其の二十三:月光
「こんな夜更けに酒など、戦時下だというのに、油断なさっているのではないですか」
鈴は、肩をいからせながらも、二人の下女と共に、酒と肴の準備をはじめた。
むろん、篭城の最中であるので、酒も貴重で、肴といっても豊富にあるわけではない。
将軍となった田単は、下女を二人雇えるようになり、敵に包囲去れているとはいえ、暮らしぶりはずっと良くなった。それでも酒という奢侈に対して口うるさいのは、戦時下にあるというだけでなく、鈴の性格からであろう。
「まあ、たまには良かろう。邑もまだ、互いの子を交換するなどというほど飢えておらぬのだから、大目に見ろ」
田単はそう言って妹をなだめながら、下女から酒を受け取ると、向かいに座った李平の杯に、なみなみと注いだ。
余談ではあるが、互いの子を交換する、というのは、それを大人が食うためである。肉親は食べにくい。それで家々で交換し、他家の子を食うのである。篭城の末、落城寸前となった邑などではしばしば行われた悲劇である。
「李子さまも、李子さまです。兄上を諌めるのが、軍師さまのお役目でしょうに」
鈴は、そう言って、李平をも睨む。
が、李平も取り澄まして、
「酒を飲んだほうが、良案が浮かぶという事もある」
と言って、田単の杯に酒を注いだ。
それから田単は、鈴のへも杯を勧めた。
「鈴。もう酒を飲んでもよい年頃だろう。たまにはどうだ」
「いりません!」
ぷいと横を向く鈴だったが、李平からも勧められると、ついに断りきれずに、卓につき、
「一杯だけですからね」
と、杯を受け取った。
即墨が燕に囲まれてからというもの、こうして三人が顔を合わせる機会は随分と少なくなっていた。
将である田単と、その補佐である李平は、常に敵の動きに目を光らせておらねばならず、その間、鈴一人だけが家に残された。
かつては婚約者を失い、暗く塞ぎこんでいた鈴だったが、このところはようやくその暗闇から抜け出せてきたようで、笑顔も見られるようになった。
――これも、李平のお陰だ。
と、田単は思っている。
鈴が李平の事を想うようになったことに、田単は気付いていた。
新たな恋心が、悲しみから鈴を救ったのだ、と妹を見ていても判る。鈴の笑顔は、李平に最も向けられているからだ。
さらには、李平が、鈴の事を憎からず思っていることも、田単は知っている。
――私は嫁など養えぬ……か。
鈴を嫁に、と言った田単の言葉に、李平はめずらしく取り乱した。もし、本当に嫁が要らなかったら、李平ならばはっきりそう言うだろう。『養えぬ』というからには、養えることができるならば、嫁に欲しい、とも考えられるのではないか。
そうした田単の思惑を他所に、鈴は軽く一杯の酒を飲み干すと、席を立とうとした。
「待て待て。本当に一杯で行くやつがあるか。李先生に酌をしろ」
「……わかりました」
李平の事となると、鈴はいつしか素直になるようになった。そうしたところも、しっかりと田単は見抜いている。
鈴は恥らうような表情を浮かべると、李平のすぐ隣につき、空になった李平の杯に酒を注いだ。
「なかなか様になっておる。まるで夫婦のようではないか」
田単が言うと、鈴は、明らかに酒のせいではない程に頬を赤らめ、
「いやですよ、兄上」
と、上機嫌に言うのであった。
――これでいい。後は二人に任せるだけだ。
田単はそう内心で呟くと、次々に杯を重ね、
「もう飲めぬ」
と言って、ひっくり返って眠ってしまった。むろん、寝た振り、である。
そうした田単の様子にあきれた鈴は、
「お風邪を召しますよ」
と言って、兄を起こそうとしたが、田単は唸るだけで、一向に起きる気配がない。
「知りませんからね」
と、ついには放ってしまった。
鈴は、再び李平の方へ目を向けると、李平の杯に酒を注ぐ。
「戦況はいかがですか」
鈴は聞いたが、李平はいつ聞いても、
――難しい。
としか言わない。だから鈴も、今度もそう答えるものだと思って、何気ない気持ちで聞いたのである。
ところが、李平は明言した。
「斉が勝つ。兄上によって」
「え? で、では、何か動きがあったのですか?」
李平は、そういう事だ、と言葉少なく答える。
だが、勝つと聞けば、鈴も詳しく聞きたくなるものである。
「詳しくお話くださいませんか?」
との頼みに、李平はそっけない。
「機密ゆえ、軽々しくは話せぬ。が、間違いない。斉は燕を追い返す」
「それは嬉しいですが……」
と鈴は表情を複雑なものに変えた。
「李子さまは、どうなさるのですか」
斉を救う、という使命が李平にあることを、当然鈴は知っている。だが、それが果たされた時、李平はどうするのか。
鈴から見ても、李平は権勢を欲する人間には見えない。それこそ、隠者のような雰囲気さえある。斉を蘇らせた功によって、権力の中枢に駆け上ろうとする姿は、この李平には似つかわしくない。であれば、答えはおのずと一つしかない。
次に李平が口にする言葉を、鈴は固唾を飲んで待った。
「私はこの即墨を離れる」
――ああ。
やはりそうだった、と鈴は内心で嘆息した。
自らの役目を終えた李平は、鈴の目の前から去ってしまう。それは、誰も口にする事ではなかったが、鈴には判っていた。恐らく兄である田単にしてもそうだったであろう。
李平は、鈴の顔を見ることなく、酒をあおった。
窓からは月の青白い光が差し込んでいる。その明かりに李平と鈴は照らされていた。空になった李平の杯に鈴が再び酒を注ぐ。
「ご返杯だ。鈴どのも」
李平はそう言うと、鈴の手から酒の入った器を受け取ろうと手を伸ばした。
「あ」
ふっと、李平の手が鈴の手に触れる。鈴は固まったように器から手を離さない。自然、二人の手が触れ合ったままになった。
「鈴どの」
低い声で李平が言った時。鈴に触れている李平の手の上へ、さらにもう一方の鈴の手が置かれた。細い鈴の指に込められた力が、次第に強いものになっていく。
「嫌……」
鈴は呟いた。その瞳は、まっすぐに李平を見ている。少しずつ、その瞳が潤んでいく。
「行っては、嫌」
つっと、鈴の頬を光るものが流れた。二人で持つ格好になっている酒の器が落ち、がたりと大げさな音がする。床に流れ出す酒もそのままに、鈴は李平の手に指を絡める。
「李子さま……。鈴は、鈴は……」
鈴の顔が、李平のそれに近づいていく。互いの吐息がかかるほどの近さ。音も無く鈴は瞳を閉じた。
次の瞬間、鈴の身体は強い力で引き寄せられた。李平の腕に抱かれ、胸の温かさをその頬で感じた。痛い程に鈴の腕は抱きしめられている。だが、それが言いようも無い喜びとなって鈴の身体を満たしていく。鈴も同じように、力の限り李平の身体にしがみついた。
だが、やがて李平は腕にこめられていた力を緩めると、そっと鈴の身体を引き離した。鈴は目を開け、李平を見た。李平は鈴と目を合わせると、すぐにその視線を逸らした。
「すまぬ」
一言だけそう言うと、李平は床に転がった酒器を拾い上げ、底に残った酒を手ずから杯に注ぐと、ぐいと飲み干し、大きく息をついた。
「私は鈴どのを幸せにはできぬ」
「李子さまと一緒ならば、私は幸せです」
食い下がるように言う鈴。そこには決然とした色がある。だが、李平の目は、変わらず悲しい色をたたえている。
「私は人であって人ではない。鈴どのと共に人の生を歩んでいける者ではないのだ」
李平は仙道である。人とは違う理の中を生きている。
鈴はやがて子を産み、年老いて死ぬ。だがその時、李平は今とまるで変わらない姿のままでいるだろう。年老いていく鈴を見るのが辛いのではない。連れ添った者の死を見取るのが辛いのではない。
――人として、痛みを分かち合う事ができない。それが辛いのだ。
李平には既に人であった時の記憶はほとんど残ってはいない。だが、思うにかつての李平は人としての痛みを厭い、絶望し、そしてついには逃れるために仙道になったのではないだろうか。少なくとも師に弟子となるのを頼み込む時の李平は、人の世を激しく憎んでいた。
生きる事は痛みを伴う。しかしその痛みがあるからこそ、人は喜びを感じることができる。悲しみの先にある幸せを願うことができる。
――痛みから逃れ捨て去った私に、それを望む資格が果たしてあるだろうか。
そう思って、鈴の姿を見るに、李平の心は潰れんばかりになった。いつもは気丈な娘が、俯き、肩を震わせている。
「判って欲しい。私は、鈴どのの幸せを願っているのだ。愛おしいからこそ……」
李平は心に浮かんだ言葉をそのまま言った。
自分勝手な言い分かも知れない。だが、偽らざる本心であるし、それを虚飾する訳にはいかなかった。
ふと、室内を照らしていた灯火が消えた。月明かりだけが鈴を照らしている。
「李子さま……」
次に鈴が涙に濡れる顔を上げた時。
李平の姿はかき消え、ただ杯だけが月光に照らされ、寂しげな光を返していた。