夢*現
始めに。
この作品には流血、暴力表現、グロテスクな描写が含まれます。
優しいところだけ見ていたら、この世界はどんなに簡単に生きていけるだろう。
苦しくて辛いところを見ているから心は擦り切れ挫けそうになる。
でも、押し込め続ければそれは気のせいではすまなくなってしまう。
そんなことを考えながら書きました。
この世の現存物
事象
光と影に形作られるすべからくは
人々の醜い感情で本来の在るべき姿を歪められた……
私はそれを知っている
闇に覆われたこの場所から世界を見ているから……
体の奥まで染みとおる橙色の空に、墨がこぼされた様に闇が世界を侵食していく。
土手の砂利道から斜面の草原に鞄を投げ出すと私はそこに座り足を投げ出した。どろどろに熱せられたガラスみたいな夕日はもう半分も見えない。
そして私は、いつもの様に眼を閉じると耳に手を当てて音の海へと飛び込んで行く。
風に揺らぐ柔らかい青草の音
止め処ない川の水面がたゆたう音
闇夜の一時を過ごすために飛び立つ鳥たちの声と翼の音
人知れずお互いの存在を確認しあう虫たちの声
私の呼吸音、命を刻む心音……
全てが安らぎの中にあり、穏やかで、一つに溶けていく。
私の心は音の海をたゆたう、ゆらゆら……ゆらゆらと……
そこでは過ぎてゆく一瞬一瞬がまるで永遠に感じることができる。
ふと気が付くと、かすかに遠くから私の嫌悪感を煽るあの嫌な音が響いてきた。
レールを叩きつける金属音。
― ガタン ガタン ガタン ガタン ―
私は堪らず眼を開けた、この乱暴な音……
この音が私の心をかき乱す。
― ガタン ガタン ガタン ガタン ―
レールが叩かれる、レールの意思なんか無視されたままに車輪は好き放題に叩きつけていく。
― ガタン ガタン ガタン ガタン ―
人間をぎゅうぎゅうに詰め込んで、鉄の箱は土手に横断された鉄橋を横切っていった。
辺りは夕刻をとっくに跳び越して、宵闇の中にいつの間にか街灯が灯っていた、蛍光灯の無機質な光は私の青白い肌を、より一層白く光らせる。
風は止み、鳥たちもいなくなり、今は宵闇に暗い水を流す川と虫たちの鳴き声ばかりが空間を満たす。
空を仰ぎ見ようとしたとき、不意に肌寒さを帯びた早春の風が頬を薙いだ。
「そうだ、家へ……帰らなきゃ」
本当は別に帰らなくてもいいのだけれど、私には自身に課したあの人との約束が在るから。
『帰るの?あんな所へ?』
「……そうだよ、帰らなきゃだめなの」
夜風に冷え始めた体を起こし、服に付いた土埃を掃う。
投げ出した鞄を手に取ると、砂利道の方まで駆け上がった。
空には殆ど星なんか見えない、星の名前なんて詳しくはないけれど、ただ一つ知っている星が私にはある。
〈オリオン座〉
私の好きな星、兄さんが私に教えてくれた星座……。
だからと言ってその星座について昔話を知っている訳でも無いし何か神秘的なものに興味があるわけでは無いけれど、オリオン座はこの明るすぎる夜にも精一杯か細くも輝いているのを見て私と兄さんの数少ない思い出が消えてしまわないように願った。
それからほんの一瞬それを一瞥して、土手の道から帰りたくも無い我が家へと通じる公道へと駆け降りた。
私は夢遊病者にでもなったかのように闇に浮かぶ街灯をふらふらと辿る、無意識のうちに視界に入る借家の並ぶ静かな筈の住宅地。
薄暗い十字路を曲がると私の耳に響くあの声……。
あまりの不快感に鳥肌が立ち、足取りがより一層重くなる。沸き立つ吐き気を堪えながらも脚だけはただ只管に止まる事を知らない。
帰りたくない……
帰りたくない……
それでも行き場のない私はあの場所に帰る事しかできないか ら。
ベニヤ板みたいに安っぽい板に化粧板を貼り付けただけの粗悪な扉越しに罵声が響く。嗚呼、ほら、聞こえてきた。
耳を澄ませなくったってね。
「毎日毎日何もしないで、掃除ぐらいしたらどうなんだ」
「何もしていないですって!ふざけないで、私がどのくらい苦しんでいるのか分かってるの?あたしは病気なのよ。それに比べて口だけのあんたは良いわね、何事もなく健康で」
怒鳴り散らすことしか自己の欲求を満たす術を知らない愚かな男の怒鳴り声と中年も過ぎようという女の甲高いヒステリックな声……。
「またその話か!言い訳なんか聞きたくない、そうやっていつも病気を言い訳に逃げる気だろう?お前の魂胆なんて分かってるんだ」
「言い訳なんかじゃないわ、あんたの出来損ないだった連れ子の面倒だってちゃんと見てあげてたじゃない!まったく、その恩を仇で返してくれたのは他でもないその出来損ないじゃないの。私のかわいい琴美にあんな醜態を曝して」
「それはお前がきちんと裕一を見ておかなかったからだ!」
飛び交い止む事のない罵声……。
もうこれ以上聞きたくなかった……。
いつまでたっても止む事のない罵声は毎日の事なのだけれど、何度聞いたって私の心は慣れてはくれない。
胸が息苦しくて、精神がひりひりと焼けて磨り減っていくのが解る。こんな心、いつか麻痺して何も感じなくなれば良いのにと願うのに私の脳はそれを許してはくれない。
でも心が無くなったら兄さんとの思い出も消えてしまうから、本当の意味では心の中でそうなって欲しくないと願っているのだけど。
そんな事を考えながら私は音を立てないようにゆっくりとドアノブに手を掛け、扉を開け室内に入る。
そぉっと静かに、あの恐ろしい存在に気づかれないように歩く。玄関から廊下へ行き、左に折れて更にもう一度右に曲がった廊下の先の自分の部屋へと逃げ込む。
僅かな床の軋みとドアノブのかちゃりという音にあの女が反応した。
「琴美なの?」
さっきまで声を枯らせるほどの罵声を吐きかけていた声とは全く違う猫撫で声が、ドタドタトいう廊下を駆けぬける音と共に近づいてきた。
「ねぇ、帰ってきたんでしょう?」
俄かに色めき立つ声に堪らなく腹が立つ。それをあの女は理解していない……。
あいつがドアノブに手をかける前に、素早く私は扉の鍵を掛けた。
すかさず響く怒声は今の私には聞こえない。
「おい琴美、早く飯の支度をしたらどうなんだ!全くお前の母さんはとんだ役立たずだからな。お前がいなきゃ何もしやしないんだ」
「五月蝿いわね!あんたは黙ってなさい。ねぇ、琴美? どうして鍵なんか掛けたの?琴美の帰りが遅くて母さんとっても心配していたんだから。ひと目でも良いから顔を見せて?……ね?」
私は何も答えたくなかった。父と呼ぶべき男の悪態にも、猫なで声で泣きつく其処の五月蝿い女の声にも。どんなにあの女が縋ったって答える気も無かったのだけれども……。
放っておけば仕舞いには泣き出して、やがて諦めが付けば何処かに行ってしまうのだから放っておけばいい。
部屋は暗い。電気も付けずに布団の敷かれているであろう場所に倒れ伏し、私は枕を頭にかぶせて外界からの音を懸命に遮断した。部屋の外で喚く声など聞こえない。
私は眼も口も耳もすべてを塞いでしまいたかった。もう何も望まない。
暗闇の中で、土手で聞いた美しい音の数々を思い出しながら私の心は刻一刻と擦り切れていく。
ここには美しいものなんてもう残っていない。何もかもが美しい造形の上から醜く肉付けされている。
上辺ばかりを取り繕うためだけに編成された友人という名の他人。
母という名を振りかざし、娘という役割を課せられた私に寄生し依存する女と、
何もかもを私に押し付け喚き散らすあの男。
あぁ、私の心が枯れていく……。
何処かへ、いってしまいたい……。
嗚呼、一層の事兄さんのところに行きたい。
『だからさっき言ったんだ。帰るのか?って』
雨粒のように暖かく降り注ぐ言葉……。
私の望む甘露のごとき甘言。囁き。
「……でもね、他に私の居場所は何処にも無いんだよ?」
総て、本当に何もかもが今の私にとっては精神を煩わせる弊害でしかない……。
それでも、今の私には居場所と言うべきものが無いのだから。
兄さんの居たこの家こそが、兄さんの暮していた空間に存在する事こそが今のわたしの存在理由とも言えた。
『一緒に行こうか』
目の前に開かれる扉、それは美しく煌めく。
「何処へ?」
「……琴美。誰と話しているの?誰か、いるの?」
醜悪な世界の遠い声は霞の向こうへと消え入りそうなほど弱々しく、わたしを引き止めるには至らない。
此れはある意味決心とも言える。
迷いの無い未来への手引き……。
『おいで、琴美』
眼を閉じなくとも見える幻想。
包みこまれる安息感……。
夢が此方側へと辿り着くように。
「分かった、私を連れて行って。お兄ちゃん……」
迷いは無い。
基、未練は無い。
此処は何処?
遠い記憶が弄られる。
……そう、そうなの……。
かすかな断片を追うように。
レストラン。
嗚呼、そうなの。
そうだ、ここは小綺麗なレストラン。
其処に居るのは私と母……。
昔の記憶の断片が無意識にそう告げる。
高層ビルの大きなガラス張りの窓からは、宝石みたいに散りばめられた夜景が綺麗だった。
顔の無いウエイターが私と母さんを大きい窓のあるテーブルへと案内する。
其処に待つ得体の知れない男と一人の青年。
今でも鮮明に覚えているあの日と湧き出た感情と嬉しそうな姿。
そしてニコニコと媚を売るあの私の一番嫌いな顔で母さんは私に言った。
「あのね、琴美母さん、この人と結婚するの」
「けっこん?」
「そうよ、それに琴美にもお兄ちゃんができるのよ。さぁ、紹介するわ」
そう言って出てきたのは母と同い年くらいの中年男性と、眼鏡をかけ優しそうな顔をした青年が一人。
結婚という言葉を知っていてもそんなもの身近には無いと思っていた。
増してや父親という存在が私の前に現れようとは思ってもみなかったし、そんなものは必要ないとさえ教えられてきたような気がする位だったのに、
あの時の母さんは、あのときの母さんだけは何故か全く別の生き物のように、私に教えてきた事に全てに反していた。
小さな体中を駆け巡る混沌の感情で今にも叫びだしそうなのを必死に只ひたすらに耐えていたのを、あのとき誰が知って居たであろう……。
小さく震え戦慄く程に強張る私を見て、同様に困惑しきったような顔で傍らの青年は私にごく小さく耳元で囁いた。
「僕たちは似たもの同士だね。これからよろしく、琴美ちゃん」
なんて優しい声だったろう。
あれは同じ痛みを持ったもの同士が傷口を曝しあう様なものとか、甘えではなかった。
心に直接温度を与えられ目の前の黒い手をゆっくりと払われた気持ちになるのを感じて居たから。
小さすぎる私はただ与えられるだけ……。
そう。それが、私の兄となった人にかけてもらった最初の言葉。
変わりに震える唇で、私は恐る恐る口にした。
「お、にいちゃん」
私は7歳、兄は21歳だった……。
それが、数少ない私の過去の記憶。
鮮明に蘇る優しい気持ち。
其処は上も下も左右も、斜めも奥も手前かも判らないところ。
『眼を開けるの?』
いつもの声、優しく染み入る私の心。
このまま眠っていれば、朝はきっと永遠に来ない。
意識も、記憶も、身体も溶けていき私は全てを失って、同じくしてわたしは全てになる。
其処には何があるの?
きっと何も無いけれど、悪いところではないと思うの。
『あそこに光が見えるよ』
混沌が混沌へと吸い込まれていくように誘われるまま私は眼を開けた。
「っ!」
永いような、短いような、時間軸を超越した世界での目覚め。私はそう思った。
眼が覚めると、わたしは辺り一面の甘い風に揺らめく美しい煌めきに心を奪われた。
花だ……ガラスの花だ。
大きな花弁を誇らしげに広げ、眼も眩む程のきらめきを放つ。
青から黄緑、黄色から赤へと刻一刻と揺らめくその様は幻想を思わせた。
中空には同じくガラスで出来たフェイクの星々と、それに混じる小さく白い遠くの炎。
命の潰えた刹那の瞬き。
徐に立ち上がる身体。
無論、私の意思で行った事だけど、何故かその感覚が何処か余所余所しく感じた。
花弁に舞う過去の面影がわたしの眼球に映し出される。
一人泣く私の傍らで殴られる兄さんの姿。
侮蔑の目でこちらを睨むあの男。
泣き腫らした私の瞼をそっと撫で、罵り合うあいつ等の声から耳を塞ぎ守ってくれたあの暖かい手。
周囲の景色は見れば見るほどオリオンの青白い輝きも相まって、その幻想にはよりリアルさに欠けていた。
『お帰り、琴美』
懐かしい声が私を呼んだ。
待ち望んだ、救いの声が……。
「兄さん?」
琴美が振り返った場所には人影があった。
懐かしい声なのに、見覚えの無い姿……。
その人物は全身を覆う夜の闇よりも尚暗い漆黒のローブと、
深く被ったフードのせいでしっかりとした事は何一つ判らないけれど、
その声は待ち望んでいたそれと酷似している。
『こっちにおいで』
「兄さんなんだね……」
声に逆らう理由など無かった。
ただ其処に自身の求めるものが在るのだと、根拠の無い理想が心の中で掲げられていた。
『琴美、やっと逢えた』
漆黒のローブから伸びる痣の在る、けれど白く輝く腕は私の頭を優しく撫でている。
兄さんだ。紛れも無くそうなのだと私は信じて止まない。
嗚呼この感覚は、この感覚は私が心から望み待ち侘びていた在るべき姿を成し得なかった未来の形。
そんな綺麗な手で私に触れてはいけないのに、兄さんは私を猫にするかのように撫でる。
私は罪深く業を背負っているんだよ?
兄さんを苦しめてきたと言うのに。
過去にあるのは、暴力と悲しみと母親の偏執的な愛情の矛先……。
兄さんはただ耐えるだけ、
私はそれを甘んじて受け入れてしまった。
それは偽る事の出来ない過去。
『思い出さなくて良いよ、辛い過去ならもう思い出さなくて良い』
兄さんの甘言は私の脳を麻痺させる。
しかしその時、突如として私の前に現実離れした画質の荒いビデオ映像のように何かが現れた。
そう。
母さんの言っていた兄さんの“醜態”が。
鴨居に電気コードを掛け、散りばめられた簡素な手紙を床に見下ろして……。
目に焼きついて離れない。
ぎぃぎぃと軋んだ柱の音と、揺らめいている兄さんの……
兄さんの体が……。
ふらつく身体、母の嘲笑。
その先の世界は赤く塗り込められて居る。
記憶は定かでは無いけれど、今迄ずっと押し込められていた感情と握られた光、噴出す赤い私の思考が拡散していた。
母は私に向かって何か言おうとしている。
その言葉の続きを私は聞かなくては成らない。
そして、然るべき未来へと行かなければ成らない。
嗚呼、成すべき事を思い出した……。
私が私に約束したもう一つの未来の形。
眠りとまどろみの幻想からは得られない、欲して止まない開放感。
身を引き裂かんばかりの苦しみに満ちた現実を打開するために。
私は兄さんから少し身を離して言った。
「私、やらなくちゃ」
泣きそうな兄さんの顔が見えた、気がする。
突如として、焦燥感に似た形に成らない靄が私を取り巻いた。
兄さんの手を握りしめ、頬に当てる……。
暖かい温もりが冷え切った全身を暖めていく。
暗がりの中にある兄さんの口がほんの少し動いて私に何かを告げたけれど、その声は今の私には聞きとる事が出来なかった。
「大丈夫。母さんも、父さんも、此処には来ないから。
今度は私が兄さんを守る番……。
だから、だから何も出来なかった私を許して頂戴……」
もう一度私は眼を閉じる。
本当の悪夢を早く終わらせてしまいたいから。
この世界に、あいつらの存在は要らない。
暗闇に支配されると、再び意識は遠い所へと持ち去られていった。
「とみ……琴美!」
不快な、ヒステリックで甲高い例の声で私の意識は覚醒した。
「生きてたのね琴美。嗚呼、良かった。」
薄目を開けた刹那、総ての視界は深紅で彩られ、それと同時に左腕に何かの痛みを感じた。
「またあの薄汚い連れ子のせいね」
涙目で駆け寄る女は次の瞬間には他の方向を向いていた。
開け放たれた窓の風に揺れる何かに視線を放つ。
……血の色、血の匂い、パリパリと強張る衣服、手指、動かない左腕……。
そして、あれは揺らめく兄さんの姿。
どうしてもう一度目など覚ましてしまったの?
目的を忘れかけていたその時、あの馬鹿な女は悉く(ことごと)墓穴を掘った。
知らない振りをしていれば良かったのに。
「この男のせいなんでしょう!あたしの娘にこんな醜態を曝して!あんたなんて必要ないのよ!汚らわしい」
事も在ろうに、あの女は兄さんを引きずり下ろし、あの汚らわしい足で害虫にそうするように蹴ってみせた。
何度も、何度も……。
此れは既視感でもあり、つまり過去からの積み重ねとこの先も続いていたかもしれない未来の光景……。
若しくは私の本来の在るべき姿。
硬く冷たいものを感じて私は突き動かされるように立ち上がった。
右手に在るのは牛刀包丁……。
左腕からは塞がらない傷口から新たな鮮血が脈打ちながら噴出す。
「琴美!今救急車を呼ぶからね。それまで母さんが手当てするから!立ってたりしたら危ないわ」
「・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・こ、琴美?」
母と呼ばれる女が悲しみとも恐怖ともつかない表情で私を見た。
私が一歩近づくと、母は一歩後ずさる。
なぜかそれが可笑しくて堪らない。
わたしの顔はきっと笑っているに違いない。
「あっ!」
母が突然しりもちをついた、兄さんの身体に躓いたせいで。
「な、何をするの?あたしはあなたの母親なのよ?こんな赤の他人よりもあなたの事を知って居るつもりよ」
「・・・・・・・・・・」
最早、何も聞こえない振りをし、刃を振るうべく私は冷酷な何かに突き動かされるほか無い。
だって私には果たすべき事があるものね。
次の瞬間、いとも簡単に私の脳は憎むべき相手を排除すべく刃を振り下ろした。
シュッという風を切る鋭い音と共に母の左の肩口は実に柔らかく、そして見事に大きく裂けた。
「ぎゃあ」
獣の咆哮に似た叫びと共に、肩口からは絶え間なく赤黒い血を噴出し始める。
生暖かい血飛沫が私の顔と身体を濡らしていく・・・。
一閃から身を守るために身体の前に突き出した指には刃が食い込み、神経と骨とが剥き出しに成り、肉の半分捲れ上がった指を震わせた母は実に哀れで、惨めで、滑稽だ。
その指のまま母は必死で肩口を押さえながらわなわな震え、怯えた声を出した。
血まみれの顔。私と、母自身の血液……。
「止めて……お願いよ。母さんが何をしたって言うの?」
「五月蝿い、黙れっ!」
その言葉を聞き終える前に、私の腕は次に引き裂く場所に狙い定めて振り下ろされていた。
「やめ……」
ビシャリと湿った音が部屋に満たされ、鮮血を今一度一身に浴びた私は母を見下す。
餌を強請る金魚のように口を何度もパクパクとさせ、喉からコポコポと音を立てて血が出るばかりで
喉に大きく口を作った母に喋る事は叶わない。
それは今までに得た事もない充足感。
あれだけ人を罵り、言い訳を続けて私と兄さんを虐げてきた女が今となっては満足に喋る事も出来ずに血を滴らせて死神の足音を待つばかりなのだから。
さぁ、今度は何処を甚振ろうか……。
「…あ…あ……」
「何よ……汚い目で見ないで」
両の目が、此方を向く。恐怖と痛みに全身を震わせながら助けを求め、許しを懇願する眼差し。
私は包丁を置いた。
もちろん、母を助けるためなんかではない。
ゆっくりと、しかし確実にギシギシと私の中の何かが崩れ始めるのを感じる。
けれど、それはどうにか成るものではなくて、抑えの効かない暴れ馬に身を任せては徐々に従っていく。
そして、右の拳を握り締め眼球に宛がう。
しかし、これから行われる行為を察してか母は固く眼を瞑り、首を逃げるように捻る。
私は構わずに瞼の上から親指に精一杯力を込めた。
ぶにゃりと、まるでゼリィを押しつぶしたような感覚が指に伝わり、私の全身は打ち震えた。
母の身体はそれに従いビクッと大きく痙攣し、声の出ない喉からは痙攣するたび血が噴出し私をどんどん赤く染め上げていく。
もう一つ残された眼球も何の苦も無く、ごく簡単に指によって破裂させられた。
良い気味だ、心の底からそう感じる。どうして今までこの感情に向き合う事をしなかったんだろう。
憎くて憎くて、この母と呼ばれる女がどうしようもなく憎くて仕方が無かったのに……。
(私の話を聞いて!お兄ちゃんは悪くないの!お母さんの大事な物を壊しちゃったのも、小鳥を逃がしちゃったのも、みんな私のせいなの……お願いお母さん。お話を聞いて……)
何時もそうだった。
何も悪い事をして居なくても、明らかに私に非が在っても、
折檻を受けるのは決まって兄さんのほうだった。
話を聞いてくれない母は笑顔で私に一方的な答えを押し付ける。
私自身の意思なんて其処には無くて、ただただ抵抗しようのない息も詰まる程の恐怖にも似た愛情が存在していた。
「琴美は悪くないの。悪いのはあの男と知らない女の間に生まれたこの薄汚いお兄ちゃんのせいなのよ」
「ごめんよ琴美。お兄ちゃんがみんないけないんだ」
「・・・・・」
「馴れ馴れしく琴美の事を呼ぶんじゃないよこのクズ!」
兄さんは何を言っても殴られ、蹴られ、痣にまみれた身体はそれを作った母に気持ちが悪いと言われていた。
幼心に渦巻くその感情……。
兄さんが罵倒され、私の頭をあの女が優しく撫でる度に、
私の心も同様に傷つき痣にまみれていった。
……苦しくて、苦しくてどうしようもない。
全ては何処から狂ってしまったのだろう。
今更振り返る気力は残されて居ない……。
あのレストランに足を踏み入れた瞬間に、私の心は出口を無くし、“家族”として機能を開始したその日から何かが違っていたんだ
父も母も、自分の事しか考えて居ない……。
私と兄さんの事なんて、いつでも二の次だったから。
もうそんなのはお終いにしよう。全部無くしてしまえば良いんだから。
ぐしゃ、ぐしゃと何回も耳に残る湿り気を帯びた音が鼓膜に焼きつき始めていた……。
まるで壊れてしまった機械のように、何度も何度も同じ行動を反芻する私。
気がつくと私は母の上に跨り、腸を引きずり出さんばかりに腹部を滅多刺しにしていた。心の奥から歓喜がこみ上げて来る。
満たされなかった欲求が成就され、涙が溢れてくるのが分かった。
ぬるりと滑る包丁を刺したまま私は立ち上がる、先程感じていた動かない左腕の痛みなどはとうの昔に消え失せていた。
今はただ、恋をする誰かのように心臓が高鳴っている。
しかし、もう二度と動かないであろう左腕だけが幾時間か前にそれと正反対の行動を示していた私の動かざる証拠でもあるけれど、そんなことはどうでも良い。
その時、水鏡の如く静まり返った空間をかき乱す何かが音を立てた。
鍵の開かれる音……。
「琴美っ!ババァ!明かりも点けねぇで何処にいるんだ。帰ってきてやったのに誰もいないとはとんだ家族だ。」
耳障りなその声に、琴美は小さく答えた。
「……お帰り」
電気コードが入っていた工具箱の中からモンキーレンチを取り出して、滑らないようにしっかりと握り締めた。
呻く様な咆哮も、床を踏み鳴らす足音も、私には目の前の出来事のように感じえるほどに研ぎ澄まされ、吹き上がる感情を処理するために居間へと向かう。
ドアノブに手を掛ける直前に最早人間として機能する事は叶わずただの腐りゆく肉隗へと転じた母を一瞥して。
「それにしてもこの臭いはなんだ。こんな生臭い中で飯なんか食えるか!全く、ろくに家事もこなせないのかお前らは!」
ひたひたと、板の間は音も立てずに私を導く。
さぁ早く、早く早く!
私をあの男のところに!
畳張りの居間に胡坐をかいている無防備な背中……。
この男が死ねば、私たち兄妹は自由になれる。
まだ気が付かれていない。馬鹿な男。
それをある意味では哀れとも言うのかもしれない。
でも、今の私にはそんなことはどうでも良かったし、関係ないのだけれど。
呼吸を整えるとレンチを振り上げて、あの空っぽの頭に狙いを定める。
「お休み、お父さん」
「・・・・!」
不機嫌に私を睨みつけたのは一瞬の事。真っ赤になった私にくれてやる言葉も無いと言う風に振り返ったまま奴は固まった。
渾身の力と狙いを定めた一撃は、見事に腐った西瓜の様な水っぽく汚い音を立てて頭を砕いた。
どさりと床に崩れ落ちる身体がどろどろと脳漿と共に血を垂れ流す。
やがて私はレンチを捨てて、白く霞む世界の向こうを夢見た。
それから私は・・・・・・・・・。
燃えるように身を焦がしていたあの憎しみはもう無い。
そして、準備は整った。
鼻をつくガソリンの匂い……。
大嫌いな筈のマッチ……。
目の中に写る橙色は、遠く離れてしまった幸せな日々の断片を思わせる。
瞬間の命を与えられたか弱くも偉大なその夕日を、私はその手から手放した。
嗚呼、暁に包まれる。
これから一時、浄化の光が咎人の罪を燃やし尽くしていく……。
部屋を、家具を、物と化した人間の残骸を舐め上げる炎。
それは恐ろしく
それは美しい
極上の特別席で観覧する喜劇………
総てが芝居がかっていて、わたしの肺を、皮膚をチリチリ焼いて行く事さえがまるで冗談か何かのように時は流れていく。
可笑しくて堪らない。私はいつの間にか笑い出していた。
このまま、ありとあらゆるものが壊れてしまえば良いとただ只管に願う。
何もかもがわたしの願い通りに叶い、この先の未来なんて考え無くても良いんだから。
全部忘れてしまおう。
この世界に私の望んだものはもう何一つ無い。
夥しい熱のうねりと呼吸の苦しさ、痛みによって今正に手放されようとする意識の硝子を一枚分透かした先に、あの懐かしい声を私は再び聞いた。
『琴美……琴美……』
「兄さん……」
轟々(ごうごう)と猛る炎の前に兄さんが立っていた。
不確かで幽かな声はきっと私の聞きたい言葉として脳内へと信号を送っているに決まっている。
だって、声はこんなにも遠い。
『 』
なぁに?
聞こえないよ
もう一度言って……
『琴美、さようなら……』
それが最期の言葉…………
私の立っていた足元は足場であることを止めて奈落の口を空けた。
さぁ、何処へなりと私を連れて行くがいい。落ちる恐怖はない、痛みも感じない。
けれどただ一つ、兄さんの姿が私から離れて行く事こそが何よりの苦痛だった。
しかしそれは、当然の報いなのかも知れない。
私自身の救いの為に多くを犠牲にした、私にとっての罪と罰の形……。
でも結局のところ救いなんて言葉はこの世にも他の世界にも存在するか否か、闇の中に答えは無い。
だから……。
不確定なあちら側の世界にも、この世界にも決して答えなど在りはしないのだと確信した。
螺旋を描き闇に溶け込む身体に意識を預けると、私は私である事を止めた。
夢*現 終
最後まで読んでいただきありがとうございます。
少し暗い作品でしたが、如何だったでしょうか。
心の声は簡単には聞こえません。
だからといって無視していれば暴れだし、誰かを傷つけてしまうかも知れない。
痛いと思えば素直に声を上げる事も大事なのではないかと思います。
明るいところだけを見つめずに、時には心の片隅で小さく振るえ泣いている心にも手を差し伸べてみてはいかがでしょう。