其の二:斉の田氏
斉という国がある。
周王朝をひらいた武王の軍略の師、太公望によって建国された国である。
斉は、東は渤海に接し、古来より中華の光の当たらぬ未開の地であり、東夷と呼ばれる蛮族の支配するところであったのだが、太公望が国を開いてからは、その善政によって発展し、押しも押されぬ大国に成長した。
以来、春秋時代には桓公がでて、諸侯に覇をとなえ、主である周王朝に代わって天下を牛耳るなど、国勢は盛んであった。時代が戦国にくだると、君主は太公望の姓である羌氏から、もともと臣下であった田氏に代わったが、その勢いは変わらなかった。
ところが、今、斉は脅威にさらされている。
かつて斉が滅亡寸前にまで追い込んだ燕がその恨みをはらさんとし、諸侯による連合軍を結成するや、猛然と斉に侵攻してきたのであった。連合軍はすでにいくつかの邑を落とし、東進を続けている。
そんな燕軍の進軍する方角に、鋸という邑があった。
――またどうして師は、こんな邑に私を遣わすのか。
李平は、鋸の邑にあって、そう思わずにはいられなかった。
邑内を往来する人々は、老若男女に至るまで死相が浮かんでいるように、李平には見えた。おそらく、あと数日のうちに、この邑は燕軍に攻められ、皆死ぬのであろう。
それであっても、李平の心には、人々への憐憫だとか、戦に対する嫌悪のような情はわいてこない。生あるものが、土に還る。それは獣や虫、草木などと何も違うものはない、と李平の目には映った。
それよりも、この邑に住むものに使いしたところで、その者は、あと数日のうちに骸にかわるだろう。それに一体、何の意味があるのか。
――とにかく、さっさと用事をすませよう。
あわただしく道を急ぐ人々の流れに逆らいながら歩く李平の足取りは重い。
目的の住居はすぐに見つかった。今にも崩れそうな粗末なつくりで、邑のはずれにたたずんでいる。
李平は懐から木簡を取り出すと、そこに書かれている簡単な地図を見て、本当にこの居でよいのかを再確認した。
どう見ても間違いがなさそうである。
「どなたか」
李平が呼ばわるまでもなく、内から男の太い声があり、隙間から人の顔がのぞいた。日中だというのに陽の入らない暗がりのなかで、その者の目だけが異様に光っている。
「師の使いできた。李と申す」
李平は名を言わず、姓だけ名乗った。
名前を呼ぶことは、呪いをかける事に通じると考えられており、通常名を呼んで良いのは、両親か本当に親しい者くらいである。
李平は名乗ってから、師から預かった木簡を差し出した。すると暗がりから声も無く、ぬっと手が伸び李平の木簡を掴んだ。太くたくましい男の腕である。
「では、これにて」
李平は、男が木簡を受け取ったのを確認すると、そのまま後ろを向いて去ろうとした。
だが、すぐさま男の太い声があった。
「遠路ご苦労だった。中へはいられよ」
男の野太い声に、不思議と李平は安心感を覚えた。それに、師がわざわざ書簡を渡したい相手がどんな男なのか、見てみたいという思いも芽生えた。僅かなやり取りのなかだが、李平はこの男に興味を持ったのである。
「何のもてなしもできぬが」
と、男が言うとおり、室内には何もなかった。中央に小さな卓が置かれ、土の床にはむしろが敷いてあるだけである。そして室の隅には書物がうずたかく積まれていた。
李平は最初、
――書生か。
と思った。
だが、まじまじと男を見るに、ただの書生では終わらない者だと確信した。器を見た、と言っていいかもしれない。
卓を挟んで、二人はむしろに座った。
「田、と申す」
男はそう名乗った。
大きな顔に小さな目鼻立ちで柔和な印象をもたらすが、眉が太く意思の強さを感じさせる。李平の見た目の年齢とさして変わらないようである。
この男からは、死相が読み取れない。
――田氏か。……この邑を救うとしたら、この男か。
李平は無感情にそう思う。
「この度は、斉を救って頂けるということで、誠に痛み入る」
田と名乗る男はそう言った。
李平は耳を疑う。
「斉を救う?」
当惑する李平の表情を見て、田氏も同じ表情になった。
「先生から、聞いておらぬのか」
「いや、何も聞かされておらぬ」
なんと、と田氏は呟き、李平に木簡を示した。急ぎ目を走らせると、果たして、李平が斉を救うために尽力する、という旨の内容が書かれている。
――師にしてやられた。
李平は苦笑いを浮かべた。
こうなっては、木簡の内容に従うしかない。なにより師の顔を立てなければならないからである。
しかし、李平は思ったことを言うことにした。
「この鋸は、あと数日のうちに燕軍に包囲されるだろう。そうなれば、城壁も砂塵のようなもの。とてもではないが、もちこたえられまい」
李平の率直なところである。
しかし、田氏は表情を変えない。
「それを何とかするのが、汝であろう」
と、あまりにも事も無げに言ったため、李平は腹も立たなかった。
――面白い男よ。
李平は、田氏に妙な親しみを覚えたのだった。