其の十三:安平の占
燕兵から逃れた馬車は、無事に安平の邑に入った。斉都から程近い安平であるが、まだ燕の手に落ちていない事は幸いであった。
安平に着くや、田氏はすぐに情報の収集にあたった。燕の動きを知っておかなければならない。
時間をかけて聞きまわった話を総合すると、斉都を落とした燕軍は、連合軍に宋の旧領である西方を与えると、単独で南方の邑を次々に落としにかかっているという。
この時点で燕、秦、魏、趙、韓の連合軍は事実上、解散していることになる。
そして、燕軍は南を平らげた後は東に転じ、やがて安平に迫るのだ、と、みな戦々恐々としていた。悪いことには、安平の太守は、燕軍がくれば真っ先に降るつもりだという噂も、まことしやかに流れていた。
「これでは鋸と同じだな」
情報収集をひと段落させ、安平の繁華街で食事をとるさなか、李平はいつものように他人事のように言った。
燕王は斉を深くうらんでいる。かつて斉が燕を攻めた時の復讐のつもりで、滅亡に追い込むまで、燕軍は去らないだろう。
そうなれば、やがて安平にも燕軍はやってくるのは間違いない。位置的に斉都から近い安平は、東征の手始めといったところだろう。
「同じどころか、戦う気がまるでないのだろう。鋸よりも酷い」
田氏はそう、ため息をつく。
戦わずして燕に降る邑が出てくるとなると、暗澹たる思いがする。このままでは、本当に斉は燕に滅ぼされてしまう。
「みな楽毅を恐れている。寡兵で斉都を落とすなど、並みの将ではないと、みな分かっているのだ」
田氏は苦く言った。
これまでまるで無名であった敵将、楽毅の名が、ここにきて人々の口から、鮮明に聞かれるようになった。むろん、恐怖の念を含んでいる。李平が言った通り、約千騎という僅かな兵を率いた楽毅は、にわかに斉都を攻め、いとも簡単に陥落させていたのだ。
――なんという男よ。
田氏は、舌を巻くよりない。まるで、楽毅という巨大な将器が、斉の全土を覆い、すべてを飲み込んでいくような像を思い浮かべた。そう考えると、斉の将来は暗い。彼に勝てる将は、斉にはいない。
――それにしても。
斉王がどうなったかが、依然聞こえてこない。
もし、王が捕らえられており、一族がことごとく殺されていれば、斉は滅亡に限りなく近い、と言える。
だが、そうした話を聞かないところを見ると、もしかしたら、斉王は逃げおおせているのかも知れないという希望も無いわけではない。
しかし、状況から考えれば、その希望も随分と頼りないものであることを、田氏もよく判っている。
「鋸から逃れた兵はどうなったのでしょう」
田氏よりもいっそう深刻な顔で、鈴が呟いた。箸が動いていない。
燕軍によって、次々に邑が落ちている事で、婚約者である武官の身の上が不安になったのであろう。
正直なところ、田氏はかの男が生きている可能性は絶望的だ、と思っている。
先に鋸を抜けた斉将は、同じく逃げ延びた兵をまとめ、再び体勢を立て直すつもりだ、と武官の男は言っていた。仮に武官が、あの落城寸前の激戦のなか、運よく鋸から脱し斉将の元にたどり着いたとしても、その部隊がいま無事であるかどうか。
恐らく、あらかじめ北門の配置を薄くしておいた燕軍が、待ち構えたかのように攻めかかったのではないか。そしてその攻撃には、連合軍も加わっていたであろう。攻城戦の途中で急に連合軍の兵が引いたのは、鋸から脱した斉兵をおびき出し、一気に叩くためではなかったか。
――楽毅ほどの将なら、そうするだろう。
と、田氏には悲しくも、確信めいたものがある。
だが、その事を素直に鈴に言うわけにもいかず、むう、と唸るしかなかった。
「それほどに気になるのなら、占をたててみようか」
思いがけない事を言ったのは李平である。
「汝は占もできるのか」
と田氏は言ってから、そういえば、鋸で李平が星を見て斉都に起きる異変を言い当てたことを思い出した。本気にしていなかったが、本当に李平は神仙の類なのかも知れない、という、一点のしみのような思いがにわかに大きく膨らんだ。
しかし、鈴は李平の仙術を頭から信じているらしく、顔を上げると、
「はい。あの人が無事かどうか、是非占ってください」
と真剣な表情で言った。
「では生きておるかどうか見てみよう」
そういい残し、李平はふいと店の厨房へ行くと、大量の箸を借りて席に戻り、じゃらじゃらと音を鳴らして手の中で混ぜ、大きく左右に広げた。いわば箸を筮竹に見立てての易である。
その様子を食い入るように見つめる鈴。李平は手にした箸をまじまじと見つめたままである。
「ど、どうなのですか」
たまりかねて鈴が身を乗り出し聞いた。掴みかからんばかりの勢いである。
「まあ、待て」
と言うと、李平は先程と同じように占を二回ほど行ったあと、ふうむ、と息を漏らした。
「どうなんだ」
今度は田氏が聞いた。
李平は表情を変えることも無く、
「恐らく、生きている」
「本当ですか? ……しかし、恐らく、というのは?」
鈴の顔が笑顔にほころび、それから困惑したような表情に変わった。
ちなみに、この時代の人々は占いを非常に重視しており、その結果は強く信じられていた。占いは天に伺いを立てる事であり、結果は天の声なのである。
「三度占い、二度は生きていると出たが、一度は死んでいると出た。おそらく生きていても、困窮しておるのかも知れん」
淡々と李平は答えた。
それでも、鈴にとっては、李平の言葉はまさに天の声である。両手で胸を押さえると、
――良かった。
と、つぶやき、一筋の涙が頬をつたった。
ところで、このやり取りを、離れた場所で見ている者がいた。
その者は、繁華街の往来に立ち止まり、李平たちの会話にじっと聞き耳を立てていたのだが、李平の占が終わるや、歩み寄ると、声をかけてきた。
「失礼ながら、あなた方は安平の人ではありませんな?」
「そうですが、あなたは?」
田氏がいぶかしげに返す。
話しかけてきた男は、年の頃は四十代後半あたりだろうか。恰幅の良い男で、人の良さそうな肉付きの良い丸い顔が、にこにこと田氏たちを見下ろしている。
「申し遅れました。私は、この邑で商いをしているもので、張、と申すものです」
と言って、張と名乗る男は、丁寧に挨拶をした。
張は田氏たちを燕軍から逃れてきた者だと見定め、その時の様子を教えてほしい、と思い、声をかけたのだという。
「そうは言っても、あっと言う間に鋸は包囲され、落城の間隙をどうにか逃げ出しここまでやって来たのです。途中で斉都に燕兵がいるのは見ましたが、それ以外には、お教えできるものは何もないのです」
そう田氏は答えた。むしろ今の戦況を教えてほしいのは、田氏たちの方なのである。
張は、感心したような、落胆したような表情を見せると、今度は、李平の占の話をしてきた。
「是非、私も占って頂きたいのですが」
「まあ、よかろう」
李平はすんなりと承諾し、張に何も聞かずに占をはじめた。