が斉王になろうとしていることは見え透いていた。だが、楚にしてみれば、実の父を殺された恨みを強く抱く斉王よりも、そうした感情を持っていないであろう田単のほうが斉王としては都合がよい。
楚と斉がふたたび誼を通わせることができれば、迫り来る秦の猛威にも光明を見出せるかも知れず、逆に言えば、楚としてはそれしか道は残されていないようにさえ思われる。
こうした話に溢れている酒場を、突如として鋭い怒声が切り裂いた。
「田氏が王を名乗るわけがなかろう」
怒鳴った男は気色をあらわにして立ち上がった。酒場に満ちていた喧騒がぴたりと止んだ。
その男は田単の話をしていた者たちを激しく睨みつけている。睨まれた者たちは、はじめ驚いた顔をしていたが、やがて口元をだらしなく緩めてあざ笑った。
「田氏は斉王を差し置いて斉都に入り、政務を取り仕切っていると聞く。野心があるのは判りきっているではないか」
それを聞いた男はさらにまなじりをあげた。
「まずは混乱を鎮めるために政務を代行しているに過ぎぬ。私には判る」
そう言い返すと、今度は酒場に嘲るような大笑が起こった。
「私には判る……? 一人で満足に歩けもしない奴に、どうしてそれが判るというのだ」
酒場の者たちは口々にそう言って、また嘲笑した。男は杖を使って立っていた。足が悪いことは一目でわかる。
笑われた杖の男は眼光に殺気を込めると、傍らにあった剣に手をかけた。これには、酒場の男たちも顔色を変えた。
「やる気か」
数人が席を立つと、一斉にすごんだ。同時に、関わり合いになりたくない周囲の者が、潮が引いたように、さっとその場から離れる。異様な空気が酒場に広がった。
そんな一触即発である所に、ふらり、と入ってきた者がいた。明らかにこの邑の者ではない雰囲気がある。
その旅人らしき者は、酒場の異様な雰囲気に憮然とした。
「酒をのみにきたのに争われてはかなわん。ここの全員に酒を振舞うということで、この場はおさめてくれぬか」
旅人はそう言うと、大金を卓に積んだ。
諍いに関わりのない者からすれば思わぬ幸運である。にわかに酒場に歓声がおこり、空気が一変した。杖の男と対峙していた者たちも、そんな中にあっては、片意地を張るわけにもいかず、ただで酒が飲めるならと、固めたこぶしを緩めて渋々ながらそれぞれの席へ戻った。
そこで初めて杖の男は旅人へ視線を向けた。
顔色がすぐに変わった。
「汝は……」
男は旅人に見覚えがあった。表情に乏しい顔と、切れ長の目。
旅人は男に席を勧めると、自らはその向かいに座った。男は信じられないという顔である。
「どうしてここが判った」
旅人はそれには答えず、店の者に酒を持ってこさせた。
「鋸以来だな。もう五年になるのか」
旅人はそう言いながら男の杯に酒を注ぐ。その杯には目もくれず、男は旅人をじっと見ている。
「何をしに来た」
「鈴どののことだ」
平然と言う旅人の言葉に、男は複雑な表情をした。苦しさと懐かしさが混ざったような、言いようのない顔である。それから男は目線を逸らし、下を向いた。
「元気にしておるのか」
暗い声である。対する旅人の言葉は、変わらず平坦である。
「斉都で汝を待っている」
男は一瞬目を上げたが、すぐにまた俯いた。
「そんなはずはあるまい。私はもう死んだものと思われておろう。それに……」
二人の視線が卓に立てかけられた杖に注がれた。杖では、楚の邑から斉都まで行こうというのはまず無理である。男が言いたいのはそれであった。
「転戦に転戦をかさねて重傷を負い、人に担がれてようやくこの楚の邑に逃れたのだ」
男は悔しさをにじませた後、手の中の杯をぐいと干し、大きく息をついた。
「それに、今の田氏の妹では、満足に歩くこともできぬ私など、つりあうはずがあるまい」
そもそも田氏が許さぬであろう、と絞るような声で言った。旅人は再び男の杯へと酒を注ぐと、その目つきを鋭くした。
「汝こそ田氏を見くびっておるのではないか。なぜ田氏が即墨に篭ったのか。それは功名や、もちろん斉王のためなどではない」
そう言う旅人の切れ長の目を、男は目を上げにらみ返した。
「では、なんだと言うのだ」
「汝のためだ」
旅人の言葉は意外であった。男は唇を動かしたが、わずかに息が漏れるだけで、声はでなかった。
「田氏は鋸で汝を見捨てたことを、ずっと悔いていた。圧倒的不利な状況でも将を請け、最後まで即墨を捨てなかったのは、同じ過ちを繰り返さないためだ」
男は下を向いて黙り込んでいる。旅人はわずかに酒で口を潤した。
「武官よ、斉都へ行け。田氏と鈴どのが待っている」
「李子……」
目を上げた男――鋸の武官の目の前に、李子と呼んだ旅人の姿はもう無かった。突如として消えたことに驚いた武官は思わず立ち上がった。だが、その驚きのあまり、立ち上がる足がもう杖を必要としなくなっていることに、すぐには気付かなかった。