46話 獣化現象(ゾアントロピー)
屋敷の間取りは頭に入っている。この左側の部屋が貴賓室。だけどここには誰もいない。人が隠れていれば心臓の鼓動が聞こえるはず。冷たい汗の匂いがするはず。何もないのは誰もいないということ。
床を嗅ぐ。かすかな汗の匂い。恐怖の匂い。何人もの人間が慌ててここを出て行ったらしい。この跡を追えばいいのか。走ろう。
第一目標、ロンダリア王。拉致、無理なら殺害。
第二目標、占い師。拉致、無理なら殺害。
それだけ。簡単な仕事。
あの貴族の命令を聞くのはそこまで。終わったら元締めのところへ帰る。母さんに褒めてもらえる。いい子いい子してもらえる。すぐに終わらせる。
何だ。
剣を持っている。ゆっくりとこっちに歩いて来る。ちょっと大柄な、人間だ。ただの人間。殺してもいい人間。ボクがここにいることがわかっているみたいだ。よし殺そう。頭をもいで殺そう。
さあ死ね!
あれ?
ボクよりは速くないけど、ボクの方が速いけど、でもちょっと速い。ボクの爪が防がれた。服の右肩がちょっと斬られている。
へえ、こんな人間もいるんだ。
でも息が荒いよ。冷たい汗をかいているよ。心臓の鼓動が強すぎて破裂しそうだよ。
長くは立っていられないね。
ずっと向こう、廊下の端で火縄の燃える匂いがしている。銃だ。ボクを狙ってる。当たるはずなんてないけど、ちょっと腹が立つ。先に殺しちゃおうか。
あ。ちょっとだけ速い剣士が前に立ちはだかる。邪魔だよ、鬱陶しいなあ。
殺せ! ないじゃ! ないか!
あれ?
何で全部防いじゃうの。おかしいよ、ボクより遅いくせに。ノロマのくせに。
ノロマ! 死ね! 死んじゃえ! 何で! 何で当たらない!
もうフラフラじゃないか。ボロボロじゃないか。ボクに勝てる訳ないのに。なのにどうして!
……あ、しまった。銃声だ。
胸に痛みが。
穴が。
服に穴が開いちゃったじゃないか! 借り物なのに!
銃で撃たれたくらいじゃボクはケガもしないけど、痛いものは痛いんだ。もう我慢できない、やっぱりコイツから殺す!
え、何だ。
何もないところから、人間が出てきた。長い赤髪の、白い変な服を着た変な女。手に持ってるのは変な形の、これは銃かな。
痛い痛い痛い! 変な音が聞こえたと同時に、ボクの全身に何かが撃ち込まれる。何だよ、何だよこれ!
ボクが思わず膝をつくと、変な女は変な声を上げた。
「おんやぁ? これは銀の弾丸が必要な手合いかな?」
何言ってんだコイツ! ボクは女に飛びかかったのに、そこにはもう誰もいなかった。そしてまた後ろから変な音が。痛い痛い痛い!
毛が。体を守るように金色の毛が全身に生えてくる。これは嫌なのに。こんな姿、母さんは嫌いなのに、クソッ!
女の気配はすぐ後ろにあった。
「ああやっぱりだ。ふうん、これは興味深いねえ。獣化現象か」
また銃声。痛い痛い痛い! 女は銃を構えながら笑っている。
「これだけ撃ち込んでも一発も体にめり込まない。まさに不死身。やっぱり強さは月齢に関係するのかい? 宗教的なタブーはあるのかい? 科学の信徒としては捨て置けないねえ。体液サンプルを取っておこうかな」
うるさい! いい加減にしろ! 腕を振り回しながら立ち上がったボクの目の前で、変な女は姿を消した。また後ろか? いない。どこだ、どこだ!
ん、何だ。
これは、この音は、雷鳴?
外から、いや違う。すぐ目の前から聞こえる。と、目の前に丸が、黒い丸が浮かんでいる。あの女の仕業か? 混乱しているボクの前に、その黒い丸から人影が出てきた。それも二つ。マントに三角帽子をかぶった、子供だろうか。何だよこれはいったい。
そのとき突然、二人の子供の片方――女だろうか――が腕を振った。咄嗟のことに思わず腕で身をかばったものの、その腕に水がかかった。水? そう思った途端、激痛が走る。
腕から煙が上がっていた。意味がわからない。何だ、何だ。
二人の子供が声をそろえた。
「おぼろなる月光の聖霊よ、清廉なる水の聖霊よ、邪悪を払い魔を清めたまえ!」
噴き上がる煙の量が増えて、その分痛みも強くなる。肉を貫き、骨の奥まで沁み通る痛み。ああああっ! ボクは悲鳴を上げて膝をついた。こいつらか、このガキどもなのか!
今度は片割れの男の子供が両手を突き出すと、その手の中に光が。
「雷打て!」
全身に衝撃が打ち付け、ボクは弾き飛ばされた。
痛い、痛い、痛い! 上半身を起こすだけで体が砕け散りそうだ。
女の子供がボクを指さす。
「焔立て!」
するとボクの全身から炎が燃え上がった。熱い、熱い、熱い! 痛い、痛い、痛い! 苦しい、苦しい、苦しい! ……いい加減にしろよこの野郎!
立ち上がったボクの姿は完全にケダモノと化していた。母さんが大嫌いな醜い姿。そんなこと構うものか。殺してやる、もう命令とか関係ない、全員殺してやる。
「まさか、何で」
「どうして立てるの」
二人の子供は顔に恐怖を浮かべている。燃え上がりながら立つボクが怖いのだろう。そうだ、怖がれ、怖がれ! そのまま食い殺してやる!
けど、そこに聞こえた声は、誰だ。
「怖がらなくていいよ」
平然と廊下の奥から歩いて来る。これは、占い師か?
「そいつは次に上に跳ぶから、構えていればいい」
この野郎、誰が跳ぶか。
「タルドマン、まだ動けるかい」
タルドマンと呼ばれたちょっと速いだけの剣士は、肩で息をしながら答えた。
「まだ、やれます」
「じゃあこの子たちの盾役を頼む」
占い師の言葉に、ボロボロの剣士はまた前に出てきた。この野郎、この野郎! みんなしてそうやってボクをいじめるのか。母さんに石を投げたヤツらと同じなのか。許さないぞ、許さないぞ、みんな殺してやる。いつだって、ボクは、そうしてきた!
まずは剣士、コイツを殺してから!
そこにまた聞こえたあの変な銃声。
ボクは思わず跳び上がった。
あ。
二人の子供が両手を突き出している。
「雷打て!」
ボクの体は吹き飛ばされた。壁に穴をあけ、館の外へと。




