其の十九:城壁に上る
「やはり私は将には向いていない」
訓示を終え、兵たちを持ち場に行かせた田氏は、冴えない顔で李平に言った。
「何を言う。まだ戦ははじまっておらん。ここで何もしなければ凡将だ。だが、ここからどうするかが優将との分岐点ではないか」
と、李平はいつもどおり感情の混じらない口調で言った。それでも田氏には希望となったのか、目に光が戻りつつある。
田氏はふっと表情を和らげると、顔を李平に向けた。
「燕の攻撃は間もなくだろう。どうだ、その前に作戦会議でもないが、城壁から、敵の様子を見てみないか」
「いいだろう。彼を知り己を知れば、と言うからな」
「孫子か」
田氏は笑った。
彼を知り己を知れば百戦して殆うからず――かの有名な兵法書『孫子』の言葉である。
孫子とは春秋時代の孫武のことで、彼もまた斉の生まれであり、現斉王と同じ先祖を持つ。しかし孫武は後に斉を出奔し、南の呉に仕えた。
「実は、私も斉王の遠縁にある。もちろん、外れのほうだがな。つまり、孫子は私の先祖でもある」
城壁へ向かう途中、田氏はぽつりとそう言った。
くりかえすが、斉王の姓は田である。もと斉の君主は建国した太公望の羌姓であったが、臣下の田和によって王位を簒奪され、以来、斉の君主は田氏となった。現斉王から数えて、五代前の話である。
「そうか」
李平は無表情に言った。あまり興味がない、というのもあるが、田氏の血縁については、大体察しがついていた。
田氏にしても、王の遠縁にある事を誇りにしている訳ではない事は、その乾いた言い方でも良く判った。彼はただ事実を言ったまでであろう。
二人は城壁に着くと、上にのぼった。すでに日が落ちようとしている。
防衛についている兵が、田氏に気付き、あっと声を出すと、そそくさと下がっていった。二人は兵と入れ替わるように城壁の上へ出ると、邑外を眺めた。
「やあ、いるいる」
李平が緊張感なく言って、辺りを見渡す。
夕日が迫るなか、燕兵が整列を始めている様子が城壁の上から認められた。その動きから、訓練が良く行き届いていることが判る。
まだ燕軍から降伏勧告が来ていないことを考えると、恐らく攻撃開始は翌朝以降になるだろう。
「あの中に楽毅がいるのだろうか」
田氏は刺すような夕日に目を細めながら、続々と並ぶ敵を見ていた。
「いや、今は斉都を離れないだろう。支配下に置いた邑の統治もあるし、南に斉王も居るのだからな」
と李平は予想を口にした。
楽毅からしたら、楚との国境の邑に逃げ込んだ斉王からは目が離せず、斉都周辺の平定にもまた、手が離せないだろう。
「ふふ。判っている。言ってみただけだ」
という田氏の表情は、いつしか暗さが無くなっていた。
「楽毅がいないのであれば、勝てないまでも、負けることはない。そうは思わぬか?」
という田氏の言葉は、強がりであろうか。それとも弱気が言わせた言葉だろうか。
即墨を取り囲んでいる燕兵は、ざっと見ても、田氏が預かる兵の何倍もいる。その上、即墨の兵は、将である田氏に心服しておらず、状況としてはかなりまずい。
李平は黙っていたが、田氏はさらに続けた。
「篭城であれば、敵の数はさほど大きな問題ではない。とすれば、課題はおのずとはっきりしている」
「兵の士気だな」
李平の言葉に、田氏は頷く。その表情からするに、どうやら吹っ切れてきたらしい。
唐突に将軍に担ぎ出された田氏の心情は、これまで目まぐるしく揺れ動いたに違いない。それがひと段落した今、その目の色は、李平の良く知る田氏のものに落ち着いてきている。無骨だが、真っ直ぐな、しかし、どこか人を食ったような抜け目の無さをたたえた小さな目。その色はさらに純粋な光を放ち始めていると、李平には見えた。
「不思議なものだ。鋸で小役人をしていた私が、斉の危難に際して、遠く即墨で将軍になろうなどとは……な」
田氏は笑顔を李平に向ける。
李平もまた、微笑を返す。
「斉を救うのは私だ、ということだったが、どうやらそれは、田氏が果たすことになりそうだ」
「いやいや。李子にも協力してもらわねばならぬ。汝が斉を救う、という話はまだ生きているよ」
二人は笑い合った。
そして、ふと、田氏は真顔になると、
「夢を見たのだ」
と言った。
李平は静かに田氏の話を待った。
「天の声のようだった。知恵者をつかわすゆえ、斉を助けよ、とな。その知恵者が斉を救うのだ、とも聞いた。そしてその日に、汝が現れたのだ」
「まさか」
李平は苦笑したが、田氏は真面目な顔のままである。
「私は信じている。現にこうして、将軍という重責を与えられたのだからな」
この時代の人々は、しばしば夢によって運命が変わる、という事があった。卜占が強い意味を持っていたのと同様で、夢もまた重視されたのである。また、夢を占うという事も良く行われた。
卜占に通じている李平であるから、もちろんそうした考えはよく理解できる。
「どうりで、私が斉を救うのだと言い張る訳だ」
と、李平はまた苦笑いを浮かべる。
田氏がすっかり自分を信じている理由が、これではっきりしたと李平は思った。
「しかしな、その夢が無くとも、汝とこうして即墨の城壁に立っていた、と私は思う」
田氏はそこで一度話を切ると、ぽつりと言った。
「単だ」
単、とはどういう意味か? 首をひねる李平に、田氏はにやりと笑いを浮かべる。
「田単。それが私の名だ。これからはそう呼んでくれ」
名を呼ぶことは呪いにつながる。名を呼んで良いのは、父母か、主君。またはよほど親しいものだけである。
田氏――田単が名を明かしたという事は、それだけ李平に信を置いているという事に他ならない。
李平は、心の奥がこそばゆくなる感覚をおぼえた。だが決して不快ではない。
「私は平。李平だ」
李平も田単の心に応じた。
二人は深く頷きあった。互いの信頼を確かめ合うような頷き方であった。
「李平よ。まずは兵の心を一つにせねばなるまい。だが、私には、それだけの力はない」
そう言った田単の言葉に、悲嘆はない。
「田単。既に策はあるのだな」
「汝の力を借りねばなるまい」
田単は星が見えてきた空を仰いだ。つられるように李平もそちらを見る。
「どうだ、李平。斉を示す星は」
「うむ。どうだろうか」
占星に話を向けた田単に、李平は口ごもり、はっきりとは答えなかった。
なぜなら。
――斉に凶事あり。
とあったからである。すでに燕によって、散々に攻められている斉を、さらに襲う凶事とは何であるのか。
だが、同時にもう一つの異変も見つけた。
「燕に災いがあるな。これは、追い風になりそうだ」
李平は燕についてだけ口にしたが、その表情は苦い。日が落ち、薄暗いなかで、田単はそれに気付いたかどうか。
「ならば、我らは耐えるだけ耐え、城を守り通すまでよ」
と、田単は鼻を鳴らしたのだった。
足元では、燕兵が包囲を完成させ、音も無く闇に融けていった。