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其の十二:東へ逃げる

「ところで、どこへ行く」


 黙々と馬を操っていた李平が振り向かずに問うた。このままあても無く馬車を走らせるわけにも、当然いかない。

 田氏はしばらく考えていたが、


「斉都は落ちておろう」


 と小さく言った。普通ならば、最も安全なのは斉王の居る都である。兵数といい、防備といい、斉にこれ以上の城は無い。

 だが、同時に斉都が落ちた、という噂も聞いている。うかうかと斉都へ行っては捕らわれしまう可能性もあるだけに、慎重に考えるべきであろう。


「燕の大将は恐ろしい男よ。田氏の言う通り、恐らく斉都はもう落ちている」


 と、李平はすべてが判っているかのような言い方をした。

 田氏はどういう事か、と李平の背中に聞いた。


「鋸を包囲していると見せかけ、別動隊が都を強襲したのであろう」


――まさか。


 と田氏は思ったが、燕の大将は楽毅である。

 復讐に燃える燕王が抜擢し、連合軍を率いさせたほどの人物ならば、あり得る事なのかもしれない。


「そうだ。恐らく斉都を落としたのは、楽毅自身が率いた精鋭部隊であろう。鋸の包囲から陥落までの日数を考えると計算は合う」


「あっ」


 思わず田氏は声を上げた。

 鋸から斉都まではおよそ十日あまりかかる。李平の言うとおり、日数はぴったり符合する。恐らく、斉都では燕軍が来るなどとは夢にも思わなかったに違いない。

 無防備であればいかに堅牢であろうと無意味である。もし李平の言うとおりならば、きっと斉都は子供の手を捻るようにやすやすと落ちたであろう。


――だが。


 田氏は唸った。

 だとすれば、なんと楽毅の鮮やかなことか。

 今更ながら、李平が最初に言っていた、鋸は落ちる、という言葉が的を射ていた事を思った。


「鋸の包囲は見せかけか。本隊を囮に使ったとしたら、やはり楽毅は名将だな」


 田氏はそう、嘆息まじりに言った。

 しかし、楽毅に感心してばかりはいられない。田氏らも落ち延びる先を決めなければ、荒野を放浪することになり、いずれ飢えてしまう。

 

「いずれにしても東だろう。斉兵に追いつかれては、かなわんからな」


 そう田氏が言うと、判った、とだけ言い、李平はそのまま東へ向け、馬に鞭を入れた。




 李平は休み無く馬車を走らせた。

 田氏や鈴はそれでも、うとうとと仮眠をとったが、李平はそれさえなく御を続けている。

 さすがに田氏は、


「少しは眠れ。斉兵に追いつかれる心配は、もうないだろう」


 と声をかけるのだが、李平はああ、と答えるだけで、まるで休もうとはしなかった。

 さらにそれは、車を引く馬も同様で、過酷な道程であるのにも関わらず、李平と共に不眠不休で走り続けている。

 はじめ田氏は、


「素晴らしい名馬だ」


 と感心していたのだが、さすがに幾日か経っても、そのまま走り続けるので、これは尋常なことでは無い、と気付いた。


――さては、また李子の仙術か。


 とも思うのだが、それは言わなかった。

 田氏は李平が神仙の者だ、というのを本気にしていない。しかし、これまで起きた現象を考えると、そうとしか思えないという事もあるのだが、それを確かめるのが、なぜかためらわれた。だから田氏は、目の前にまた不思議な現象が起きていながらも、ただ黙って李平の御を見守ることにしたのだった。

 そうしているうち、用意した食糧も乏しくなった。

 そんな時、朝日の差す方に、邑が見えてきた。


「どこの邑でしょう」


 眠い目をこすりながら言う鈴に、田氏の顔色はさっと変わった。


「あれは斉都ではないか!」


 思わず田氏は大声を出した。

 斉都が陥落していれば、まさしく付近に燕軍が満ち満ちているはずである。燕軍から逃れるのが目的であるのに、これでは自ら燕軍の網にかかりに行ったも同然ではないか。


――何を考えている!


 と、田氏が言うより早く、李平は馬車を停めると、


「斉都が落ちているかどうかは、重要な問題だ。通りがかりに確かめておいても、損はなかろう。それに――」


 燕が少数の兵で斉都を落としたばかりなら、まだ邑内は定まっておらず、今まさに安定に向けて大忙しだ、と李平は言った。


「こんな馬車一つに注意を払う余裕などないさ。運悪く見つかったとしても、この馬車なら逃げ切れる」


 李平は涼しい顔で田氏の方へ振りかえると、微笑を見せた。

 田氏は二の句を告げられなかったが、李平はあまりにも楽観しすぎだ、と思った。


「まあ、汝がそういうのなら」


 と田氏は仕方なく言ったのだが、案の定、斉都に接近した途端に異変が起きた。

 門が開き、騎兵が飛び出してきたのである。


「え、燕の騎兵だ!」


 騎兵の旗に、はっきりと『燕』という文字が見える。

 田氏は肝をつぶした。それ見た事か、と李平に言ってやりたかった。鈴も、怯えきって、李子さま! と叫んだ。

 しかし、李平は相変わらずのんびりした口調で答える。


「これで斉都が燕に取られた、という事ははっきりしたな」


 そう言って、馬に鞭をくれた。

 馬車は猛然と速度を上げ、本来機動力で勝るはずの騎兵との距離を見る見る引き離す。

 これには田氏も驚嘆した。


「おお!」


「言ったろう。この馬車なら、逃げ切れる、とな」


 なんせ、楽毅の馬車なのだ、と李平が最後に付け加えた言葉が、果たして田氏と鈴に聞こえただろうか。

 遥か後方に置き去りにした騎兵は、やがて見えなくなり、その後も姿を現すことはなかった。追跡を諦めたのだろう。

 助かった、と田氏も鈴も、安堵の息をつく。


「李子よ、斉都より少し東に、安平という邑がある。そこで一度落ち着こう」


「わかった」


 疲れきったような顔の田氏の言葉に、李平は頷くと、やはり休み無く御を続けたのだった。



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