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其の一:仙道李平

この小説はかなりの部分が創作です。

ある程度は史実にそっておりますが、登場人物や、地名などは実際の歴史とは異なる場合が多々ありますので、あらかじめご了承下さい。

 記憶というものは、時の経過と共に、次第に淡く色を失って、その輪郭を不明瞭にしていく。

 かつて覚えた感情もその記憶に直結しているから、昔に感じたことであっても、やはり記憶に引きずられて、ぼやけていってしまう。

 では、もっと長久の時間が経つと、人はどうなるのか。


「人は、人らしさを忘れてしまうのだよ」


 目の前の老人は、そう説いた。

 ゆっくりとしていて静かな口調であるが、その底にはある種、凄みに似た重みがある。

 その声を頭上に聞きながら、老人の前に平伏した男は、逼迫した声を上げた。


「それでも構いません。なにとぞ、願いをお聞き届け下さい」


 そう言う男の声には、人らしさなど要らぬ、という人への侮蔑の含みもある。

 迫られた老人はふう、と息をついた。

 平伏の男は、老人の嘆息の意図を確かめるべく、地面から、目を上げた。ところが、見上げた老人の顔は、白い髭に覆われ、深い皺が刻まれ、その表情を読み取ることはできなかったため、再び男は額を地にこすり付けた。

 またしても、重い声が響く。


「そうは言ってもな。誰にでもなれる、という訳ではないのだ」


 骨だ。

 と、老人は言った。

 男は、しばらく口の中で骨という言葉を転がして、その真意を測ろうとしたが、それらしい答えは思い浮かばない。

 表情が読み取れないことは承知で、男はまた顔を上げて、老人の顔を見た。

 少しだけ笑ったように見えた。


「仙人骨といってな。それが無ければ、仙人にはなれん」


「それが私には……」


 口ひげが、愉快そうに曲がった。


「ないよ」


 男は頭を殴られたような衝撃を感じて、首を垂れた。

 正直、仙人になるための骨などがあるとは到底信じられず、下手な逃げ口上で、体よく断ろうとしているのでは、との邪推が頭をかすめる。

 しかし、実際がどうであれ、願いは聞き入れられそうにない事は間違いない。男は、ぐっと唇をかみ締め、地に着いている自分の手を見た。蟻が男の掌を越えようともがいている。

 ややあって、老人の声が響いた。


「だが……」


 仙人に会える者、というのもまた限られている。もしかしたら、仙人にはなれなくても、それに近い存在にはなれるかも知れない、と老人は言った。


「本当ですか?」


 喜色を表して、男は顔を上げた。

 老人の長い口ひげは、変わらず持ち上がっている。


「儂とこうしてしゃべっているのが、何よりの証拠だよ。のう、李平よ」


「どうして私の名を?」


 言った後で、李平と呼ばれた男は愚問だと気付いた。相手は人知を超えた仙人なのである。

 そうした李平の心の動きを悟ったのか、老人は李平の問いには答えず、白い髭をまた愉快そうにゆがめるだけであった。




――李平。それが私の名だったか。


 いつの事だったか思い出せない程、古い記憶。

 おぼろげながら脳裏に像を再現できる最古の記憶が、師に弟子入りをせがむ、自分の姿であった。

 その時の事を思い出さなければ、もう、自分の名すら出てこない。

 四方は霧に霞む山に囲まれ、いま李平の足元にある湖は遠く煙る空を映し、わずかな波もなく、鏡面のように静まっている。湖面に映る自分の姿は、少壮だったその時からまるで変わっていないように思うが、その記憶すら曖昧であった。


「物思いか」


 いつの間にか、背後には師の姿があった。師も、当時から容貌に変化はない、と思われる。


「いえ。別に」


 李平は目も動かさずにそう答えたが、背後でまた師が笑ったような気がした。


「隠さずとも判る。人が恋しくなる頃だ。そうであろう」


 李平は黙っていたが、まさしく師の言うとおりであった。

 人に会いたいのではなく、人の感情を持っていたときの事が、無性に懐かしく思えるのである。師に出会った頃をよく思い出すのも、そのためかもしれない。


「私はどうして師の弟子となったのでしょうか」


 そんな事すら思い出せない事が、悲しみに似た感情となって、心を騒がしくさせるのである。思えば、それも人の感傷というものであろうか。それさえ、李平にとっては愛おしかった。

 師は、髭をゆったりと曲げると、


「人の邑に行ってみてはどうか」


 と李平の問いとは関係のない事を言った。

 しかし、それは思いがけず李平の心を光となって貫いた。失われていた体温が身体中に満ちていくかのようであった。邑とは、むらであり、まち、である。人が集まり住む場所を言う。そこでは、考えるまでも無く人と触れることができる。


「この書簡を届けに行ってくれまいか」


 師はどこからとも無く、木簡の束を取り出すと、李平の手の上に置いた。

 書簡を懐に入れ、顔を前に戻すと、もう師の姿はなかった。


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