64話 久々の対面
金銀の花模様で縁取られた大きな鏡の前。皇帝陛下の長い髪を櫛でとかしながら、アタシは何度もため息をつきそうになる。
なんて美しいんだろう。そして、なんて可愛らしい方なんだろう。アタシみたいな盗賊上がりのアバズレを心から信頼して身を任せてくれている。薄汚い権力欲の権化みたいな連中に利用され続けてきた人生だったろうに、こんなに清らかでいられるなんて。
「イエミールの櫛は優しいですね」
サリーナリー帝の突然の言葉に、アタシはちょっと動揺してしまった。
「えっ、そ、そうでしょうか」
「ええ。いままでの侍女はみんな笑顔でしたが、櫛使いは乱暴でした。私の髪などとかしたくなかったのでしょう。でもイエミールは優しい。子供の頃のお母様を思い出します」
ああ、何ていうかもう、感情が溢れだしそうになる。抱きしめたい!
心の中で悶えていると、皇帝陛下は鏡を通してアタシの目をのぞき込んでいた。
「陛下、どうかされましたか」
マズい、気付かれたか。内心焦るアタシに向かってギルミアス帝国の聖女皇帝は一瞬ためらった後、こうたずねた。
「イエミールはタクミ・カワヤ殿と親しいのですよね」
「親しい、と言いますか、ええまあ親しい方ではないかと」
実際、タクミ・カワヤ以上に親しい人間などほとんどいないのだ、盗賊に友達は必要ないしな。だからアイツと(比較的)親しいというのは嘘にはならない。
しかし何で急にタクミ・カワヤの話題が出たんだ。何か占ってほしいことでもあるのだろうか。
サリーナリー帝は何やらモジモジしていたが、不意に思い切ったように振り返る。
「あの、ならばタルドマン・バストーリア殿とも親しいのですか」
「……は?」
タルドマン・バストーリア? あの護衛のボンボンがどうしたというのか。アタシが首をかしげていると、皇帝陛下の顔はみるみる耳まで真っ赤に変わる。
「いえ、あの、どんな方なのかな、と、思って、ですから」
ああ、やっとわかった。
恋バナだ。
皇帝陛下はアタシに恋愛相談を持ちかけているのだ。
何これ。何なのこの可愛さ。鼻血を吹いてぶっ倒れそうになるのを必死の精神力大回転で踏みとどまる。ダメだ。ダメダメダメ、この方はアタシが守らなきゃダメな人なんだ!
「あの、陛下」
「はい」
「私はタルドマン殿とは親しくないのです」
「ああ、そうなんですか」
サリーナリー帝はまるで菜っ葉を塩に漬けたかのように、シュンとしおれてしまった。わかりやすい。何てわかりやすい方なんだろう。
「ですが陛下、私はタクミ・カワヤ殿に手紙で定期報告を上げています。その際にタルドマン殿のことをそれとなくたずねてみましょう、か?」
アタシがそう言うと、今度はバネ仕掛けのようにキラキラした顔が跳ね上がる。
「いいのですか!」
本当にわかりやす過ぎる。
「では、まず何を知りたいのでしょう。どんな質問をしましょうか」
「それは、それはまず、どんな方なのか。いえ、いえいえそれはいけませんね。どんなって言われても答えようがないですもの。もっとちゃんとした質問を、具体的な、明確な、ああ、何を訊けばいいのかわからない!」
天下のギルミアス帝国皇帝がこんな話で涙目になっているなど、世間に知られたら大問題になるかも知れない。アタシは笑顔で皇帝陛下をなだめた。
「落ち着いてください、陛下。質問はゆっくりお考えになってください。時間はまだたっぷりありますから」
時間はまだたっぷりある。このときのアタシはまだ、本当にそう思っていたのだ。
◇ ◇ ◇
時間がない訳ではない。レンズによるルベンヘッテ襲撃のときまで静かに潜んでいるという手もあった。しかしいま未来の不確実性は、ルン・ジラルドの存在によって高められている。主導権を握るためにはルンの想定外の行動に出なければならない。
帝都ギルマにある皇宮。サリーナリー帝はいまここにいる。
このもっとも単純かつ短絡的で乱暴な攻撃は、搦め手の好きなルンには不得手とするところだろう。そもそもあのルンが、そう易々と私の眼前に姿を現すとは思えない。それこそがルン・ジラルドの厄介なところであり、同時に与しやすい部分でもある。
ルンを倒す手段はいずれ講じねばならないが、いまは放置しておこう。あの女に私を止める能力も手立てもありはすまい。一気に皇宮を我が掌中に収めるのだ。
レンズを共に連れ馬車を降りた正門前には衛兵が二人、自動小銃を持って立っている。ルン・ジラルドのもたらした、この世界では最新兵器だ。研究所が手配したのだろうが、まったく余計なことをしてくれる。
中に入ろうと歩みを進めれば、私の顔を知っているのであろうその衛兵が立ちはだかった。
「閣下、お待ちください」
「何かな」
「現在皇宮には、事前にお約束のある方しかお通しできません。申し訳ございませんが」
「そうか」
レンズが前に出ようとしたのを手で制し、私は二人の衛兵を見つめた。いや、その脳の中に思念派を送り込んだ。二人の意識は一瞬で私の支配下に入り、その肉体は呆然とした顔でふらふらと私たちの後ろにつく。
「さあ、では行こうか」
◇ ◇ ◇
それは皇帝陛下に午後のお茶を入れようとしていたとき。
「何事だ! 貴様ら止まれ! 撃つぞ!」
扉の向こうから突然聞こえた怒声。そして静寂。何の音も聞こえてこない。アタシは皇帝陛下を立たせて窓際へと走った。静かに音もなく開いて行く出入り口の扉。その向こう側を埋め尽くす、銃を携えた兵たちの中央に立つのは、美しい少女を共に連れた見知らぬ貴族らしい格好をした痩せぎすな男。しかし、それが誰であるかの想像はついた。
「何者ですか! 皇帝陛下の御前です、控えなさい!」
叫んだところで控えることはないだろう。これがボイディア・カンドラスならば。男の口元に笑みが浮かぶ。
「随分と出世をしたようだな、イエミール」
アタシの名前を知っている。やはり、か。
誘惑にかられる。この男の頭の中をのぞいてやりたいと。考えを読んでみれば、逃げる手段が見つかるかも知れないじゃないか。
――ボイディア・カンドラスとルン・ジラルドの頭の中はのぞかないこと。絶対に。おまえの命に関わるからね
タクミ・カワヤの言葉が脳裏をよぎる。だけどこのままじゃ、皇帝陛下が。
ボイディアが一歩前に出た。
「おまえもこっちにおいで」
そのギラギラとした目が赤く輝いたと見えた途端、頭の中に手を突っ込まれたような不快感が。脳が砕けるような痛み。意識が飛びそうになる。
「イエミール!」
アタシの異変を感じ取ったんだろう、皇帝陛下が腕を取る。アンタね、他人の心配してる場合じゃないんだよ、まったくこの人は。
負けられない。負けるもんか。こんなことで、アタシは、アタシだって!
「ほう、私の意識操作に抗うのか。これは驚いたな」
ボイディアはまるで驚いた風もなくそう言った。そして。
「まあいい。レンズ、殺せ」
「あいよ」
少女が剣を手に進み出た。終わりなのか、こんなことで終わるのかアタシは、畜生。
だがそのとき、雷鳴が聞こえた。外からじゃない。この部屋の中、すぐ目の前からだ。
そして、謎の黒い球体が部屋の中に現れた。その中から最初に人の足が出る。手が出る。やがてよく見知った全身が出る。球体から姿を見せた小柄で黒髪の少年は、ボイディア・カンドラスに向かってこう言ったのだ。
「やあボイジャー、随分と久しぶりだね」




