其の十:落城寸前
燕が長期戦に切り替えてから、七日が経った。既に穀物の収穫は終えていたため、鋸の食糧庫は豊富で、まだまだ篭城には耐えられる。
力攻めに押されては、兵力に劣る鋸は苦戦を強いられるのは必至だったのだが、直接矛を交えないのであれば、兵も損なわないため、鋸にとっては好都合であった。
そんな時、またしても、燕の陣に変化が生じた。
地を埋め尽くしていた敵兵の大半が引いたのである。後には、燕の旗を掲げた軍だけが残って包囲している。
鋸の人々は、
「何があった?」
と、一様に驚きの声を上げた。
――敵は諦めて引いたのか。
というかすかな希望もわいたが、残った燕軍は依然去らず、どうやら諦めた訳ではないらしい。
防備についていた田氏もいよいよ訳が分からなかったが、とりあえず眼前の敵から目を逸らす訳にはいかず、ただただ敵の動きを睨んでいた。
だが、時を待たずして、燕陣の変化の理由が知らされるところとなった。
――斉都が陥落した!
というのである。
その報に接したものは、みな耳を疑った。
「敵は今まで、鋸を包囲していたではないか!?」
邑にある人々すべてがそう思った。
斉都は鋸からかなりの距離がある。その上、鋸などとは比べ物にならないほど大きく、城の造りも頑強だった。鋸よりも先に斉都が落ちるなど、とても考えられることでは無い。
燕以外の軍は確かに引いたが、仮にその軍が鋸を離れて斉都を攻めたとして、一晩やそこらで到着し、かつ陥落させるなど、絶対に不可能である。
――虚報か。
と、人々ははじめ思った。
だが、燕に包囲されている邑からでは、これ以上の情報は得られなかった。斉都が落ちたという報が得られただけでも奇跡的と思わねばならない。
事の真偽が判明しないうちに、不安は疫病のように伝播すると、人々の心を蝕んだ。言うまでも無く、鋸の兵の士気は格段に落ちた。
――斉王は無事なのか?
兵たちの心配はそこにあった。真偽が判然とせず、疑念は消えない。
鋸にいる兵は、大半が斉より発せられた兵士から成っている。彼らは西方での戦闘に敗れ、この鋸に身を寄せているに過ぎない。仮に斉都が燕の手に落ち王が捕らえられたとなれば、最高司令官を失ったも同然で、指揮官を失った兵は牙を抜かれた虎に等しい。実際、斉兵は戦うどころでは無くなってしまった。
そして、それを見越したかのように、鋸を包囲した燕兵は猛然と攻撃を再開してきた。
対する鋸の兵は、士気が落ちている。燕兵の攻撃の前に、ひとたまりも無かった。そこかしこから苦戦を知らせる伝令が飛び交い、救援を請う声が響き渡る。まもなく、田氏が守っている所からさほど遠くない城壁を、燕軍に突破された、という報が入った。
「もはや、これまでか」
死力を尽くして戦ってきた田氏らの部隊も燕兵に押されはじめた。次第に劣勢となり、いつ城壁を突破されてもおかしくない程の苦境に立たされた。
疲労は限界に達し、士気も奮わない。
その時、田氏の目の前にかけられた梯子を、一人の燕兵が上りきった。血走った目をした燕兵は、叫び声と共に、手にした剣で田氏に斬りかかってきた。
思いがけない襲撃に、田氏の構えは遅れた。
――防ぐ矛が間に合わぬ。
田氏が思った次の瞬間、目の前を火花が散った。
誰かの矛が、燕兵の剣を弾いたのである。助かった! と思うのと同時に、背後から何者かが叫んだ。
「ここは任せて、鈴を連れて逃げろ」
鈴の婚約者である武官の姿がそこにあった。
武官の男は、言いながら、矛を返すと、燕兵の胸を突いた。燕兵は遥か城壁の下へと飛ばされた。彼に当たった他の燕兵数人が、巻き添えになって梯子から落ちていく。
「北門の備えが薄い。そこから将軍が血路を開いて逃げる、と聞いた。それに従うのだ」
「汝はどうする」
田氏も声を張り上げながら、這い上がってきた新手の敵兵に斬りつけた。
瀬戸際で戦っているが、既に防衛線はずたずたに寸断されている。
「後から血路を開いて逃げる。恐らく、脱出した将軍が再び兵をまとめるだろう。そこへ行く」
武官の顔には、決然たるものが浮かんでいた。死地にあって覚悟を決めた者だけが出来る表情がそこにはある。
本当ならば、鈴と共に逃げねばならないのは、夫となるべき武官の方である。だが、彼は武官としての役職に殉じようとしている、と田氏は思った。それゆえ、もう田氏が何を言っても、彼の心は何も変わらないという事が分かり過ぎるほど分かった。
「さあ早く。鈴を頼む」
「すまぬ」
田氏は矛を投げ打つと、城壁から飛び降りるようにして駆け出し、家へと向かった。
背後は振りかえらなかった。