其の十八:将軍田氏
張氏の申し出に、田氏は混乱した。
それもそのはずで、もともと田氏は鋸の小役人に過ぎず、たまたま、この即墨へ逃げ延びてきただけなのである。そこに将軍に取り立てられる理由はまるで見つけられない。
その事を言うと、張氏はご謙遜を、と笑った。
「田将軍は、遠い鋸より、燕兵に捕らえられることも無く、この即墨へと逃れていらっしゃいました。他の邑で逃げたものは、ことごとく燕の虜となったのです」
将軍が非凡な方であることは間違いない、と張氏は言うのである。
田氏は、恐縮した。
――まさか、私が将軍とは。
そんな田氏にかまわず、張氏はなおも続けた。
「将軍と共にこの即墨へ逃がれた三百人も、口々に将軍に胆知あり、と申しており、その威名は邑内に響いております」
これを聞いて、田氏はますます恐縮した。
張氏が言ったことは、世辞を含んではいるが、概ね事実であった。次々に他の邑が燕の手に落ちるなか、斉都以西から唯一逃げおおせた田氏の存在は珍しく、即墨ではそれなりに有名になっていた。そして、安平から即墨に至るまでに田氏を頼ってきた三百人の口も、その名を広めるために一役買っていたという訳である。
即墨で成功した張氏は、耳ざとく巷の噂を聞きつけ、すぐに安平で会った者だと合点すると、太守に田氏を推薦したのである。
「田氏よ、迷うことはない。請けよ」
と部屋の奥から言ったのは、横になったまま書から目を離した李平である。
ふりかえった田氏は、言うまでも無く弱り顔であった。
――簡単に言ってくれる。
将軍を請けるという事は、当然ながら即墨を守ることが使命となる。それはすなわち、燕と戦うという事で、つまりはあの楽毅と戦う事になるのだ。
――私が楽毅には勝てるだろうか。
楽毅は間違いなく後世に名を残す名将となるであろう。そんな将と渡り合える自信などない、というのが田氏の偽らざる本心であった。だが、わざわざ招聘に来てくれた張氏の顔に泥を塗ることになりかねず、それを言いよどんでいた。
田氏が口をぱくぱくとさせていると、李平は立ち上がり、
「どれ、安平の時のように、占をたてようか」
と言った。
目を輝かせたのは張氏である。
「おお、是非にお願いいたします。きっと吉がでるはずです」
と、張氏は自信満々である。
この張氏の自信はどこから来るのか。それが田氏には不思議である。だが、李平の占を信じて即墨へ至るや、一年にも満たぬうちに大夫にまで登りつめた張氏を考えれば、無理からぬ話かも知れない。
ともあれ、この時の田氏は、
――もし李子の占が吉と出れば、将軍を請けるよりなくなるではないか。
と、弱気に考えていた。
しかし、同時に運を天に任せようか、というような心持ちにもなってきたのもまた事実であった。
そもそもこの即墨に田氏たちが逃れてきたのも、李平の占によるものあるので、一度乗りかかった舟だ、という風にも考えられないではない。
そうした田氏の忙しい心中とは別に、表情も変えずに李平は筮占をはじめた。みな、固唾を呑んでその様子を見守る。李平の筮竹の音だけが室内に響いた。
「吉だな」
筮竹を置いた李平は、静かに言った。
喜んだのは張氏である。
「やはり、やはり」
と、何度も頷いた。
田氏はと言えば、李平に疑いの目を持って、
「間違いないだろうな」
と、煮え切らない。
「田氏よ。汝らしくもない。私が今まで、その場しのぎで虚言を弄することがあったか」
「それは……」
と李平に対して言いよどむ田氏に、張氏は相変わらず笑顔を絶やさず、
「では決まりですね。田将軍、即墨をなにとぞお守り下さい」
と、また恭しく、礼をとった。
それを見た田氏も、ようやく胆を決め、表情を決然としたものに変えると、
「承知いたしました。身命をかけて即墨を守ってみせます」
と、野太く答えた。
――やはり斉を救うは田氏よ。
この時、李平は田氏に潜む将器を感じた。それは田氏に初めて会った時に見た器が、顕在化しようとしているという事なのか。李平は自らの胸が静かに熱を帯びていくのを感じていた。
李平がそうした感慨に浸っているところへ、外から鈴が帰ってきた。
「あら、あなたは確か……張氏さま?」
きょとんとした顔の鈴は、果たして兄の身にもたらされた突然の幸運を信じるだろうか。
既に燕軍は即墨の包囲をはじめようとしている。
にわかに将軍となった田氏には時間がなかった。即墨の太守による任命もそこそこに、早速、邑内に残った兵を集め、新たに徴兵を行った。これによってでも、数的には、どうにかまし、という程度にしかならなかったのだが、追い詰められた即墨では、限られた戦力でどうにかするしかない。
「やむをえん」
そう言いたい田氏は、兵を集めると、ただちに訓示を行った。
「即墨を死守する。父を、母を、妻を、子を守れ」
と田氏は叫んだ。
田氏の声は大きい。雷鳴が響いたかのようであった。
――斉を守れ。
とは田氏は言わなかった。邑は城砦都市であり、その内部での結びつきが強い。田氏はその心情に訴えかけたのである。
田氏の訓示は将としての威厳と迫力は充分で、その熱意には、端で聞いていた李平も思わずうなった。
普通ならば、兵が奮い立つところなのであるが、即墨の兵の反応は鈍い。
――このままでは、勢いに乗る燕軍には勝てぬ。
田氏がそう思うくらい、即墨の兵には覇気がない。
それもそのはずで、半分は邑外の戦闘で敗れた敗残兵であり、残りの半分は訓練も満足におこなっていない新兵なのである。くわえて率いる将である田氏の事もあった。
――にわか将軍に、何が出来る。
と、兵たちの顔には書いてあるようだった。突然将軍になった田氏に心服する者は、即墨の兵にはいなかった。ましてや田氏が即墨に来てから一年ほどしか経っておらず、その間、邑城の重職にもなかったのだから、無理からぬ話である。鋸から見事逃げおおせてきた、というわずかな声名は、兵に命を投げ出させる程には至らなかった。
壇上から兵を見下ろす田氏は、相変わらず将の顔を保っていたが、李平はその額ににじんだ汗に、彼の心情を見た気がして、思わず嘆息した。
その頃、燕軍はまさに即墨を囲もうとしていたのだった。