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其の十六:即墨

 即墨は、山東半島の中ほどの辺りにある。

 田氏たちが道々で聞いたところによれば、どうやら燕軍はまず南方を攻めているらしい。

 そのため、斉でも東方に位置するこの即墨には、まだ燕軍は現れていない。だが、斉全体が立たされている苦境は、耳に入って来る。

 

――楽毅は、すでに二十五城を落としている。


 というのだった。

 斉にある邑城は、およそ七十四、五ある。という事は、すでに三分の一が燕に取られたという事になる。そのうえ、さらに軍を進めているという。

 恐るべきは楽毅であった。

 

「どうやら楽毅は占領した邑に善政をほどこしているらしい」


 田氏は嘆息しながら首を振った。

 かつて斉が燕を攻め、滅亡寸前まで追い込んだとき、斉は攻め取った邑に対して苛政を行った。そのため燕の民はそれを深くうらんでことごとく斉に叛き、結局斉は兵を引いた。残ったのは、燕の斉に対する深い恨みだけである。

 今、楽毅は斉が燕に対してやったことの、まさに逆を行っている。聞けば、楽毅の善政を喜ぶ声もあるという。


「楽毅によって、本当に斉は滅びるかも知れぬ」

 

 特別に高禄を食んでいた訳ではない田氏だが、やはり祖国の危難というものは耐え難いものがある。

 思わず李平を見て、


「そろそろ斉を救ってもらわねば、間に合わぬぞ」


 と、苦笑うしかなかった。


 田氏たちは即墨の外れに馬房のある家を買い、そこへ住んだ。鋸の頃よりも大きな家である。支払いは張氏からもらった大金で済ませたが、それでもまだ袋の中は空にならなかった。

 李平は鋸から勝手に持ってきた田氏の書を読み漁る日々を過ごしている。田氏も、今は即墨で役人の働き口を探していた。どこか落城前の鋸での日々が蘇ったかのようだ。

 ただ、鈴だけは、行方の判らない武官の身を案じ、暗く沈んだ表情のままである。


「生きている。大丈夫だ」


 繰り返し李平は言うのだが、鈴の心にある暗雲がまったく晴れるという事は無く、李平の言葉にひとたびは安堵の色を取り戻すものの、またすぐに塞いでしまうのであった。

 そんな折、吉報が聞こえた。

 なんと、斉王が生きている、というのだ。


「これで斉は蘇る!」


 田氏だけでなく、斉にあるすべての人が喜んだであろう。

 奇跡的に斉都を逃れた斉王は、他国へ亡命し、転々としたあと、斉と南の楚の境にある邑に入り、そこで再び政治を取り始めたというのだった。

 さらには、斉を助けるために南の楚が動き、将軍を派遣して、斉王を補佐することになった、という。

 

「これで楽毅は斉王を攻められなくなったな」


 田氏は喜びを隠さず言った。

 斉王のいる邑を少し南に行けば、もう楚である。攻められた斉王が楚へ逃げてしまえば、燕軍はもう斉王を追えない。領内に入った途端に楚軍が迎撃に出るのは火を見るより明らかで、そうした愚を楽毅は犯さないだろう。

 そして、田氏の予想は現実となった。

 斉王の立てこもる邑へ兵を出した燕軍は攻めきれず、街道に砦を築くと、そこで包囲を続けた。これで斉王は身動きが取れなくなったが、命を取られることも無くなった。

 王さえいれば、機を待ち、反撃できる望みはまだある。斉が生き残るとするならば、王を守って何とか今の苦境を耐え、いずれ訪れるであろう勝機を待つ以外にない。


「果たして、そうか」


 と言うのは、李平である。

 田氏は、おお、と面白いものでも見るかのような目つきをして、李平の話を促す。やる事が無く、田氏も退屈をしているのだ。


「楽毅は斉王の邑を攻め落とせないのではなく、斉王を生かしているのではないか」


 すなわち、すでに斉王自身には何の力もなく、燕にとっては脅威でも何でもない。あえて攻め滅ぼさないのは、斉の人々の恨みを買うのを恐れているからだ、と李平は言った。

 その証拠に、楽毅は占領した邑に善政をしいて民を手懐けようとしている。民にしてみれば、暮らしが安定すれば為政者は誰であっても良いのだ。


「楽毅の本当の目的は、斉を燕に変えることだ。それが成れば、勢力地図は大きく変わる」


 斉の版図が燕の物になれば、西の秦、南の楚、そして東の燕の三強時代となる。

 今、急激に勢いを増しているのは西の秦で、他国はその脅威に晒されているといっていい。そこで燕と楚が結べば、秦も容易には手が出せなくなる。

 そこまで聞いた田氏は、ううむ、と唸った。


「やはり楽毅がいる間は、斉は勝てぬのか……」


 悔しい声が田氏から漏れた。

 そんな姿を、李平は静かに見守っている。切れ長の目が、静かに光を放つ。


――そう。楽毅には勝てぬ。だが、戦わずして勝つ方法はあるのだ。


 李平と田氏がこうした話をしている間、即墨は平穏であった。

 だが、そんな時が長く続くはずも無く、やがて、戦乱の真っ只中に放り込まれることになる。


 燕軍全体の動きはどうであったか。

 楽毅は斉都にあって、斉王の立てこもる邑を包囲させながら、斉の各地へと兵を差し向けると、続々と城を落としていった。やがて斉王の邑を除く南方をほぼ平定すると、今度は北東へと兵を向けた。この時点で恐らく四十城近くが落ちていたであろう。

 そして、北東方面には、李平や田氏のいる即墨があるのだった。

 

「どうやら徹底抗戦するらしい」


 田氏が巷で、そう即墨の方針を聞いてきた。どうやら即墨の守将が、燕を撃退しようと息巻いているらしい。

 すでに燕が即墨へ向かっている話は、邑内では知らぬものがいなかった。


「また戦ですか……」


 鈴は、ため息と一緒に言った。

 即墨へ逃れてから、すでに一年半が経過していた。

 その間、鈴はずっと暗く塞ぎこんでいる。それは当然、行方のわからない武官の事があるからだった。

 斉の置かれた状況は、あまりに厳しい。邑の半分が燕の手に落ちた今、鋸から逃れた斉兵たちの運命は、考えるまでもない。


――きっと、李子さまは、私を気遣って嘘を言ったんだわ。


 これまで心の支えにしていた、李平の占。

 だが、連日聞かれる敗報は、その結果を否定するものばかりである。


――もう、あの人は生きてはいない。


 そう思うようになった。

 そればかりか、婚礼を約束しあった時の、武官に対する愛情というものが、次第に薄れているような気さえする。それに気付いたとき、鈴は自らを責めずにはいられなかった。


――いちどは嫁すことを決め、一生を夫に仕えることに捧げようとしたのに。


 その思いがまでが、嘘になってしまう。何よりそれが苦しかった。

 田氏はそんな妹に、鋸に残って最後まで戦おうとした武官のことを言えないままでいた。それは、妹が抱いているだろう最後の希望を断つことになってしまうことを恐れたからである。だが一方で、真実を伝え、帰らぬ者を待つ苦しみから解放してやったほうが良いのか、との思いもあった。そうして逡巡と決意が固まらないまま、田氏は月日を過ごしてきた。

 ある時田氏は李平を伴って出かけ、並んで歩きながら、その事を相談してみた。


「男女の仲は、我々ではどうにもできぬ、と言ったのは汝だろう」


 と、李平は取り合わず、かの者は生きている、と変わらず言った。


「だが、鋸が落ちて一年が経つ。その間、斉軍は敗れ続けている」


 武官が鋸を逃れていたとしても、生きている可能性は無いに等しい。そう考えるのが普通である。

 李平は面倒そうに、


「楽毅は苛政を行わないのだろう。そうならば、おそらく鋸の民は酷い目にはあっていない。大人しく武官が投降していれば、命もとられぬだろう。そう考えるのだ」


 と言ってから、欠伸をし、ぼりぼりと腹を掻いた。

 田氏はやれやれといった風に首をすくめてから、顔を真剣なものに変えると、


「李子よ。鈴をもらってくれないか」


 と、出し抜けに言った。

 さすがの李平もこれには表情を変えた。


「ば、馬鹿を言うな。私は嫁など養えぬ」


 田氏の目が光った。

 李平は珍しくたじろいでいる。

 

――ほう、言ってみるものだな。李子は、我が妹を、憎からず思っているらしい。


 妙な手ごたえを感じた田氏は、それ以上何も言わず、たまには酒でもどうだ、と酒家へと李平を誘った。

 その頃、燕軍は、凄まじい勢いで東へと攻め入っていた。


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