2.World wearing a delusion①
芽衣は瞬き二つで「ここはどこかしら?」その次に周りをきょろきょろと見渡して「さっきまでいた公園じゃないことは確かね」
芽衣はそこで状況を整理してみることにして、「まず、お姉さんの本を開いたらすっごく眩しくなっちゃって、目を瞑ったのよね」と言いながら目を擦り、「そのあと、光が収まったと思って目を開けたら、ここにいたのよね」と思案投首。
何分考えても納得するような答えは浮かばなくて、しまいには芽衣は考えることに疲れて、「考えているだけじゃ始まらないわ!」なんて言って歩き始めた。
芽衣がいるのは深い森の中。深い、なんて芽衣には確証が持てないけど、見渡す限り緑色なんだからそう思うことにしている。でも、不思議。深い森のはずなのに、人が通れるような綺麗な道があるんだもの。そんなこと、芽衣はちっとも不思議には思っていないけどさ。
「一体全体、キミはどこに行くつもりなんだぁい?」
芽衣が道形に沿って歩いていると、上の方から誰かの声が聞こえた。芽衣はその声の主を探してみようと上を見上げたけれども、それらしい人物は全くもっていやしない。だから芽衣は少し変に思いながらも、このまま無視をするのはよくないことだと思って、虚空に向かって「わたしだってわからないわ」と返事をした。
「わからないってなにさぁ。歩いているってことはぁ、歩く意味があるからなんじゃないのかぁい?」
またしてもどこからともなく誰かの声。芽衣は上だけじゃなく後ろも右も左も下も入念に確認するけど、やっぱり誰もいやしない。だからやっぱり芽衣は虚空に向かって返事をするしかなくて、「ほんとうにわたしにだってわからないのよ。だってどこかに行くことが目的なんじゃなくて、目的を見つけることが目的なんだもの!」と半ばなげやりになって言った。
そのうち、芽衣は見えない相手と話すことが段々と怖くなってきて、とうとう言ったんだ。「ところで、一体全体あなたは誰なの? さっきから顔も見えない相手とお話をしていてなんか変な気持ちになっていたのよ。ちゃんと目を見て話し合うって大事なことだと思うの。だからお願い、出てきて!」って。
すると、見えない相手はけだるさを全然隠そうともしない声で「ボクはさっきからずっとキミを見ていたけどぉ」そして大きく呼吸をしたかと思えば、「見ようとしてないのはぁ、キミの方なんじゃなぁい?」
この質問に芽衣はちょびっとだけムッとなって、それの仕返しのために芽衣は、大人が言っても聞かない子供にしつけをするような感じで言った。「ううん、わたしだってあなたのことを探したもの。それでも見つからなかったからこうして聞いているのよ。だってよく見てみなさい? わたしの近くにいるのは木の上でごろごろしている怠け者さんだけだ、も……の?」と言いながら、ナマケモノさんを見てみれば、ぱっちり。芽衣はナマケモノさんと目が合った。
「やぁ、はじめましてぇ」
ナマケモノさんはまんまるの目と小さい口を三日月のように裂けさせながら、芽衣に向かって笑いかけた。
芽衣はといえば、今までの人生で動物に話しかけられたこと――ましてや人間と同じ言葉で――なんてなかったから、ものすごく驚いて、しばらくは餌を懇願する金魚みたいに口をパクパクと動かしていた。
「だぁいじょうぶ?」
尻もちまでついて固まってしまった芽衣に、身体はピクリとも動かさず、だけど首だけをぐるんと回してナマケモノさんは話しかけた。
芽衣はナマケモノさんってば意外と優しいのかしら、と思ったけれど、ナマケモノさんの鋭く尖った爪に、先程笑った時に見えた凡そ草食動物には似合わない牙のことだ。きっと粗相を犯したりしたら、その瞬間にも食べられてしまうのだろう。
「だ、大丈夫。心配してくれてありがとう」
努めて冷静に。それと失礼のないようにしっかりと感謝もしておく。『ほうれんそう』が大事だってパパはよく言っているもの、と芽衣は思った。
ところで、『ほうれんそう』がなんで大事なのか芽衣は気になって、新聞を読みながらいつもいろんなことを教えてくれるパパの姿を頭の中で描いてみた。そしたら芽衣のなかでは想像と現実がごっちゃになっちゃって、「なんで青菜が大事なのかしらね」気がついたら疑問が口から出てしまっていた。まったく、芽衣の悪い癖だ。
「青菜ぁ?」ナマケモノさんが身近にあった葉を毟ってむしゃむしゃと食べながら、「青菜はぁ、ビタ二ン? とかGHQ? とかがいっぱいはいってるらしいからぁ、健康にいいらしいよぉ」
「GHQ? DHAの間違いじゃないかしら?」芽衣はナマケモノさんの間違いを訂正する。生活の授業でお魚さんのことを勉強したときにそんな単語が出てきた気がしたのだ。
「どうでもいいだろ、そんなことぉ」ナマケモノさんは相変わらずやる気のない声で言った。「ビタミンとかぁタンパク質とかぁ、ボクたちには関係ないんだものぉ」
「だめよ、ちゃんと食べなきゃ。バランスのいい食事っていいことだもの」
「無理さぁ。ボクは葉っぱしか食べたことがないんだから」
そこまで言われて、芽衣は話をしている相手がナマケモノさんだったことを思い出した。かずみちゃんと話すように不自由なく話すことができていたし、メェとかモォとかニャーとか――ナマケモノさんがどんな声で鳴くのか知らないけど――じゃなくて、しっかりと日本語を使っているのだ。芽衣の人生で、日本語で流暢に話すナマケモノさんなんて、見たことも聞いたこともなかったから、仕方がないといえば仕方がない。
でも人間と同じように日本語で話すことができるのだから、葉っぱ以外も食べることができるんじゃないかしら、と芽衣は思って、ランドセルから今日の給食のデザートだった果汁グミを取り出した。
「はいどうぞ」芽衣は手にしたグミをナマケモノさんに渡す。「なにごとも挑戦よ! ナマケモノさんだって、やる気を出してしっかりと泳いでみればすごく速いって誰かが言っていたわ」
「うぅん、わかったぁよ。わかったからぁ」とナマケモノさん。「あぁ、なぁんにもしたくないのに」ボソッと口だけで呟いて、芽衣の手からグミを取ると、ゆっくりとした動作で口に入れた。
もぐもぐもぐもぐ。
むしゃむしゃむしゃむしゃ。
……ごっくん。
「どうだった?」
「…………………………。」
芽衣はナマケモノさんに初めての体験の感想を聞こうと思ったけど、ナマケモノさんはなぜか目も大きく開けたままで微動だにしない。
芽衣はやっぱり動物にグミはだめだったのかを考えて、でも自分が勧めたものだから、なにあったときは芽衣が謝らなければいけない。とりあえず、芽衣はもう一度ナマケモノさんに感想を求めようとしたら、
「ど、どうだっ――」
「おいしい。…………おいしい! おいしいわ! おいしくてね! おいしいみたいで! おいしすぎるから! おいしいじゃないのさ! おいしかったけど! おいしいからこそ!」
――ああ、おいしかった。
ナマケモノさんは狂ったように「おいしい」を連呼して、終いには感慨に耽って、まるで数年来の恋人に逢ったときのような表情。芽衣はといえば、「そ、そう」とちょっとびっくりしながらも、気に入っていただけたことに、ちょびっとだけ喜んで、そして「でも、ちょっと怖いわ。動物園で見たナマケモノさんは間違ってもあんな風に発狂しないもの」と、ナマケモノさんに聞こえないように呟いた。でも、芽衣の声はひそひそ話でも普通の会話と同じぐらいの声量だから、もちろんナマケモノさんの耳には聞こえていたけど。さらに言うのならば、ナマケモノさんはといえば、絶賛気持ちが有頂天なので、芽衣の声は左耳から入って右耳から抜けて、聞いてなどいやしなかったけど。
「うまうま……ああ、おいしかったぁよ。どうもありがとぉ」ナマケモノさんはまだ満面の笑みだ。
「気に入っていただけたようでなにより」と芽衣。
そしたらナマケモノさんは、「うん。じゃあボクも、お礼をしなくちゃねぇ」と言った。
「お礼?」
「そうさぁ。キミの行先を教えてあげるよぉ」そして、「あっち」芽衣が歩いてきた方向を指さした。
「この森はねぇ、本当のことを教えてくれないんだぁ。つまりねぇ、行きたくない道を進めばこの森から抜け出せるってことさぁ」
「……行きたくない道を、進む」芽衣はナマケモノさんの言葉を反復する。
「そう。行きたくない道を進む。このことに関してはあのグミに誓って、ホントのことだからぁ。別に信じなくてもいいけどさぁ」
「ううん、もちろん信じるわ! ありがとねっ、ナマケモノさん!」
芽衣にはナマケモノさんが言ったことの半分も理解できなかったけど、ナマケモノさんが「あっち」と行先を示してくれたのだ。じゃあ、その方向に行けばいい。芽衣は疑うことを知らない純粋な子どもなんだ。
「じゃあね! また今度会いましょう!」
芽衣はナマケモノさんに手を振りながら、ここまで歩いてきた道を後ろ向きに進んでいく。
やがてナマケモノさんが見えなくなるところまで進むと、芽衣は身体の向きを反転させた。
今度こそしっかりと進んでいる、芽衣にはそんな気がした。