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其の十五:燕兵接近


 即墨までの道のりを半分まで進んだ頃であった。にわかに李平が鋭く言った。


「燕軍だ」


「なんだと?」


 東へ進む道には、軍影など見当たらず、また、背後にもそんな気配はない。

 しかし、李平の言葉が信に値することは、もう田氏には判っている。


「後ろか」


「そうだ」


 田氏が背後の空をじっと見るに、土埃に煙っている様子はなかった。

 だが、これまで李平がこの先起こることを言った時、それが外れたことはない。

 

――どうする?


 即座に田氏は考えた。田氏たち三人であれば、馬を飛ばせば逃げ切れるかもしれないし、どこか山にでも潜んでやり過ごすこともできる。

 だが、三百人以上も抱えているとなれば、そう簡単はいかない。道も一本道である。

 

――燕軍が迫れば、容赦なく置いていく。


 田氏ははじめ、そう言った。だが、本当にそうするつもりは、もう無かった。

 

「今から隠れて、間に合うと思うか」


 田氏は李平に聞いた。声に焦りがある。


「すぐになら、大丈夫だろう」


「よし」


 李平の言を信じた田氏は李平に馬車を停めさせ、後ろを向くと、すぐ後ろを歩いている者に声をかけた。


「これから、右手に見える丘陵へ入る。速やかに後ろの者に伝えよ」


 田氏からこの事を聞いた者は、はっとした顔をしたが、頷くと、すぐに後ろへとその伝令を回した。

 それを見てから、田氏は李平に右手に見える丘陵の方へ進路をとらせた。伝言を後方に伝え終えた者たちから、続々とその後ろに従う。

 丘陵は鬱蒼とした木々に覆われており、隠れるには好都合であった。しかし、馬車は森の中では動きづらい。田氏たちは、入り口の方に馬車を置いて木の枝で隠すと、馬だけを引いて、奥へと進み、そこに潜伏した。

 田氏に従う三百人も、理由が判らないながら、声も無く森に入った。

 ぞろぞろと街道から森へと入っていく隊列が消えた頃、李平は、


「様子を見てくる」


 と言って、来た道を戻った。丘陵の奥からでは、木々が遮って街道の様子は見えない。逆に言えば、街道からも、森に三百人も潜んでいるとは見えないであろう。

 李平は、丘陵を下りると、樹木の陰から街道を見守り、燕軍が通り過ぎていくのを待った。

 やがて、遠くから土埃を上げて近づいてくる者が見えてきた。


――来たか。


 燕兵と見られる一群は、どうやら偵察隊のようで、十人ほどの少人数であった。彼らは馬に騎乗し、どかどかと街道を走っている。

 

 ところで、馬車を用いず、直接馬に乗る騎馬は、本来中華の文化ではなく、北方の騎馬民族のものである。

 はじめ中華では、騎馬は野蛮な戦法ととらえられていたが、次第にその機動力が注目されるようになり、戦国時代には、戦車に取って代わり、歩兵と共に、軍の主力になりつつあった。

 ちなみに、中華でいち早く騎馬兵を取り入れたのは趙で、武霊王の時であった。

 武霊王は、騎馬に乗るのに都合の良い北方民族の服、胡服を兵に着せようとしたのだが、名誉を重んじる将兵たちは異民族の文化を嫌い、猛反発した。武霊王はそれでも諦めず、ついに騎兵を完成させると、趙兵の強さは全土に轟くことになった。


 さて、李平の目の前には、趙ではなく、燕の騎馬が走っている。  

 そのまま李平の前を通り過ぎるかと思われたが、ふと、先頭を走っていた騎兵が声を上げ、小隊がとまった。

 

――気付かれたか。


 李平は内心で苦く呟いた。

 偵騎を停めたのは、恐らく隊長であろう。その隊長と見られる男は、馬を下りると、まじまじと地面を調べ始めた。

 耳を澄ますと、彼らの話し声が聞こえた。


「大量の足跡が、ここらで消えている」


 というのだった。

 なるほど、勘のいい奴め、と李平は思わず感心した。

 だが、このままでは発見されてしまう。

 見つかって戦闘となれば、十人の兵の相手は厄介である。それに勝てたとして、一人でも討ち損じて逃がせば、すぐさま本隊に報告され、大量の兵が差し向けられる恐れもあるだろう。彼らと戦うのは、下策も下策である。

 偵騎の隊長は、あちこちを探ると、にわかに李平がいる森の方へと近づいてきた。

 と、次の瞬間、悪い偶然が起きた。

 一人の子供が、潜んでいた木々の間から転がり出たのである。田氏たちに追従してきた者たちの子供が、好奇心にかられて様子を見に来たものの、つまづき転んでしまったのだ。

 

――まずい。


 李平はすぐに目を閉じると、意識を辺り一帯に溶け込ませた。そうすると、草木から地を這う虫に至るまで、まるで李平の身体の一部のように神経が通ったようになった。さらに意識を深化させると、流れる風や空気といった目に見えぬものまで、李平の感覚の一部となった。

 転んだ子供の重さが、その下にある草を伝わって李平に感じられる。さらには、近づいてくる騎兵隊長、さらには街道で隊長を待つ騎兵までが、李平の意識下のものとなったのだった。


 不思議なことに、騎兵隊長の目には、転がり落ちてきた子供が映らなかったし、物音さえも聞こえなかった。さらには、後ろを振り返ってみると、先程まで気にかけていた、街道で消えた大量の人の足跡も、しっかりと確認ができたのである。

 

「どうされました」


 背後からの部下の声に、騎兵隊長は、いや、とだけ言って自らの馬へ戻って跨ると、再び東へと走り去っていった。

 子供は目をぱちくりとさせ、泡を食ってまた森へと駆け戻っていった。

 ふっ、と李平は軽く息をつく。どうやら騎兵たちの耳目は誤魔化せたようだ。

 李平は田氏の元へ戻ると、子供のことは何も言わず、


「燕の偵察騎だった。気付かれずに済んだ」


 とだけ言った。

 それからしばらくして出発した田氏たちだったが、念のため、途中で道を変えた。

 そのため、また予定からは遅れることになったが、幸いにして即墨に着くまで、燕軍に出会うことはなかった。


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