54話 皇帝の侍女
ロンダリア王とサリーナリー帝は王宮貴賓室のベランダから民衆に手を振っておられる。会談を終えてという建前だが、条約についての申し合わせは王宮に到着する前に済んでいる。ただ、だからといってこれで恒久平和条約の締結がなされる訳ではない。
タクミ殿も少し触れていたが、条約は国家間の正式な約束である以上、いかに王や皇帝といえど口頭で結べるものではない。事前であれ事後であれ、議会があるなら当然議会の承認が求められる。どれだけ天下万民のための条約であろうと、勝手には締結できないのだ。故にいまできるのは、両国の元首には恒久平和条約を結ぶ用意があるとの明確な意思表示にとどまる。
とは言え、その意思表示があるかないかは大きな違いだ。国民や議会の動きに影響を与えるのは間違いない。しかしシャナンはアイメン・ザイメン、ギルミアスはハンデラ・ルベンヘッテという巨魁によって先手が取られている。全体の流れは開戦に向いているのだ、ここから巻き返すのは至難の業だろう。
特にタクミ殿が常に近くに控えているロンダリア王と違い、サリーナリー帝はこれから敵だらけの帝国に戻られなければならない。大丈夫なのか。いや、どう考えても大丈夫ではあるまい。どうするのだ。タクミ殿はどう考えているのだろう。
「何だいタルドマン、僕をにらみつけて」
「あ、いや、その」
「心配事でもあるのかな」
「あの……タクミ殿は今後もロンダリア王の近くで働くつもりなのですか」
するとタクミ殿はベランダの方を向いて、遠い目をした。
「旦那様が摂政になっちゃったからねえ。放ってもおけないでしょ」
それはそうだ。確かに、タクミ殿としてはそうするしかあるまい。しかし、だ。
「しかし皇帝陛下は、サリーナリー帝はどうなるのですか。お一人で帝国に戻っていただくと?」
「それは仕方ないよねえ」
「そんな」
ちらり。タクミ殿は一瞬横目で私を見やり、口元に笑みを浮かべた。
「皇帝陛下が心配かい」
「え、それは、そういう訳では、つまり」
「一般論としてかな」
「そ、そう、一般論としてです」
「そうだねえ」
タクミ殿は腕を組み、小さなため息をついた。
「皇帝陛下にはカリアナ・レンバルト伯爵が味方に付いている。もちろんハンデラ・ルベンヘッテに比べれば小さな勢力だ。ただ、ルン・ジラルドがいるからね」
いつも黒い軍服らしき衣装の上から白い薄っぺらい布の服を羽織り、口元に不安を煽るような笑みをたたえた、長い赤髪の女性。これまでの行動を見る限りにおいては味方のはずなのだが、正直どこか信用が置けない。
「あの女性は、信用できるのですか」
「信用はしちゃいけない」
私の問いにタクミ殿はそう答えると苦笑した。
「ルン・ジラルドは絶対に信用しちゃいけない人間だけど、アイツの目的は明確だ。ボイディア・カンドラスを抹殺すること。そのためには皇帝陛下を味方につけていた方が絶対に有利なんだよ。そういう意味において、ルン・ジラルドは頼りになる」
タクミ殿の言いたいことは理解できる。だが、それでも不安だ。ものすごく不安だ。私の顔には不満が現れていたのだろう、タクミ殿は呆れた顔でこちらを見つめると、またため息をついた。
「まあ、不安があるのはわかるよ。そうだねえ、一応もう一つ手は打ってあるんだけど」
「えっ、それは」
どんな手を、いつの間に。
◇ ◇ ◇
いや、確かにアタシは行き場所に困ってたさ。組織に歯向かった何の後ろ盾もない馬鹿な盗賊一人、貯えもすぐに底をついて食うものにも困りかけてたところだ。三食困らない居場所を用意してやるって言われたら飛びつくよ。飛びつくけど。
呼び出す場所を考えろよ。何だよ、王宮って。最初悪い冗談と思っただろ。
そりゃアタシはキシアの棋士として金持ち連中と付き合ってたし、貴族とも交流はあったよ。それなりに上流っぽい仕草もできるさ。だけど、いま目の前にいるのは王様だぞ。皇帝だぞ。ホンモノ中のホンモノじゃねえか。ビビるなって言われてもビビるに決まってんだろ。
ビビりまくって声も出せないアタシの隣で、タクミ・カワヤは笑顔で言った。
「彼女を侍女として傍に置いていただきたいんです、皇帝陛下」
「……へ?」
皇帝の傍? え、いやいやちょっと待って。いやいやいや、いやいやいやいや、それは無茶にも程があるだろ、おい。アタシは盗賊だぞ、皇帝の侍女って、つまりその、皇帝の侍女ってことだぞ? そんな訳にいくはずがあるかよ。
「まあ、本当ですか!」
何で喜んでるんだよ、皇帝!
「それは嬉しいです。私の身の回りはみなハンデラ・ルベンヘッテに通じている者ばかりで、とても息苦しくて。あなたの紹介なら信頼できます、タクミ・カワヤ」
ダメだって! そんなに簡単に他人を信じちゃダメだってば皇帝! 焦るアタシを尻目にタクミ・カワヤはこんなことを言いやがった。
「このイエミールは数々の修羅場を潜り抜けてきた英傑です。きっと皇帝陛下の力となってくれるでしょう」
お、おま、おまえええええええっ! 他人事だと思って好き勝手言いやがって、人間の心がないのかよこの野郎!
しかし皇帝は満面の笑顔でうなずいた。
「はい、よろしくお願いしますね、イエミール」
占い師も満面の笑顔でうなずいた。
「よかったな、イエミール」
コイツ、絶対に楽しんでやがる。
逃げ出したい。でも、実際のところ逃げ出してまで行きたい場所に心当たりはないのだ。組織がどう出るかはわからないが、しばらく屋根のある場所で眠れることと、食うに困らないのは間違いないだろう。
「よろしくお願いいたします、皇帝陛下」
アタシは頭を下げた。ええい、こうなりゃヤケだ。行くところまで行ってやろうじゃないの!
陽がうっすらと陰ってきた。そろそろ皇帝が帝国に戻るらしく、国王たちと別れを惜しんでいる。アタシはあの輪に入らなくてもいいらしい、今日のところは。ああ、明日なんか来なきゃいいのにねえ。
ため息をついているアタシの隣に占い師がやって来た。
「そんな訳だから、よろしく頼むよ」
どんな訳だよ。全然わかんねえわ。
「で」
アタシの返事に占い師は目を丸くした。
「で、って何が」
「トボケんなよ、アタシに何かやらせたいんだろ」
「いいや。皇帝陛下を護ってくれればそれでいいよ、おまえの判断でね」
「丸投げかよ、この人でなし」
「ただし、忠告が一つ」
占い師は笑顔で言った。
「ボイディア・カンドラスとルン・ジラルドの頭の中はのぞかないこと。絶対に。おまえの命に関わるからね」
「ルン・ジラルド?」
誰だそれ、ボイディアはまあわかるけど。そう思ったアタシの視界の中に、突然女が現れた。何もない空間から、いきなり飛び出してきたのだ。黒い軍服の上から白い薄っぺらい服を羽織った、長い赤髪の女。
女は皇帝に近付くと、深々と一礼した。そして振り返る。こっちを、アタシを見た?
だがその視界に割り込むように、タクミ・カワヤが前に出た。
「ルン・ジラルド、ちょっといいか。イエミール・ダーガスを紹介しておく」
「おやおや、また何か企んでるのかい」
「人聞きの悪いことを言うな」
それは軽口の応酬に聞こえる。でもアタシだけだろうか、その言葉の奥底に張り詰めた緊張が垣間見えたのは。




