其の二十一:即墨篭城
張氏が睨んだとおり、田単の祭祀の話は瞬く間に広まり、即墨で知らぬ者はいなくなった。それは、当然、兵たちも同様である。
自然と兵たちは勢い付いた。
――我らは勝つ。
そう信じて疑わなくなった。士気も天を突くほどに高く、誰もが田単の命令を真摯に聞いた。なにしろ彼らにとっては、紛れも無く天の声だからである。
「降伏勧告の使者が帰って行った。いよいよだな」
城壁から燕の陣を眺めながら、李平は隣の田単に言った。燕軍が即墨の太守に送った使者は降伏の言葉を持たずに帰った、という事で、それはすなわち篭城戦が始まる、という事である。
田単は、軽く頷いた。
「兵の士気はこれ以上ないほど高い。燕もそうやすやすとはこの邑を落とせまい。……それより」
と、田単は李平へ苦笑を交えた顔を向けた。
「あの鳥の大群はなんだったのだ。私は、いくらかの鳥を集めて欲しいと言っただけだぞ」
祭祀で群集した鳥に驚いたのは張氏や即墨の民だけではなかった。田単もまた、あまりの鳥の数に肝を冷やした一人なのだった。
「あれくらい派手な方が効果的だろう、と思ったまでだ」
李平は悪びれる様子もなく、平然と言ってのけたため、田単もそれ以上言うのをやめ、
「汝にはかなわぬ」
と、快活に笑うのだった。
ところで、祭祀によって集まった鳥を見たのは、何も即墨に居た者たちだけではなかった。
即墨を包囲していた燕軍も、上空に起きた変異をしっかりと認めていたのである。
――あれは何だったのか。
燕の将は、内心でそう呟いた。
突然暗くなった空に、燕の兵はすっかり動揺してしまった。誰も見た事の無いほどの数の鳥を見れば、誰でも恐ろしくなって当然である。なにせ、その邑を今から攻めようというのだ。
だが、ひとまずは燕将が叱責することで、兵は一応の落ち着きを取り戻してはいる。しかし、説明のつかない変事に、どうにもすっきりとしないでいるのは、兵ばかりではなく燕将も同じであった。
――ともかく、予定通り攻撃を開始するしかない。
言いようのない不安が拭い去れない。それでも、そんなあやふやな理由で即墨の攻撃を中断する訳にもいかなかった。
――鳥が何だというのだ。単なる偶然に過ぎぬ。むしろ即墨の兵の屍をついばみに集まったのだろう。
燕将は自らにそう言い聞かせると、意を決した。
「全軍、攻撃開始」
燕将の合図で、太鼓が叩かれた。たちまち燕兵は声を上げ、即墨の城壁に殺到した。
だが。
――兵の動きが鈍い。
燕将は、自らの兵を見るに、瞬時にそう思った。
これまで連戦連勝を重ね、士気の高い燕兵であるはずなのに、今即墨を攻める兵の動きはあまりにも緩慢だった。
本来、攻城戦は守る側が圧倒的に有利であり、攻めるのは難しい。燕将の思った通り、動きの悪い燕兵は、城壁からの弓矢に狙い撃ちにされた。次々に燕兵の死傷者が増える。
燕将は、必死で兵を鼓舞するのだが、反応は鈍い。
「引け」
やむなく燕将は、引き上げを命じた。
即墨の城門の前には、燕兵の屍が無数に残された。
――飲まれたか。
燕将は歯噛みした。
攻撃開始直前に起きた邑の異変に、すっかり燕兵は浮き足立ってしまっていたのである。燕将はそれに気付いていたにも関わらず、攻撃開始を強行したことを悔やんだ。
燕将はわずかに退いて軍を立て直すと、訓示を行い、即墨恐れるに足らず、と改めて兵に言い含めた。
斉都が落ちた今、即墨には頼むべき援軍も無いのである。いわば、絶海の孤島と言って良い。今見せている抵抗も、あとどれだけも続かないのだ。燕将はそんな意味の事を言って、兵を励ました。
それを聞いていた燕兵にも、次第に表情に余裕が出てきた。
――良し。
兵に本来の落ち着きが戻ったことを感じた燕将は、攻撃を再開した。
だが、はかばかしい戦果は上げられなかった。城壁の上からは依然として矢の雨が降り注ぎ、またしても、燕軍の被害は拡大した。
燕将は首を捻らざるを得ない。
――即墨の兵は一度、野戦で散々に敗れている。どうしてここまで抵抗できるのか。
どうやら、即墨の残存兵力を見誤ったのが失敗だったのだ、と燕将は思い至った。この燕将の頭の動きは鈍くない。さっそく力攻めを諦めると、邑を囲う長期戦に切り替えた。
後は、即墨の兵の士気が落ちるのを待って再び攻めるか、降伏勧告するか、である。
だが、この方法では時間がかかり過ぎる。邑によっては、一年や二年持ちこたえることも珍しくはない。斉には、まだ燕が攻め取るべき邑が残っている。何より、
――楽将軍に、なんと申し上げれば良いのか。
との思いも、燕将には強かった。
この燕将に東方攻略を任せたのは、斉都から離れられない楽毅なのである。抜擢と言っていいその期待に、なんとしても応えたかった。即墨で足踏みをしていては、さらに東にある邑を攻め取るのに、この先どれだけかかるか分からない。とは言え、功を焦って即墨を力攻めにするのは愚かである。
「即墨の包囲を続ける」
燕将は、腹を決めたように左右に言った。
まだ攻城戦は始まったばかりなのである。早々に落ちればそれで良し。そうでないならば、応変に戦略を立てれば良い。
燕将は、そうした思いで、それまでよりもやけに大きく見える即墨の城壁をねめつけたのだった。
初戦は、即墨が上手くしのいだと言って良かった。
兵の士気が高いのもあるが、先頭を切って戦う田単の姿が、兵の心を一つに束ねているというのも健闘の理由の一つであろう。だからこそ、敵は力攻めを早くも諦め、長期戦法に切り替えてきた。
これは、兵の少ない即墨にとっては、願ってもない展開であった。
「敵の動きから目を離すな。攻めてこないからと言って、絶対に油断するな」
田単は自ら城壁を何度も回り、防備についている兵たちに繰り返し言った。また、自ら弓矢の手入れや運搬なども進んでやった。こうした姿が、兵の心を打たない訳が無い。
兵たちは皆、
――さすがは天意を受けた将軍だ。
という目で田単を見た。
そして、その眼差しは、田単の横に居る李平にも注がれている。李平もまた天の声を聞いた軍師なのだ、と兵たちは信じきっている。
「良心が痛むか」
兵の様子を見回る田単は、並んで歩いている李平に、悪戯っぽい笑顔を見せた。
「別に」
いつもながらの、李平の平坦な言い方である。
田単は、愉快そうに小さく笑った。
「本当にしてしまえば良いのだ。燕の攻撃を防ぎきれば、我々が天の声を聞いたかどうかなどという事は、どうでも良い事になる」
「汝は本当に聞いたのだろう。夢の中で」
李平は苦笑まじりに言った。
当然この会話は他の兵に聞かれる訳にはいかないため、低い声で交わされている。
「ところで、ひとつ提案があるのだが」
李平は、珍しくそう田単に言った。
田単も驚いたふうに小さな目をわずかに開いた。
「何だ」
「これから数ヶ月……いや、数年になるやも知れぬ篭城が始まる。だが、篭ってばかりいては、見えぬものも出てくる」
「見えぬもの?」
謎かけのような李平の言葉を、田単は面白そうに繰り返した。
「情報だな」
田単の言葉に、李平は頷く。
「邑外へ通じる抜け道をいくつか作っておくのだ。そこから間諜を放つ。城内に見張りを立てておけば、もし敵に抜け道を発見されたとしても、その部分を素早くつぶせば済む」
田単はすぐに同意し、さっそく兵に命じて抜け道を掘らせた。
やがて完成した坑道から、数多くの間者を放った。ある者は斉都へ、ある者は即墨以東の邑へ、と四方に情報の網をめぐらせたのである。
この事が、後々に斉の運命を大きく左右することになるのだった。




