其の十七:推挙
斉都を占領した楽毅は、北東方面へ軍を発し、その軍はいよいよ即墨まで迫った。
北東方面軍を率いているのは楽毅ではない。だが、率いる将の戦い方は手堅く確実で、即墨までの邑を見事に攻略してきている。彼は斉軍を侮るでもなく、恐れるでもなく、兵を鼓舞し、苦戦した部隊があれば速やかにそのほころびを埋め、逆に敵の備えに隙があれば、迷わずそこを突いた。良将であった。
そんな燕将が即墨を取り囲もうとしたとき、城門が開いた。
「まさか、出撃するのか」
すっかり篭城を決め込むものと思っていた燕将だったが、彼は慌てない。
即墨から出てきた斉兵を、じりじりと下がらせながら、迎え撃たせた。
「なるほど、斉兵も必死だな」
まさしく必死の形相で攻める斉兵に、次第に燕軍は押されはじめた。
燕将は、冷静に状況を見極めると、自軍の不利な部隊に救援を送り込み、斉軍の圧力への対抗を試みる。
「斉王が生きている、というのが効いたのか。斉兵に勢いが戻ったな」
燕将は左右にそう言って、苦笑いを浮かべると、乱れた戦列を整えるべく、次々に指示を飛ばした。
だが、やがて燕の中軍が持ちこたえられずに崩れると、そこから一気に斉軍が突撃をはじめた。燕軍は中央から総崩れとなった。
一度崩れると、軍を立て直すのは難しい。燕将は引けの合図を出すと、全軍は遁走しだした。
「敵は逃げるぞ、討て討て!」
即墨の守将は、ここぞとばかりに声を張り上げ、追撃した。彼の狙いは、燕軍を率いる将である。
一方、燕軍は逃げに逃げた。矛も盾も投げ捨て、無我夢中で遁走している。そして、それを追いかける斉軍も夢中で走った。
これまで敗報しか聞かなかった斉兵は、勝ちに飢えている。それゆえ、今回の勝ちをより完全な勝利で飾ろうと躍起になった。
しかし、それが命取りとなった。
追撃した斉軍は、やがて広い平地へと差し掛かったのだが、そこには燕の戦車隊が待っていた。
無数の戦車隊を目にした時、斉の守将は敵の策にかかった事にはじめて気付いたが、時すでに遅かった。平野は戦車の真価が最も発揮される地形である。
燕の戦車隊は、左右に展開すると、一挙に斉軍を包囲し、弩の雨を降らせたのだった。
「迎撃軍が壊滅した」
この報は絶望で即墨を覆い尽くした。
散々に叩きのめされた斉兵は、どうにか燕の包囲網を突破し、邑へと逃げ帰ったが、その数は出撃時の三分の一にまで減っていた。おまけに、兵を率いていた守将までが戦死していた。
――どうする?
即墨の太守は、決断を迫られた。降伏か、篭城か。
聞けば、燕の総大将である楽毅はむやみに殺生を行わない、という。もしかしたら、命は助かるかもしれない、と太守は考えないでもなかったが、一人、降るべきではない、と主張する者があった。
「斉王は、南方にてまだご存命であられる。もし、斉王が力を取り戻し、燕を追い返した時、どのようにして斉王に見えられるおつもりか」
太守は嫌な顔をした。
「そうは言っても、もう即墨を守る将がおらぬ。寡兵を率いて、汝が将として立つか」
嫌味な言い方である。
しかし、太守が言うのも事実だった。先の迎撃戦で、主だった将はすべて討ち死にしていたのである。
だが、抗戦を主張する者は、眉ひとつ動かさず、
「私ではありませぬ。一人、将に推薦したい者がございます」
「ほう」
太守は目を見開いて身を乗り出し、それは誰か、と尋ねた。
「その者は、遠く鋸から逃れてきた者です」
「鋸……」
太守はその地を即座に思い出せなかった。
「斉都のさらに西の邑です。そして、その者は安平を経て、この即墨に逃れてきました。次々に邑が燕によって落ちているなか、実はその者を除いて、他にこの即墨まで逃げ切った者は、一人もいないのです」
「安平と申したな。汝も安平から逃れて来たではないか」
太守は首を傾げた。
「そこでその者を知ったのです。そもそも安平からして、その者を除いて、無事に逃げ延びて来られた者はいませんでした」
「判った。汝はその者に見所がある、と申したいのだな」
「御意にございます」
むう、と太守は唸った。迷っているのか、視線があちこちに飛んでいる。
「その者の名は……?」
「田氏、と申します」
太守は、はた、と膝を叩いた。
「よかろう。はるばる鋸からこの即墨まで逃げおおせた、その強運に賭けてみよう。降るのは、それからでも遅くはない」
この太守の決断に、場の一同は驚いた。
――そんな理由で、どこの馬の骨とも判らない者に、我々の命運を託すのか?
そういった空気が流れた。
かといって、燕に降るのも嫌だったし、他に候補もいなかったため、口をつぐむより仕方がなかった。
一方の太守は満足そうに頷いている。彼の頭には、燕が勝っても斉が持ちこたえても、悪いようにはならないだろう、くらいの打算しかなかった。つまりは形ばかりの篭城、という事である。
そういったやりとりがあった事を、もちろん知らない田氏は、突然に家を訪ねて来た者を見て驚いた。
「あなたは……」
「ご無沙汰いたしております。安平では、お世話になりました」
そう挨拶をして上げた顔を、田氏は覚えていた。肉付きよく、人が良さそうに、にこにこと微笑んでいる。
――たしか……。
「張氏……!」
「左様でございます」
そう言ってまた深々と頭を下げた張氏は、貴人そのもののいでたちで、見るからに高い身分にあることが判る。
安平で会った時も卑しい身なりではなかったが、今目の前にいる張氏は、明らかに大夫であった。大夫とは、いわゆる貴族、である。
「お陰を持ちまして、即墨にて、取り立てて頂きました」
張氏はそう言って、家の奥で寝転がっている李平に目礼した。
「それはそれは、私どもも嬉しく思います」
田氏は張氏の変わりように、驚きを隠せない。
その張氏は、笑顔を絶やさぬまま、田氏に向き直り、
「こたびは、田将軍に、即墨を救っていただきたく、お迎えにあがりました」
と慇懃に言った。
「今、なんと?」
思わぬ張氏の言葉に、思わず田氏は聞き返すより他なかった。