1.Erehwon in Wonderland
縦書きPDFで読んだほうが読みやすいかな、と思います。
芽衣は本が好きな女の子だ。小難しい本も、絵だけの本も読むけれど、最近は童話集ばっかり読んでいる。でも本だけが好きってわけじゃなくて、もちろん友達とおしゃべりをすることだって、勉強することだって大好きだ。
そんな女の子だから、小学生のくせに一丁前に下校中に本を嗜んでいた。小さい本を片手に登校していたお姉ちゃんのことを見習ったのもある。「せっかくのお肉を落としちゃうなんて、いぬさんってば馬鹿ねぇ」とは芽衣の一人言。
芽衣の意識は読書に全力100%向けられていたものだから、いつもと全く違う帰路を歩んでいることに気づいていない。その間にも先と同じように、くすくすと笑いながら話のなかの誰かに話しかけている。
「あれ、ここはどこかしら?」
ようやく気づいたかと思えば、もうそこは知らない公園を横切っている最中だった。だけどそんなことでは、芽衣の不安を揺することすらできやしない。「ここいらの公園は全部行ったことがあるつもりだったけど、ここにはまだ来たことも見たこともなかったわ!」呑気にそんなことを考えて、本をランドセルの中にしまって探索を開始する始末。
すべり台にブランコに鉄棒。砂場にシーソーまであって、そこはもう遊びたい盛りの芽衣にとっては楽園と同義だった。「明日、かずみちゃんに教えてあげなくっちゃ」と記憶にしっかりとメモをとり、とりあえずは自分で遊んでみる。何事も経験だってお姉ちゃんが言っていたのを思い出したんだ。
「シーソーって一人じゃ遊ぶことができないわ」
すぐ目の前にあったシーソーに座ってみたけれど、残念。芽衣はシーソーっていうのは一人用の遊具ではないことを初めて知った。「ふふ、また新しいことを知っちゃった」と明日かずみちゃんに教えてあげようと、メモをする。
「うーん、シーソーは一人じゃ遊べないし、次はなにをするかしら? すべり台もいいし、鉄棒もいいかもね」
思ったことを口に出しながらシーソーから降りて公園を見渡すと、芽衣は公園の中心に大きな木があるのを発見した。緑色の大きな手をこれでもかと広げている大きな木。それを見て芽衣は「わたしってば馬鹿ね。こんな大きな木を見逃していたなんて、バチあたりもいいところだわ!」
……どうやら芽衣にとってはこの大きな木は不思議なものでもなんでもないらしい。
10mほどの距離を走って木の幹のそばに着くと、下から見上げる木は先程よりもずっと大きく見えた。「すっごい。こういうのをじゅれい100年って言うのかしら」と思わず感想が漏れるほど。
「そんなに年老いてないわよ」
芽衣が木の大きさを感じようとちっちゃな手を広げて幹に抱きついていると、後ろから女の人の声がした。芽衣は振り返って声の主を見て、「お姉さんは中学生? それとも高校生かしら?」と問い掛ける。
お姉さんの特徴を言葉で表すのならば、腰まで伸びた綺麗な黒い髪とそれを際立たせる真っ白な肌。そして緑と白で彩られたセーラー服。芽衣のお姉ちゃんが着ているのとはほんの少しだけ違うけれど、シルエットは大体一緒。
うーん、とお姉さんは顎に手を当てて少しだけ悩む素振りをしたあとに、「高校生かな」と答えた。あとから思い返してみれば、至極曖昧な表現だけど、このときの芽衣にはそんなことは全く気にならなかった。大事なのは自分よりも大人で、お姉ちゃんと同じ高校生なのに、なぜかお姉ちゃんよりも大人っぽく見えるってことだけだ。
ふーん、と声に出して納得した風を装い、お姉さんの顔を見てまた質問する。
「ところでどうしてそんな困った顔をしているの?」
「聞いてくれるのかい?」
「だって困っている人は助けてあげなさいってママにも先生にも教わったもの」
つい二時間前にやった道徳の授業の内容――確かネズミさんとライオンさんのお話だった気がする――を思い出して、芽衣は起伏のない胸を精一杯突き出した。
「ふふ、君は優しいんだね」
「ち・が・う! 『君』じゃなくて『芽衣』。わたしにはママとパパに貰った大切な名前があるんだから」
続けて「お姉さんの名前は?」と芽衣。お姉さんはと言えば、先程よりもさらに困った顔になって「――――――っ………ううん、『神様』よ」「それってお天道様と同じ名前ね」するとお姉さんは「そうなのかもしれないね」と困った顔と微笑みが混ざったような表情で答えた。
「それで、どうして困った顔をしていたの?」
「それはね――」お姉さんは膝を折って芽衣と同じ目線になると、胸に抱えていた本――高さは普通の本の3倍くらいで、厚さは数千ページが軽く収まるくらい――について「この物語は空っぽなの」と話した。
芽衣はその本についてずっと気になっていたものだから、待っていましたと言わんばかりの食いつきだ。現に今も「空っぽ? 空っぽって真っ白ってこと?」ずっと疑問を口にしている。
数分眺めながらぶつぶつと何かを言ったあと、芽衣はお姉さんの目を見て、それから
「じゃあ芽衣が手伝ってあげるわ!」
それに続いて「でも、どうやって助ければいいのかしら?」「それにその本、わたしにとってはすごく重そうだわ」とお姉さんに返答する暇も与えないマシンガントーク。言葉のキャッチボールもなにもありゃしない。
「どうやって助ければいいの?」矢継ぎ早に話しかけたことに芽衣はやっと気づいたみたいで、「この本を開くだけよ」お姉さんは一つに絞られた質問に回答する。
「はいどうぞ」お姉さんは芽衣に本を差し出したけど、「なにこれ重い!」なんて言って芽衣は思わず本を地面に落としてしまった。
これには芽衣の図太い精神も流石に揺らいだようで、まず地面に寝っ転がっている本に視線を向けて、お姉さんが怒っていないかを確認するためにおそるおそる上げていく。
でもどうやらそんな心配は杞憂だったようで、お姉さんは芽衣の足を撫でたかと思うと次はしっかりと芽衣の目を見て心底心配そうな声で、「怪我はない?」と言った。
「大丈夫。心配してくれてありがとう」本当は小指の先っぽに本が当たって、そこがものすごく痛くて芽衣は今にも泣き出したい気持ちだったけど、心の中で「小指さん我慢よ我慢よ」なんて思いながら、できるだけお姉さんに心配させないよう笑顔を作る。
それでもやっぱり我慢にも限度があるから、芽衣は痛みを紛らわすためにまたしても矢継ぎ早で物事を進めてしまうんだ。
「ごめんなさい。本汚しちゃったわ」「ううん、大丈夫よ」
「それにしてもこの本大きすぎると思うの」「ええ、本当にそう思う」
「キャサリン先生が読んでいた黒色の表紙の本よりも分厚いし」「聖書かな?」
「それで、この本を開けばいいのね?」「そうだけど、変だとは思わな……」
「えい!」
なんて、芽衣は最後までお姉さんの言葉を聞き入れないで、勢いよく本を開けたんだ。
するとお姉さんの言っていた通り、芽衣はその本のちょうど真ん中あたりのページを開けたつもりだったんだけど、本の中身は本当に空っぽだった。
そんな文字一つない真っ白で綺麗な本は、開かれた直後に目がチカチカするくらいの強さで光出して、その輝きはあっという間に全てを包み込んでいって――――――「あ」最期に残ったのは小さな女の子の声だった。
白くて眩しい光がやっと収まった頃、物音一つない静かになってしまった公園に残ったのは再び閉じられている本と、相変わらず大きな手を空いっぱいに広げてる大きな木だけ。残ったそれらも風がふわっと吹いて、気付かぬうちに消えてった。
「あの子、面白かったなぁ」
「……ううん、『面白かった』じゃなくて、『面白くなる』かな」
なーんにもなくなった場所で、誰かの声だけが響いた。声質的に女の人の声に思えるけど、意識して憶えようとしてもすぐに頭の中から逃げ出しちゃうから、結局女の人かどうかもわからない。
しばらくその声も沈黙が続いて、次になにか聞こえたと思ったら
「ワンダー、ランド」
――そんなことだった。