2 「カルアミルクの夜」
予約している居酒屋がある駅まで電車を乗り継いで行き、近くのネットカフェに入った。
僕は割とネットカフェという空間が好きだ。学生時代に二年ほどアルバイトしていた経験もあるからだろうが、人と、静けさと、漫画とドリンクサーバーと、絶妙に寄り添いながらもそれぞれを避け合っているような感じが好きだ。カーペットのツンとした埃臭さ。本から染み出るインクと印刷紙のにおい。そこを横切るフリードリンクの安っぽく甘い香り。店に入った瞬間から駅前の喧騒を一心に否定してくる。ここではだれもが一人になれる。別に孤独主義でもなんでもないし、とりたてて悲劇めいた過去もないし、友達もそこそこいる至って凡庸な人間だという自覚はあるが、一人でいる時間は僕にとっては大切だ。一人は考える時間を僕にくれる。漫画を読みながら僕は、四方の黒い壁から染み出す埃っぽい粘膜に包まれて、すずとどんな話しようかなあと考えていた。
午後五時半をまわったころ、仕事が終わったことを知らせる連絡がすずからあり、とっくに準備を済ませていた僕はすばやくネットカフェを出た。まだ向こうは着替えや移動時間等があるので急ぐ必要はなかったが、待ち合わせ場所の西口広場に向かった。休日の広場は想像通りに賑わっていて、傾き始めた陽が空をさつまいもの皮みたいな色にしていた。そこに浮かぶ空の眼はなんだかもう当たり前の存在だった。
「ういさーん」
予定していた時間通りに、すずはやってきた。彼女は僕のあだ名を呼びながら、エスカレーターを駆け上がってとたとたと走り寄ってきた。
「ごめんなさい、遅れました」
「ううん、予約してた時間ぴったりだよ。お仕事おつかれさま。じゃあ早速行こっか」
「うぅ……昼間から来てくれたし、ふつうにすごく待ちましたよね? うぅ、なんだか申し訳なさが……」
「いやいや、僕が誘ったんだし、すずちゃんが謝る必要ないよ」
すずは何度も僕にぺこぺこ頭を下げた。もちろんそれは部下が上司に謝罪するような深刻なものではなくて、僕らの間に流れる空気は和やかで可愛いものだ。
可愛い。つまり、入木すずはめちゃくちゃ可愛いのだ。はっきり言って、こんなに「可愛い」という要素を詰め込んだ女の子を僕は他に知らない。まず、小さい。とても小さい。いつだったか身長は一四三センチだと自白していた。一四三センチ! 気になって調べたら、小学五年生の女の子の平均身長とほぼ同じだった。僕は一七二センチなので、二人並ぶと親子か兄妹のようだ。そしてこの小柄な体格にこの顔アリと言わんばかりに、顔もめちゃくちゃ可愛い。瞳は顔からこぼれおちそうなくらいくりくりと丸く大きく愛らしく、鼻筋は整っているけれど主張しない程度に小さく、肌荒れひとつないほっぺたはつついたら指が濡れてしまうんじゃないかと思うほど水分を含んで白くつやつやだ。これで二十五歳というのだから、僕と三つしか違わないというのだから、最初に年齢を聞いた時は驚いた。
こんなふうに可愛い可愛いと連呼しても変じゃないくらいに、僕は入木すずを堂々可愛がっていた。一年前、彼女がキャラクターショップに研修生として入ってきた時、そのころ僕は既に古株として様々な仕事を任されるようになっていたが、とんでもなく愛らしい子が入ってきたと仲間内で騒いだものだ。元々子供向け人気キャラクターグッズをウリにした接客業だったので顔立ちの整ったスタッフが多かったが、僕にとって入木すずは特別だった。それは恋愛感情とは全く異なるものだ。僕やすずだけじゃなく、社員も含めたまわりもそれを理解していたから、公然と贔屓して可愛がることができた。この小柄な体格にこの可愛い顔にこの性格アリと言わんばかりに、すずは素直で健気で真面目な子だった。それは二十五歳というしっかり経験を積んだ年齢から来ているものなのだろう。僕と年齢が割と近く、なおかつ年上でアルバイトとしても大先輩、となるとそういう存在はすずにとって僕しかおらず、いつの間にか僕だけが特別にすずを溺愛する構図ができあがったのだ。もう少し健全な表現をするならば、要はとても仲良しだったのだ。
「十八時半に二名で予約している初生谷覚平です」
雑居ビルの四階にある大衆居酒屋に入り、名前を告げた。案の定店員には聞き返された。ういたにあきひらなんて、漢字を見てもひらがなで読んでも覚えづらい名前極まりない。
店員に案内された個室は、僕が昨日グルメサイトで見て予約時に指定したとおりのものだったので安堵した。テーブルタイプの四人席で、引き戸を閉めれば周囲の視線を遮る完全な個室になる。前日の予約だったのでこのような個室が空いている店を探すのに若干苦労したが、もちろんそんなことは彼女には伝えない。
「席まで予約してもらって、ほんとありがとうございます」
乾杯の一杯目をそれぞれ注文し終わってから、すずは改めてお礼を言った。もしこれがデートとかだったら大衆居酒屋なんかじゃなくプラネタリウムでもあるようなオシャレな居酒屋を予約していただろうが、僕らは男女の仲でも何でもないし、そもそも二人で飲みにいくこと自体はじめてだ。これくらいの個室で十分だし、きっとこれ以上のもてなしはすずが更に萎縮してしまう。
「いいって。日曜だし多分予約しなくても席はあったと思うけど、万一空いてなくてお店探して女の子連れまわすのだけはしたくなかったからね。僕から誘ったくせにさ」
「いえいえ……わたしもういさんとお話したかったですし!」
「それは嬉しいな。他の連中まじえて飲み行ったことは何度もあったけど、こうして顔合わせて二人きりで飲むのははじめてだね。ドキドキするー」
こんな冗談もアルバイト時代は日常茶飯事だった。しかし、さっきまでネットカフェで会話の切り出し方を考えていた事実から察するに、おそらくは二人きりで話すことに僕はほんの少し緊張していて、冗談でそれを打ち消していたのだ。
対するすずは「あはは、もう」と困ったように笑い、人差し指で自らのほっぺたをぷにぷに突っついた。これはすずがよく見せるクセの一つで、いやはやまったく、この小柄な体格にしてこの可愛い顔にしてこの純粋な性格にしてこの仕草アリと言わんばかりに、少女のようなあどけない仕草をする。ぺこぺこお辞儀する仕草もそうだし、てとてと歩いてくる姿もそうだし、仕事中に手の届かない高い棚に向かってぴょんぴょん跳ねてる姿もそうだし、この子の恐るべきは自らを可愛いとは思わず自然に可愛いことをしてしまうところだ。いや、もちろん自らを可愛いと思ってるかどうかなんて本人しか知らぬことだが。でも僕がそれにあざとさを全く感じないのだから、やっぱり僕にとって一番可愛い生き物かもしれない。
「それにしてもやっぱりすずちゃんて世界一可愛い生き物だよな」
乾杯をして開口一番、僕は思ったことをそのまま口にした。一歩間違えればセクハラまがいのセリフだが、僕と彼女の間に流れるのはコミカルなBGM。
「ないですないです。アラサーのおばちゃんですよもう」
アセロラハイを喉につっかえそうになった後で、今度は両手の指で頬をつつく。こんなおばちゃんは首都をミクロサイズに圧縮して顕微鏡でじっくり覗いたとしても二人と見つからないだろう。
「未だに思い出すな、ほら、髪短くしてきた時」
「もー、ういさんはすぐその話する」
あれは丁度すずの研修期間が終わったころだったか。セミロングだった髪を突然ばっさりボブショートにし、ストレートパーマまでかけて出勤してきたのだ。まるで純度一〇〇パーセントの清純さの結晶。清純派の女優やアイドルがそうであるように、可愛い女の子ほど髪形でごまかさない素朴なショートヘアが一番似合うもので、事務所で遭遇した瞬間べた褒めが溢れんばかりだったのを覚えている。つまり、すずと出会って一ヶ月程度で彼女とはそれくらい打ち解けていたのだ。
今のすずの髪はあの頃よりは伸びて毛先が真っ直ぐ肩に下りている。花柄の白いブラウスも似合ってて、ぜひそのまま真夏の制汗剤のテレビCMに出演してほしい。
会話は途切れることなく弾んだ。思い出話から今日のイベントの話まで、話と一緒に僕はアルコールも進んだ。すずはイメージどおりお酒はあまり強くなく、まだ二杯目のサワーをちびちび飲んでいたが、僕はタッチパネルの端末で四杯目を注文した。酔っぱらいたくて、最近ハマっている焼酎をロックで。
「そういえば、今日駅でちょっと面白いことがあってさ」
アルコールと会話と居酒屋特有の薄暗い照明がほどよくブレンドされて溶け込みはじめたころ、僕は昼に起きた改札機での出来事の話をした。
「わー、なんか素敵! 四桁まで残額が一緒っていうのは、偶然にしても凄いですね」
思った通り、すずは目をきらきらさせた。
「まあでも、その人は僕の視線に気づくことなく、喧騒と人混み渦巻く都会の街へ消えていったけどね……」
「物語が始まりそうな言い方笑うんでやめてください」
すずはサワーを運んだばかりの口に手を当て、苦笑しながら上目遣いで僕を見た。
「でも、向こうは残額が同じだったことに気づくはずないですし、ここでういさんの視線に気づいて振り返ったら、それこそ物語が始まりますよ」
「そう、そんな奇跡は起きない。視線はしょせんただの視線。たいていは独り善がりで、誰の人生にも影響なんて及ぼさないもんさ」
すずは上目遣いのまま、少し目を丸くして僕を見ていた。ネタっぽくキザに話しているつもりだったが、思ったより感情がこもってしまっていたかもしれない。酒が進んで、どうやら僕も少し饒舌になっているようだ。
「視線といえば、ステージからういさんが見えた時、なんか笑っちゃいました」
「目合ったね。心強かったかな?」
「えへ。ほんとに来てくれたんだなーって思いました」
えへ、とか素で出してくる。ほっぺたが少し赤くなってきた。
「昨日はいきなりあんなメッセージすいません。心配かけました」
「いや、それも僕の方からだしな」
昨夜、別の後輩から言伝にグリーティングイベントが散々だった話を聞き、心配になってすずに連絡を取ったのは僕からだ。すずは僕が辞めた後の三ヶ月間に起こった出来事の愚痴を交えながらイベントの失敗談を語り、僕はそれに対して一字一句真摯に返信した。彼女は僕の言葉ひとつひとつをとてもありがたがってくれた。最後には『うう、ういさんいないとダメじゃんわたし』と、泣き顔の絵文字と共にそんな文章が送られてきた。
「音響トラブルだっけ? マイクが壊れたって言ってたね」
「はい。マイクが壊れて、でも進行止めるわけにはいかないからって、焦っちゃって、セリフ全部飛んで、ステージの上で完全に棒立ちになっちゃって……。三村さんのフォローがなかったらと思うと恐ろしいです。イベントリーダーだったのに、だめだなぁわたし」
空になったグラスを握りながら、くてっとほっぺたをテーブルにくっつける。おや、僕の焼酎ももう空だ。先にすずにお酒とつまみの注文をさせてから、僕は黒霧島をもう一杯追加した。
「悔しいなあ。僕がリーダーの時も音響トラブルあったけど、あの時は二人でなんとか解決したもんね。いやぁ、昨日はほんと傍にいてあげたかった」
「うぅ、確かにういさんにはいてほしかった……。って、わたしがしっかりしなくちゃなんですけど! ういさんが辞めてもう三ヶ月近いですし。……ういさんの方は最近どうですか?」
「メッセで話したとおりだよ。七月から無事就職が決まりました」
すずは顔をあげて、外国に棲む小鳥の羽ダンスみたいな小刻みな拍手をした。ちょうど店員が酒を持ってきたので、そのまま「おめでとう」の乾杯をしてくれた。僕はやはり若干酔いがまわりはじめており、合わせるグラスが少しずれた。
「エンジニアなんですよね。すごいっ」
「すごくないよ。もう卵中の卵。受精卵くらい。知識ゼロから一ヶ月みっちり座学で研修して、資格も取りながらエンジニアを養成してくれるんだってさ。今こういう方針の企業増えてるんだよ」
「もう世界はコンピュータですもんね。エンジニアもひっぱりだこなんでしょう。がんばってくださいねっ」
世界はコンピュータって舌足らずな表現もまったく可愛いなあ。でもほんとに、就職が無事決まって良かった。ハロワと面接先への往復は正直心が堪えたものだ。無駄に高い僕のプライドは、二十八にもなってハローワークとかいう無職の巣のお世話になることに強い恥じらいを覚えていたから。
「割とプログラミングには興味あったからね。一体どういう理屈があってただの文字列がパソコンやゲームを作ってるんだか。働きながら少しでも学べたらってね」
尤もらしい言葉。五杯目の黒霧島を口につける。口の中は完全に焼酎のトロっとしたアルコールで満たされていて、飲み込むと後味が喉に焼けた。酒はそこそこ強い自覚があるが、男が泥酔したらカッコ悪いからこの一杯で終わりにしておこう。
会話を続けている間、すずは机に置いたスマホを時折指でちょいちょいしていた。時間を確認しているのもあるだろうが、誰かと連絡を取っているのは明白だった。そしてその相手についても明白だった。
「彼氏?」
ほろ酔いであることとは全く無関係に、僕はナチュラルに尋ねた。
「あ、はい。すいません、スマホいじってて」
「ううん。そのくらい自由でいてくれた方が嬉しい。大丈夫? まだ帰らなくて」
「大丈夫です。なんか向こうも飲み会みたいで。そろそろ帰るかもって連絡でした。……ういさんの方こそ、マヤさん、大丈夫ですか?」
「平気平気。さすがにすずちゃんと二人で飲むとは言ってないけど」
僕は笑ってみせたが、すずは小さな体を少しよじり、居心地悪そうな様子を見せた。
「すずちゃんは今日のこと彼氏に何て伝えてるの?」
「ん、職場の人とごはん行くから遅くなるって。決して嘘じゃないですからね」
ふやけたポテトをハムスターみたいにちょっとずつ前歯で噛みながら、すずは苦笑した。
なんて名前だったかな、忘れたが、すずには六年間も付き合っている彼氏がいる。保育大学の学生時代からの彼氏で、同棲を始めてもうすぐ二年と聞いた。当然結婚も視野に入れて交際しているのだろう。
そして僕にも里崎真弥子という三年ほど付き合っている伴侶がいる。マヤはバイト先の同期メンバーの一人で、そこで出会ったので当然すずとも関わりがある。付き合い始めて半年足らずで僕らは同棲をはじめた。約二年間交際相手と一つ屋根の下で暮らしているのは、僕とすずの大きな共通点のひとつだ。
そしてそれは共通点であると同時に、僕らの関係が揺るぎないことを示している。二人ともちょっとやそっとのことじゃ壊れることはないくらいの年月をパートナーと共にしている。今までの数少ない女性関係でもそうだったが、一度好きになった人を僕から振ったことはないし、ましてや浮気や二股なんて考えたこともない。罪とか、悪とか、倫理観の問題というよりは、元々そういう思考回路が脳にインプットされていない感覚だ。そしてたぶんすずも似たようなものだ。なにせ彼女は、純粋結晶。つまり僕らの間になんらかの過ちが起こる可能性はゼロに等しく、今この狭い個室で二人きりでいることに後ろめたさもいやらしさも微塵もない。
ああ、でも、そういえば。
「すずちゃん、昨日のメッセでマヤに悪いからーって僕と二人で飲むのすごく遠慮してたけど、本当大丈夫だからね?」
「ああ、はい。でも、その」
またほっぺたをぷにぷにし始めた。
「なんというか、二人とも現役の時、ちょっとマヤさんのこと怖かったんですよ。ういさん、マヤさんの前でもわたしのことめっちゃ可愛がるから……。マヤさんの目見るの怖かったです、あは」
「大丈夫だよ。マヤもすずちゃんのことは好きだし、今も応援してる。まあ確かに嫉妬深くて束縛強い子なのは否定しないけど、僕がすずちゃんを可愛がるのは妹的な感覚だし、マヤもわかってるからすずちゃんのことでマヤと喧嘩したことはないよ」
本当のことしか言っていない。ただ、マヤに対して今日のことを秘密にしている僕は、もしかしなくても、心の何処かっていうあやふやな場所に後ろめたさがあったのだと思う。
大盛無料のからあげをつつく手がお互い止まり始め、もうごはんもお酒もいいかなと、トイレから戻ってきた時、すずはスマホを両手に持って画面を凝視していた。さっきまでは机に置いて僕と話す合間合間にちょいちょいしていただけだったので、僕はすぐに違和感を覚えた。
「どうかした? また彼氏から?」
「……はい」
明らかにすずの顔色は優れなかった。
「もしかしてすずちゃんの帰り遅いの怒ってる? もう十一時だもんな。帰る?」
「いや、逆です。今めっちゃ帰りたくないです」
……。
想定外の言葉に、焼酎まみれの僕の胸がどろりと床ずれした。
「棚田氏、職場の保育士たちと飲んでるみたいなんですけど」
淡々とすずは語りだした。ああそうだ、思い出した、彼氏の名前棚田だ。以前からすずは苗字に「氏」をつけて彼の名を呼ぶ。
「なんか女の子ウチに連れてきていいかって今訊いてきました」
「は?」
「琴美ちゃんていうらしいんですけど、家遠くて、終電逃したって。ウチ泊めてもいいかって」
「なにそれ。すずちゃんとその琴美ちゃんて顔見知りなの?」
「いえ、名前もはじめて聞きました」
「……同棲してる二人の部屋に、知らない女の子が泊まりにくるってこと? 嫌すぎるだろ。というか、彼氏も琴美ちゃんとやらも無神経すぎないか。ネカフェ行けばいいのに」
どんどん沈んでいくすずの表情を見ていたら、自然と僕の語気は荒くなった。
「部屋片してないしわたしの私物もあるし洗濯物もぶら下がってるのに……。確かに終電ないんだったら仕方ないのかもだけど……。うぅ、ほんとこういうとこ気遣い無い」
「うーん、僕が彼の立場だったら、あまりに突然だし申し訳ないしで、そういう気持ちいっぱい込めた文章送るけどな。そういう感じじゃないの?」
「はい。連れてきてだめなわけないよねってニュアンスです。別にやましいことないからこそなんでしょうけど。でも同時にわたしにも気遣わなくていいって思ってるってことですよね。……ああ、すいませんすいません! こんな愚痴……」
また慌ててぺこぺこするすず。しかし心ここにあらずといった様子だ。それはそうだ、こんな深夜、彼氏が見ず知らずの女の子と二人きりで帰ってくるというんだから。この時、僕ははじめて察した。もしかしてすずは、棚田という彼氏に割と不満を募らせているのではないか、と。
しかし今はそれを訊ねるタイミングではない。どんな事情であれ、すずの味方をし、共感し、できるだけ彼女を元気づけてあげること、だ。
「家って唯一自分が安らげる場所なのにね。知らない人がいるだけで心休まらないわ。しかも彼氏が連れてくる同僚の女とか……」
「うぅ、まあ浮気とかじゃないとは思うんですけど……ああ帰りたくない帰りたくない」
帰りたくない、って言葉に一瞬たじろぎかけるが、あくまで一瞬だ。すずは僕と一緒にいたいからそう言うのではなく、謎の女の待つ家に帰りたくないから頭を抱えてイヤイヤしているだけだ。すずも深い意味で言ってないし、僕も深い意味にとらえることはない。
それでも帰りたくないというのならばできるだけ一緒にいてあげることが僕の役目だ。結局僕らはそのまますずの終電ギリギリまで居酒屋で話し、最後はダッシュで店を後にした。会計の際、僕は当然少し多めに出そうとしたのだが、すずはそれを突き返して会計金額全額をトレイの上に置いた。いやいやせめて割り勘だからと食い下がったのだが、珍しくこの時彼女は頑固で決して譲らなかった。こんな遅くまで話を聞いてくれたお礼だと言う。いやいや誘ったのは僕なのに。あまりに歯痒かったが、ここで頑なに断るとすずを申し訳ない気分にさせてしまうに違いなく、今度は奢るからねと念押しして彼女の気持ちを尊重した。
駅までの道を並んで早歩きしている間、空の眼は月の隣で相も変わらず輝いていた。月とほとんど変わらない白い光で、僕らを見つめていた。あれ不思議ですよね、うんそうだね、ほんとにかみさまの眼なのかなあ、僕らの空の眼に対する会話は一言二言で、傍観者のそれだった。
僕とすずの利用する電車はホームが違ったが、僕の場合はまだ終電に余裕があったので彼女をホームまで見送ることにした。彼女は遠慮したが、これから嫌な家に帰っていく憂鬱そうな彼女とできるだけ一緒にいてあげたかった。あげたい、なんて、傲慢なのかもしれないが。
「今日はほんとにありがとうございました。楽しかったです」
人まみれのホームに電車が滑り込んできて、すずは最後に振り返って微笑んだ。こちらこそ、良かったらまた飲もうね、そう返して僕は電車に乗り込んでゆく彼女の背中を見送った。
休日といえど最終電車はぎゅうぎゅうの満員で、小学五年生と変わらない小さすぎるすずは、周りに押しつぶされてあっという間に見えなくなった。それでもたぶんせいいっぱい身じろぎしてめいっぱい背伸びをしたすずは、なんとか顔をひょっこり出してドアが閉まる瞬間まで僕と目を合わせようとしてくれていた。
――あ、なんかこれ知ってる。
僕の検索履歴にはない。でも知ってる。カルーアミルクを蝋で溶かしたような、甘ったるい湯気が立ち込めて、風景が昔の映画のフィルムみたいに古ぼけたセピア色になった。自動ドアが警告音とともに閉まる。そう、なんだか映画みたい。映画だったらきっとここはよくあるシーンで、帰りたくないと言った彼女の手を満員電車から引っ掴んで連れ出したりするんだろう。
頑張って手を振るすずのちっちゃな指先が、走り去っていく電車のドアから見えた。それが最後だった。僕はしばらくホームに立ち尽くして、終電車の余韻に浸った。
あと二杯くらい焼酎飲んでたら本当にすずの手を掴んでたかもな。なんて、自嘲気味に思ったりしていた。