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其の二十二:不落

 

 燕の侵攻から、二年が経ち、三年が経過した。

 その間、楽毅率いる燕軍は次々に城を落とし、斉にある城の、ほぼすべてとなる七十城をその支配下においていた。

 だが、即墨は落ちなかった。燕の兵は言ったであろう。


――なぜ落ちぬのか。


 また、


――たった一城粘ったところで、どうなると言うのか。


 と笑ったかも知れない。正確には即墨と、斉王の篭る邑の二城だけが燕の支配から免れていた。斉王の邑に関しては、楽毅が斉人の感情を考え、あえて落とさなかったとも言える。だが、即墨はいかに燕が猛攻を仕掛けようとも、どうしても陥落させられなかった。

 ついには斉都にあった楽毅までが出張ったのだが、斉をここまで追い詰めた名将をもってしても、やはり即墨を落とすことはできなかった。

 やがて楽毅は、その厳格な表情のままで、


「即墨を守る将は、何者か」


 と左右に聞いた。


「田単と申す者で、もとはきょで小役人をしていた、との事です」


――鋸だと?


 楽毅の表情が変わった。

 左右の者は、なぜ楽毅が驚いたのかが判らなかったであろう。だが、楽毅の胸には、かつて味わった言い知れない不安が再び首をもたげていた。

 三年前。陣中で、楽毅の馬車が忽然と消えた。

 ささいな事と片付ければそれまでだが、蟻の這い入る隙もない自らの陣で、馬車が消えるなどという事は考えられることでは無い。誰かが盗んだとしても、燕の兵ならば、盗んだ馬車をどこへ隠せる訳でもなく、また他国の兵であれば、必ず燕兵が気付くはずである。

 そんな不可解な事が鋸を攻める前夜に起こった。それを想起したとき、楽毅は、即墨が落ちないという事が、どういう事なのかを理解した気がした。

 つまり、


――理由は判らぬが、結果がそうだ、と思うより他にない。


 という事だった。

 田単と、楽毅の馬車の関連性は判らないが、あれこれ考えても無駄なような気がした。ただ結果だけ捉えれば良い、と楽毅は割り切ったのである。そこには人知を超えた何かがある、と勘のようなものが訴えたのかも知れない。

 それに、即墨一城だけが残った状況では、体勢に影響するものではない、という事も考えにはあった。


「斉都へ引く」


 楽毅はついに自身での即墨攻略を諦め、後事を託した将に、


――包囲だけは続けるように。


 と言い置くと、大軍を引き連れて斉都へと帰って行った。

 こうした情報は、間諜の手によって、すぐに即墨の田単と李平が知る所となる。

 

「楽毅が去ったか。包囲は続いているが、状況は好転したな」


 田単は、少し痩せた顔を緩ませた。長い篭城生活で、食糧も切り詰められているため、皆わずかに血色がよくない。それでも、兵たちはいまだ高い士気を保ったままであった。田単への信頼もあるのだが、ここまできたら家族を守りきろうという意地もあった。

 何よりも、いかに兵が傷つこうとも、李平の仙術によってたちどころに蘇るのである。燕兵は実際の即墨の兵の何倍もの人数を相手にしていると錯覚しただろう。

 また、即墨を包囲している燕軍の動きは、事細かに田単に把握されていた。これは間諜によってもたらされた情報だけではない。いつ、どこの門に攻勢を仕掛けてくるのかといった事まで、すべて李平が言い当ててしまうのである。田単はその言葉どおりに兵を厚く配置すれば良く、果たしてそのすべてを跳ね返してきた。

 即墨は包囲されていながら、燕軍を手玉に取っていたのである。

 

「だが、やはり楽毅が斉にいる以上は、いつかこの即墨も落ちる」


 李平はいつもどおり感情なく言った。

 だが、田単もその事は判っている。斉でまだ燕に降っていないのは、即墨と斉王の居る邑の二城だけなのである。四方すべてが敵の状態で、いつまでも持ちこたえられるものではない。


「楽毅を追い出す手は、あれこれ試しておるのだが、上手くいかぬ」


 田単は息をついた。

 楽毅を斉から去らせる手段。それは間者を燕に赴かせ、楽毅の悪評をばら撒くというものであった。

 いわく、


――楽毅が斉のほとんどの城を落としておきながらまだ二城残しているのは、落とせないからではない。自らが斉王になるため、斉の民を手懐けようとしているのだ。


 これを燕王が信じれば、たちまち楽毅は罷免され、新たな将が送り込まれる事になろう。敵が楽毅でなければ、斉にも勝機はある。

 田単としては、こうした策をとるのは本意ではなかった。だが、そうまでしないと勝てない程に斉は追い詰められており、またそうまでしないと勝てない程に楽毅は名将なのである。

 ところが、燕王の楽毅への信任は田単が思っていたよりもずっと篤く、燕王はその噂を伝えた臣を、讒言した罪で罰した、とまで聞こえてきた。

 

「完全無欠だな、楽毅は」


 田単は苦笑するよりない。楽毅ほど王に信用されている将というのも珍しい。だが、それも楽毅が清廉な人物だからこそであろう。


「軍略に長け、政治にも辣腕を振るい、人物は高潔。そんな楽毅に私が勝てるのか」


 おまけに、即墨は孤立無援である。思わず田単は自嘲した。


「よせ、田単。それよりも、汝に言っておきたい事がある」


「何だ」


 李平はその場ですぐには言わず、田単を城壁の上へと誘った。

 すでに日は落ち、空には月が昇っていた。満月だった。


「篭城戦が始まる前日も、こうして汝と城壁に上ったな」


 田単は感慨深げに言った。その頃と同じように、邑の外は燕兵で満ちている。

 即墨に篭城してから、既に二年の歳月が経っていた。


「それで、言っておきたい事とは」


 田単は話を促した。

 それでも李平はすぐに言わず、ためらう素振りを見せたが、やがてその重い口を開いた。


「近く……斉王が死ぬ」


「何だと!?」


 李平の言葉に、田単は唇を振るわせた。

 月明かりに照らされた二人の影は、しばらく動かない。


「馬鹿な……」


 言ったきり、田単は言葉が続かない。

 これまで、李平が言ったことが外れたことはない事は、田単も良く知っている。李平の言葉が、まるで斉王に仕掛けられた呪いの言葉のように、田単の耳にまとわりついた。

 正直、田単は斉王に対し、特別な忠誠心を持ってはいない。むしろ、斉をここまで困窮させたのは、すべて今の斉王のためだと思っている。

 かつての斉の繁栄をもたらした孟嘗君を追いやり、強兵を頼んで他国に攻め入って、強い恨みを買った。斉がたった二城になった今の状況は、すべて斉王の驕慢から起こったことである。

 しかし、現斉王がいかに暗愚であったからといって、斉という国を放り出して良いとは、田単は思わない。

 斉王が死ぬ、という事は、すなわち斉の滅亡を意味するのである。斉が滅んでしまえば、これまで即墨で奮戦してきた意味が無くなってしまう。


「これまで私についてきてくれた兵士や民に、何と言えば良いのか……」


 膝を落としかけた田単の肩を、李平は支えた。


「待て。斉は滅びぬ」


「気休めはよせ。斉王の死は、そのまま斉の滅亡ではないか」


 田単は力なく言った。

 だが、李平はかぶりを振る。


「次王が立つ。必ずだ。今、私がこんな話をするのは、もし斉王が死んだという報を聞いても、汝が取り乱さぬためなのだ」


「本当か」


 ようやく田単の目に力が戻り、李平の支えを離れ、よろめきながらも自らの足で立った。

 

「嘘など言わぬ。田単よ、汝が斉を救いたいというのなら、私の言を信じて欲しい」


 李平は、その切れ長な目で、田単の小さな目を見た。月明かりが映りこんでいる。


「信じる。汝が言ったことは、外れたことがない」


 田単の言葉に頷いた李平は、夜空を見上げ、星空を指差した。


「見よ、東の空にあった巨星が、急速に光を失いつつある。そして、新たな星が生まれようとしているのだ。これは次王に違いない」


 李平に説明されても、空には無数の星があるため、田単にはどれがどの星なのか、見分けがつかない。

 とりあえず、頷いた。


「以前、燕に災いあり、と言ったのを覚えているか」


「覚えている」


 篭城戦の前夜の事である。

 田単はその言葉を聞いて自らを奮い立たせた事さえ記憶している。

 李平は東に向いていた指を、北へと転じた。


「北の巨星が、その勢いを弱めている。これは、おそらく……」


「燕王が死ぬのか?」


 田単の問いに、李平は小さくうなずいた。


「むろん、燕は新王が立つことになるが、その星というのが、どうも不穏なのだ」


 李平の話に、田単は目を見開いた。


「まさか……」


 李平は静かに頷くと、視線を空から田単へと戻した。


「ここからが、本題なのだが……」


「本題?」


 田単の表情が怪訝に曇る。

 李平が言いたかったのは、斉と燕の趨勢ではなかったのか。 


「私の役目はどうやら終わったようだ」


「何?」


 田単は耳を疑った。

 李平の言う言葉の意味が判らない。


「私は斉を救うために汝のもとへ来たのだ。どうやら、その使命は果たせそうだ、という事だ」


「何を言う。今が最も苦しい時ではないか。斉にはもう二邑しか残っておらぬ」


 いや、と李平は首を振った。


「田単。もう判っているだろう。斉はまた蘇る」


 田単には、返す言葉が無かった。

 李平の言う通り、田単には、斉を救う方法がもう判っていた。それは、李平の言った占星の意味をすべて理解したからである。


「引き止めても、無駄なのか」


「すまぬ。このまま、即墨を去ろうと思う」


 二人の間に沈黙が流れた。

 頭上の満月が、ゆっくりと傾いていく。


「最後に頼みがある」


 田単は絞り出すように、言った。


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