其の十一:脱出
往来は、逃げ惑う人々で、混乱の極みにあった。
そこかしこで、悲鳴や怒声が響き渡っている。こういう非常時には、邑内であったとしても、強盗や略奪が当たり前になる。
だが、敵軍によって陥落すれば、彼らによってより酷い略奪や暴力に晒されるという、更なる悲劇が待っているのだ。それが戦勝の兵に与えられた、ある種の褒美のようになっており、それはしばしば黙認された。
――鈴をそんな目に合わせるわけにはいかぬ!
田氏は幾度も人とぶつかりながら、家を目指した。無我夢中であった。
ようやくたどり着いた家では、その室内がそっくり馬車で占められており、田氏は思わず、あっ、と声を上げた。
「これか、馬車というのは……まるで戦車ではないか」
「田氏よ。遅かったではないか」
欠伸まじりに言う李平は、悠然と馬車の御者席についた。背後には、既に鈴が乗っている。
「田氏よ、乗れ。間もなく兵は北門から脱出するのだろう」
「あ、ああ」
田氏が言われるがままに乗ると、李平は掛け声を発して馬に鞭を入れ、発進させた。田氏の家の戸が音をたてて吹き飛んだ。
しかし、さすがはあの楽毅の戦車である。精悍な二頭の馬は疾風のように駆けて行った。
あまりの速さに、田氏はたまらず李平に言った。
「急ぐのはわかるが、これでは人をはねてしまうぞ」
「はねやしないさ」
李平は涼しい顔をしている。
だが、田氏の危惧したとおり、大きな通りに差し掛かると、道は人で溢れかえっていた。
李平に、速度を落とす様子はない。
突然、矢のように進む馬車の進路に、道を急ぐ男が飛び出してきた。
「ぶつかる!」
田氏も鈴も目をつむった。
鈴の悲鳴が鋭く響く。
「…………」
しばらく経つに、人を轢いた手ごたえがない。
――おや?
恐る恐る田氏は目を開けたが、その開けた目を疑った。何と、通りに満ち満ちている人垣の中央が割れ、馬車のための通り道ができていたのである。人々は馬車の接近に気付いて道を譲ったのではない。それぞれが、わずかばかりの荷物を抱え、必死の形相で逃げ惑っているのだ。馬車に気付いている者は、誰もいない。にもかかわらず、雑踏の中にまっすぐに通路ができているのであった。
さすがに田氏はあきれ返って、苦笑するしかなかった。
「汝は神仙の類か」
「ほう、良く分かったな」
と、李平は大真面目に言ったので、田氏と鈴は顔を見合わせた。
凄まじい勢いで走る馬車を遮るものはなく、あっというまに、北門が見えてきた。いまだぴたりと閉じられた北門の前には、多数の兵が溢れているのが見える。
田氏が声を上げた。
「おい、これではせっかくの馬車も役に立たんではないか」
まず逃げ出すのは兵が優先されるだろう。我先に外へ出ようと殺到する人ごみにあっては、いかに馬車とは言え、足止めされてしまうのは間違いない。まごまごしていては、燕兵が城内になだれ込んできてしまう。
「大丈夫だ」
李平は澄まして言うと、人垣から大きく外れたほうへ進路をとった。途端に道が悪くなり、がたがたと揺れる馬車に、鈴がきゃっと声を出した。
「お、おい」
田氏が慌てて言うが、李平はそのまま馬を進めている。車輪がいくつもの小石を跳ね上げた。
ふと田氏が門の方へ目をやると、城内の兵の塊が波をうって一斉に動きはじめたところだった。北門が開き、堰を切ったように兵士が脱出しているのだろう。だが、田氏を乗せた馬車は、変わらず見当違いの方向へ走っている。
やがて、目の前に、城壁が近づいてきた。
「李子! 何を考えている! ぶつかってしまうぞ!」
このままでは、壁に激突してしまう。思わず田氏は声を荒げた。だが、やはり李平は城壁に向かって一直線に突き進む。
もう城壁が目前に迫った。
「目をつむっておれ」
李平の声がしたが、その時にはもう田氏も鈴も、目を開けておられず、悲鳴に似た叫び声を出していた。
固く閉じた瞼には光が入ってこないが、馬蹄の音だけはせわしく耳に入って来る。
どかどかと蹄の音が延々続く。たまりかねて、田氏が口を開く。
「李子よ、どうなった?」
「目をあけてみよ」
――まさか、壁を抜けた?
田氏と鈴は恐る恐る目を開けた。目の前には城壁は無く、果てまで続く荒野が広がっている。背後をふりかえると、燕兵に取り囲まれた鋸の邑が見えた。
何度も目をこすり、確かめるが、間違いなく城外に出ている。
これまで幾度か李平の神秘に触れた二人であったが、城門を通らずに邑の外に出る、など、とても信じられるものではない。まさか、羽が生えて、空を飛んだわけでもあるまい。
「これは、夢か」
田氏はようやくそれだけ言ったが、目の前で御をする李平は何も答えなかった。馬車は燕兵を避けるように、大きく東へ進路をとった。
しばらく進むうち、放心していた鈴が、ふと声をあげた。
「そういえば、あの人は……」
鈴が婚約者の武官のことを言っていると、田氏には判っている。
邑に残った武官は、まだ敵と戦っているだろうか。それとも、上手く北門から逃れられたのだろうか。
不安げな面持ちの妹に、真実を告げる勇気は、田氏には無かった。
「城外に逃れる兵の中に混ざっておる。ゆくゆく体勢を立て直し、東へ落ち延びるのだ、と言っていた」
と、咄嗟に嘘をついた。
その言葉に安堵を覚えたのか、鈴はほっと息をつくと、そうですか、と言って、再び目線を前に戻した。
――鈴よ、すまぬ。
田氏は表情に出ないよう気をつけながら、内心で妹に謝った。
だが、無邪気に婚約者の無事を信じる鈴は、いずれ真実を知るだろう。いや、知ることも無く、ただ漠然とその死を覚り、受け入れるしかないのかも知れない。その時の心痛はいかばかりだろうか。
当然、友人を失うであろう事で、田氏の心にも悲しみはあるし、逃がしてくれた感謝の気持ちもまたある。しかし、自分や鈴の命さえ、いまや風前の灯のように危ういのである。そうした感傷に浸る余裕が田氏には無いのも、また事実であった。
三人はそれから言葉を発せず、ただ馬蹄の音を聞いた。向かう先の東の空が、ゆっくりと暗闇に落ちていった。