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しのぶ

 おれは机に向かったままだった。ふと時計を見るとすでに一時間たっている。勉強は一行も進んでいない。

 はあ

 おれはため息をついた。髪の毛を弱々しくかきむしり、シャーペンの芯の長さを調節し、椅子に座り直した。

 それからがっくりと肩を落とした。

 駄目だ。全く集中できない。

 頭の中は奈落荘住人の映像が飛び交っている。

 おばさんの笑顔。

 やおいとまおりんの掛け合い漫才。

 たけちんとリーダーの夜這い。

 めちゃくちゃの食事。

 わずか一週間であまりにも多いイベントだ。

 ひっそりとした住宅街で未亡人との静かな生活はどこへ行ったんだ。これで受験勉強に集中しろなんて無理だ。

 おれは暗い窓ガラスに映った自分の顔を見た。

 このままではおれはまた受験に失敗する。集中できなければおれは実力を発揮できない。

 しばらく自分の顔を見つめていたおれは決心した。

 田舎へ帰ろう。

 それしかない。大学へ受かってからであれば奈落荘での生活もいいもんかもしれないが、このままではおれは受験に失敗し、人生の敗残者になってしまう。


 おれは奈落荘に備え付けてある電話で実家へかけた。ずいぶん時間がかかってから母が電話に出た。

「あ、おれ」

「あんた誰?」

「おれだよおれ」

「おれじゃ分からないわねえ。最近「母さん助けて詐欺」とかはやってるからちゃんと名前くらい言いなさい」

「わかってるくせに! 里巳です」

「で、なに。いま忙しいのよ。いや、店が最近はやってねー。とても回らないから新しく住み込みの人をやとったのよ。そうそう部屋が足りないからあんたの部屋を使わせてもらったわ」

「ええっ! おれの荷物は?」

「物置」

「じゃ、もしおれが里帰りしたら、どこに寝るんだよ」

「そんなの個室があるじゃない。うちはマンガ喫茶なんだから」

 漫喫の個室に宿泊って、おれはネットカフェ難民ですか!

「で、なんか用? お金が足りないの?」

「いや、もういい」

 おれはそそくさと電話を切った。実家に戻るとかありえない。しかもマンガ喫茶の個室。一番集中を乱されるところだ。そもそも実家の環境がだめだから上京したのに、戻るとかいう後ろ向きの選択肢は最初からありえなかった。だからといって、AKOたちのいるこの奈落荘も最良の選択とは言えないが。

 どうしよう。おれはため息をついた。


     *


 夜になっていた。

 おれは様々な考えに頭の中が混乱していた。

 もはやおれの帰るべきところは実家にはない。

 おれの経済状態では一人でアパート住まいなど考えられない。

ここが、この奈落荘が現在おれの唯一の選択肢になってしまった。

 とりあえずどんなに住心地が悪くても、期待と違ったとしても、あの騒がしい娘たちと折り合いをつけて暮らさなければならないんだ。

 おれは考えすぎて熱くなった頭を冷やすために縁側のガラス戸を開いて外に出た。木のサンダルが石の上を打ちカラリという音をたてる。

 月を見ようとして家の横手へ回ったら、そこは干し物の満艦飾だった。

 AKOの連中は二階で干すことになってるから、これは家主と家族の衣類だろう。

 真っ白のブラジャーが何枚かかかっていた。ふと気になって近づいてよく見た。

 かなり大きなサイズだ。Cカップかな。Dカップかも。やはりおばさん。熟女のボディーラインが自然に頭の中に浮かんでしまい、おれは頭をぶるぶると振った。

 せっかく頭を冷やすために出てきたのに、これじゃもっと熱くなる。

 しかし気になった原因はサイズではなかった。

 奇妙なブラジャーだ。ブラジャーのあちこちに余分なベルトやホックがいくつもついている。ここをこう装着して……このベルトを引き絞って……。

 これはもしや、噂に聞く「大リーグボール養成ギプス」もとい「体型補正下着ファンデーション」というものではないだろうか。そうか、おばさんもまだまだまだ若い女性。自分の肉体的魅力を増幅させるために陰でこんな涙ぐましい努力をしていたんだ。

 おれがブラジャーの構造原理を分析するためにあちこちをつまんで確認していると、家のかどを曲がってしんくんが現れた。

 しんくんはおれの姿をみるとはっとしたように体をこわばらせた。

 またものも言わずに逃げてゆくのかな。いつになったらおれと普通に会話してくれるんだろう。

 しかし今夜のしんくんは違った。サンダルをカッカッカッと響かせておれのところに足早に駆け寄ると、思いがけないほどの激しさでおれが摘んでいたブラジャーをおれの手からもぎ取った。

「あ、」おれは少し驚いてしんくんを見た。

 しんくんはおれより頭一つ分背が低い。サングラスをかけた表情はわからなかったが、おれのことを上目遣いでにらんでいるのはわかった。心なしか、ほおがピンク色に染まってる。

「ええと」ここはどう反応すべきかな。おれ、なにもやましいことをしてたわけじゃないし、いや、女性の干してある下着を手にとって調べていただけだし、匂いをかいでたわけでもないし、頭にかぶっていたわけでもないし……


 十分変態でした。


 警察を呼ばれたら前科一犯(下着泥棒)になるような行為でした! すみません。もうしません!

 しんくんはブラジャーをにぎりしめたままぷるぷると肩を震わせていた。

 えーと。おばさんに家族扱いされてるとはいえ、きみもそれを握りしめてるのはまずいんじゃないの?

 そう思っているうちにしんくんは素早く後ろへ振り向き、サンダルの音を響かせて駆け去ってしまった。

 あれをどうするつもりなんだろう。

 おれは後に残されたまま、そう考えていた。


     *


 騒々しい昼間が終わってやっと夜になった。

 おれの仕事はまだ残っている。静謐を利用して深夜まで勉強し、みな寝静まったあとで一番最後に風呂に入るのだ。

 スニーカーを洗っているおばさんに洗濯用洗剤が切れたから洗面所の棚から予備を持ってきてと頼まれた。

 おれは洗面所の入り口をがらっと開けた。

 もわっとした湯気の香りがした。奥の風呂場で誰かがシャワーを浴びている。

 誰か、なんて数えるまでもない。AKOの連中はみな二階のシャワー室を使うことになってるから、階下はおれたち家族、すなわちおばさんとしんくんとおれしかない。

 つまり今シャワーを浴びてるのはしんくんということになる。

「入るぜ」

 おれは声をかけたが、返事はなかった。シャワーの音で聞こえないのかもしれない。おれは中に足を踏み入れた。

 棚を開けたが、洗剤はなかった。

 おれは洗面台の下の棚やら横やらを探したが、見つからない。

 ふと脱衣カゴを見ると中にはCカップブラジャーと真っ白なパンティーがきちんとたたんであった。

 おばさんもこれから風呂に入るのかな。

 なんの気なしにかごの中のブラジャーを凝視した。

 やはりでかい。熟女のサイズだ。

 あれ? そういえばしんくんの着替えがないな。

 スポーツ少年はいつもジャージを着ている。しかし早朝ジョギングをしているのを見たところはない。

 いやまて。このおばさん仕様のCカップ体型補正ブラジャーと純白のパンティーの下に綺麗にたたんであるのは、しんくんがいつも着用しているもっさりとした灰色ジャージではなかろうか。

 おれはこの奇妙でアンバランスな取り合わせがかごの中できちんとたたまれている謎に打たれて、ブラジャーをつまみ上げたまましばし推理にふけっていた。


 ガラッ


 風呂場のガラス戸が開いた。

 中から出てきたのは、胸の上からひざ上までを真っ白なタオルで巻いた。小柄な女性だった。

 その瞬間、おれはDIOに覚醒した。

 いや、暁美ほむらになったと言ってもいい。

 つまり、おれの周りで時間が停止したのだ。

 おれはその少女を見、その少女はおれを見た。


 きゃああああああああああああああああああ!


 奈落荘を貫いて、巨大な悲鳴が空気を震わせた。

 一瞬おいて、どたどたという乱れる足音が階段を降りて来、AKOの浪士どもが洗面所のドアをばっと開いた。

「ああっ!」叫ぶリーダー。

「決定的瞬間をパパラッチ」とまおりん。

「痴漢や痴漢」とたけちん。

「そんな人だったんですね」非難する目つきのグラマラス。

「ほーう、ほーほっほっほっ」得心いった、という風にせせら笑うやおい。


 しかしおれはそれどころではなかった。

 おれの前で全身を真っ赤にほてらせて恥ずかしさに震えているのは、ボーイッシュに刈り上げた美少女だった。

 いや超絶美少女だ。AKOの連中が全員90点以上だとすると、このは128点はいく。

 バスタオルを突き上げる胸につい視線が行ってしまう。そんな! あのもっさりしたダサいジャージの下に、こんな秘宝が埋もれていたとは。

 少女はまつげを震わせておれを上目遣いで見た。サングラスで隠れて見えなかったが、大きな目。長いまつげ。そして右目のわきに大きな赤いあざがあった。

「あらぁ。どーしたの?」のんびりとおばさんが登場した。この人ぜんぜん空気読めない。

 少女はタオルのすそをなびかせて、だっとおばさんに駆け寄るとその胸にすがった。

「あらあらあら。里巳ちゃん。ちょっと情熱的過ぎない? ほら。しんくんがこんなに怯えてる。ほんとに若い人ったら……」

「若い人ったらじゃないですっ! おれ、その子が女だなんて知りませんでしたっ!」

 おばさんはきょとんとした。

「あら、言わなかったかしら。でもわかると思ったけど」

「わかりませんでした。だって「しんくん」って……」

「ああ、この子は「しのぶ」って言うのよ。だから「しんくん」」

「紛らわしいですっ!」

「見たらわかるでしょ。小柄だし、体つきもどう見ても女性だし……」

「いいえっ! ジャージで隠れて体つきなんて分かりませんでしたっ! 今日までっ」

「それを確かめるために風呂場を偵察したのぉ? まあ、積極的ねぇ」

「違います。洗剤を取ってきて、と頼んだのはおばさんじゃないですかっ! おれは無実です!」

「あ。まあそうね。私が洗剤を頼んだわね」

「そうでしょう。誓ってぼくはそんな痴漢行為などしていません!」

「そうよね。さとみちゃんがそんなことをするはずないわ」

「そうです!」

 AKOの衆人環境の中、おれは自己の主張が勝利したことを確信して、右手のこぶしをにぎりしめたまま胸の前に構えた。


 そこにはしっかりとCカップブラジャーがぶら下がっていた。


    *


「痛っ。ううっ、近づかないでください。あっ、触らないでっ!」

 被告の答弁虚しく、AKOたちによる即席魔女裁判では、Cカップブラジャーをおれが握っていたことに対し、しんくん、ことしのぶが「いやあああ」と叫んだことが決定的な状況証拠となり、現行犯逮捕。いやおれ混乱している。なに言ってんだ。

 結局初犯ということと、育ち盛りの若い男ということで情状酌量を受け、一時間の正座で済んだのだった。

「あ、足が……し、し、しび……」

「目が、目がー」まおりんが茶々を入れる。

「ほーんとに。油断ならないわよね。男なんて」

「これからこいつと一緒に住むの。やばくない?」

「まあ、家主の親戚だから追い出すのもねぇ」

「おばさんって、こいつにちょー甘くない? 本来宮刑か打首獄門……」

 宮刑はかんべんしてください。

 司馬遷になって受験勉強に勤しむのはいやだ。


     *


 で、翌日。

 おれは痛む足をさすり、なんで足が痛いんだろうとねぼけた頭で考えながら台所へ入った。


 そこにいた。


 その瞬間すべて思い出した。流しの前にはおれの足が痛む間接的・直接的な原因となった少女がいた。あいかわらずもっさりした灰色ジャージの上下にサングラスをかけている。

 しんくん、こと、しのぶはおれが入ってくるとちょっと体をびくりとさせて止まったが、いつものように走って出てゆくことはせず、そのまま洗い物を続けた。

 おれはどう声をかけていいかわからず、しばらく彼女の真っ白なうなじを見つめながら黙っていた。どうしてこんな色白で華奢なのに最初から女性だと気づかなかったんだろう。

 おれが見つめていると段々そのうなじがピンク色に染まってきた。他人の背後からの視線を感じ取ることのできる敏感な人がいると聞いたことがあるが、彼女もそういった種類の人間なのだろうか。いや、おれ、そんないやらしい視線してた?

 このまま黙ったまま見つめてると本当に変質者みたいだ。

 AKOたちは朝遅い。AKOが寝ている奈落荘は本来の静けさを取り戻している。

 昨夜はAKO浪士どもの魔女裁判で大騒ぎになり、きちんと一対一であやまる機会がなかったが、本来こういったことはきちんとするべきだ。

「あ、あの」

 ガチャン。

 おれが声をかけるとしのぶは手を滑らせて皿を落とした。洗いたての皿はかろうじて水切りバスケットの中に並べられた皿の上に落ちた。

 すばやくしのぶの手が動き、皿をおさえる。止めたばかりの蛇口からシンクの中に水滴が落ちてぴちょん、と響いた。

「えと、あの。昨日のことだけど……」おれはつっかえながら話した。「本当に悪かったと思ってる。ごめん」

 おれはぺこりと頭を下げた。

(いい)

 小さな声が聞こえた。

「えっ?」おれは思わず顔を上げた。

「いい」

 しのぶはおれに背をむけたまま今度ははっきりと聞こえる声で言った。

「ぼくも……同じだから」

「え?」

 しのぶはゆっくりとおれに向き直った。両腕で胸を抱きかかえるようにガードしているのは、まだ警戒心を解いていないようで、おれは理解しつつもちょっと傷ついた。

「ぼくも南部さんが女性だと勝手に思い込んでたから。同じだから」

 え?

「「さとみちゃん」って名前をおばさんから聞いて、頭の中で単純にお姉さんみたいな人を想像してた。まさか男の人とは思っていなかった」

「そうか」

 そういう意味か。

「だから……最初に会ったとき、びっくりしてあいさつもできなかった。失礼しました。だからぼくのことも許してください」

 おいおい。

 なんていいなんだ。


 おれは女の子にいじられ歴≒(ほぼ)彼女いない歴≒(ほぼ)年齢だからよくわかるぞ。高校の時、クラスの女の子たちに「南部くんっていじりやすいのよねー」とか言われて毎日バカにされていたからツッコミ・ボケスキルも上達したし、いやおれなに考えてんの! 今はそれじゃないって。あああ、トラウマ記憶がどんどん増幅する。

 そうだ。おれっていじられっ子だったんだ。高校は女子校が共学に変わって数年の学校だった。だから男子生徒の数も少なくて、それでハーレムかというとそんなことはない。絶対なかった。

 最初の頃おれが誰か特定の女の子に用事があって声をかけるとクラスの中の空気がぴん、と変わったんだよな。女の子ってのはどうやら一人では生きない生物らしくて、必ず群れる。むれたグループの中での互いの関係が大事らしくて、つまり一人だけ男の子と話すとかはグループ内の関係に微妙な影響を与えるらしい。

 そんなこと最初はわからなかったおれは女子に話しかけるたびにさりげなく無視されたりしてずいぶん傷ついた。後で慣れてくるとおれはいじられやすいキャラを演じることにした。どんなにバカにされても怒ったりせずに聞いていれば、女の子たちは安心して「南部くんは人畜無害で安心できる」キャラ認定してくれる。そうすれば恋愛対象として、ライバルとの緊張を呼ぶことはない。

 男子の中にはたまに女子の間でカリスマ的人気を勝ち得て、さらに女の子間のしこりも起こさせないようにすることができる者もいるが、どんなリア充、どんな器用者だよ。

 少なくともおれはそんなに器用じゃなかったから、女子トライブの下に位置することで無用の緊張を避けたつもりだった。でもそれで女子には軽んじられ続けた。女の子はいったん馬鹿にできると思うとそれはひどいんだ。だからある意味おれは女性不信と言えるかもしれない。女子の嫌な部分をたくさん見たから。


 とにかくこんなに真っ直ぐに謝罪されたのは気持ち好かった。薄暗い台所の中で澄み切った青空が見えたような気分になった。おれは言った。

「そうか。おれは全然気にしてないから。てゆうか、里巳って名前で女に間違われたことってあんまりなかったし」

「あと、南部さんが部屋に入ってくるたびに逃げ出したこと、嫌な気持ちにさせたと思います」

「え、いや。それはなかったよ。そもそも昨日まで男と思ってたし」

「ぼく、男の人がこわいんです。だから北川さんからさとみちゃんが住み込みに来るって聞いたときは安心してたのに男の人だったからびっくりしてしまって……」

「北川さん? ああおばさんね」

 叔母の名前は北川陽子という。

「……でもこれからはなにも言わずに逃げたりしません。よろしくお願いします」

「あ、ああ。おれもよろしく」

 おれはつい、ジャージの胸元を確認した。本当にあのちょっぴりもこっと盛り上がっている部分にあの大艦巨砲主義が装備されているのだろうか。

 しのぶははっと緊張して身をこわばらせた。

「前言撤回。身の危険を感じます」

「あ、いや、ちょっと待って」

「男の人って、いやらしい」

 まあ、それは真実だが。

「でも、女はもっとやらしい」

「それってどういう……」

 しのぶはくるりと後ろを振り向いてしまった。そのまま何もなかったかのように洗い物を続ける。あんな言葉を吐いた後なのに、おれが背後にいるのは大丈夫らしい。

 おれはあまりいやらしくならないように、しのぶの後ろ姿を見ていた。

 そのまましのぶはおれを無視したまま洗い物を続けた。おれは仕方なく寮のそうじを始めた。


 洗い物が終わって床をモップでふいているしのぶにおれは声をかけた。

「あのさ」

「なんでしょうか」

「見てると畳の部屋もほうきで掃いてるけど、なんで掃除機使わねえの」

AKOあこーのみなさん、この時間は寝てますから」当然、という感じで答えた。

 やっぱいいだ。おれはがぜん彼女のおれに対する好感度を上げたくなった。会話を続けたいな。

「畳の部屋を掃くときは、しぼった茶殻をまいてからがいいぜ。ほこりがとれる」

「ふうん」しのぶはおれを不思議そうな目で見た。「南部さんって年寄りみたいなこと、言いますね」

「うん、まあ、ばあちゃんの知恵だよ。俺んち、ばあちゃんがいたから、寝たきりの」

「その方は、南部さんが東京に出ることに反対しなかったんですか」

「この春、死んじゃった」

「そうですか。すみません」

「いや。人間はいつか死んじゃうんだな」

 しのぶは遠いところを見る目をしたまま言った。「人間だけじゃありません」

「あのさ」

「なんでしょうか」

「「しんくん」っての紛らわしいからやめにしないか」

「なぜですか」

「その呼び名でおれも男と間違ったし、そこから色々な問題が起きたし、一緒に住んでるんだから、もうちょっと普通の呼び方をしたいんだけど」

 色々な問題、という所でしのぶはかっと赤くなった。サングラスで目は見えないけど、わかりやすいやつだ。

「ど、どんな呼び方にするんですか」

「「しのぶ」って呼び捨てにするのはまだ早い気がするし……」

「もう亭主気取りですか」

「「しんくん」って「くん」づけだと男みたいだから「しんちゃん」ってのはどうだろう」

「絶対やです!」

「え、いやなの?」

「あの無意味にパンツをおろしてお尻を見せる下品な子どもと一緒の名前なんでやです」

「ああ、あれね」

 国民的アニメもしのぶにかかってはかたなしだ。

「普通に苗字で呼べばいいじゃん。おれのことは「南部さん」って言ってくれてるから、おれも苗字で呼ぶよ。なんて言うの?」

「秘密です」

「おいおい」

「言いたくありません。本名を知られるとそれを使って呪いをかけられるとおばさんが言ってました」

「どこの世界の話だよ!」おばさんそんなキャラだったのか!

おれは考えた。「じゃあ「しのぶちゃん」でいいかい。女の子っぽくていいんじゃない」

「おばさんが「子供の頃男の子として育てるとおしとやかな女の子に育つ」って言ってました。

「いつの時代の話だよ! それ!」

「そんなに大きな声を出さないでください。こわいです」

「あ、ごめん」

「男の人って、臭いし、声が大きいから嫌いです」

「しかもいざというときは力ずくでなんとでもなる、と考えているから油断できません」

 いや、本当にこの、箱入り娘だわ。

 おばさん。恨むぜ。

 おれは天を仰いで嘆息した。


「いやでも」おれはめげなかった。誤解も解きたかったし、なにか力になってやりたかった。それで話しかけ続けた。

「しのぶちゃんってよく気がつくし、本当にいいお嫁さんになるよ」

「それは新手の口説くテクニックですか」

「いや、本気で言ってる」

「その後は「毎日おれの朝飯を作ってくれないかな」とか言うんじゃないですか」

「いや」それもいい気もするが。

「その後で「実は金に困ってるんだ。一生の頼みだから貸してくれ。必ず返す」とか言うんじゃないですか」

「おいおい」

「それで金がないならおれがいい店を紹介してやるから」とか言って風俗で働かせるんじゃないですか」

「まさか」どんなダメンズだ。完全に狡猾なヒモだよ、それじゃ。

「人間のクズですね」

「いつの間におれがそうと決まったんだ!」

「民法に書いてあります」

「ねえよ!」

 ガードが固い、というより全方位警戒網という感じだ。


     *


 そうこうするうちに、しのぶは椅子を部屋の中央に引っ張ってきてすえるとさらにもう一脚をその上に積み上げた。そうしてなにをしてるのかとおれの見守る中で二段重ねの椅子の上に登った。

「おい。なにをしたいんだ」

 しのぶは返事をせずに天井から吊るされている蛍光灯をがたがたとゆすり始めた。しのぶの背丈では、椅子一脚だととどかないのだ。

「おい。そんなことなら声をかけてくれればおれがやるぜ」

 おれの言葉にはなんの返事も返ってこなかった。

 しのぶはそのまま蛍光灯を揺らし続けついに一本はずした。おれは受け取ろうと手を伸ばしたが、無視された。しのぶははずした蛍光灯を自分の乗っている椅子にたてかけようとそろそろとしゃがもうとしている。しゃがむことでようやく怖くなったようでバランスを崩した。

「あっ」

 上に乗せた椅子の足は下の椅子の上にかろうじてひっかかっていたが、それがはずれて落ちた。上の椅子と一緒に落ちてきたしのぶの身体をおれは受け止めた、つもりだったが重みに耐えかねて尻もちをついた。しのぶの細くて柔らかい身体がおれの上に覆いかぶさるように乗っかった。顔に柔らかくはずむような弾力が感じられる。巨大だ。これが天国というものか。

「ああっ」

 しのぶはずり落ちそうになったサングラスを直すとあわてて立ち上がろうとした。顔が真っ赤になっているのがわかる。立ち上がろうとしておれのズボンを踏みつけて滑り、再び転んで膝をついた。ついた先はおれの中心部分だった。

「ぐあっ」おれは股間をおさえてうめきながら転がった。この痛みは女性にわからない。先ほどの顔の感触と合わせて天国に入れられたあと、地獄に落とされたような感じだった。

「だだだ大丈夫ですか。ごめんなさい!」

「おれにかまわず先に行け」


    *


「ぼく、中学校でてないんです」氷枕を渡してくれたしのぶはおれの横に座っていた。

「男の人って、やっぱり女の人の胸が大きい方がいいんですか」

「胸の大きな女ってやらしいと思いますか。男をたぶらかすいやらしい女と思いますか」

「いやあ」正直に答えた方が地雷か否定した方が地雷か迷って手を頭の後ろにやったおれはしのぶの声が震えているのに気づいた」

 これはきちんと答えなければいけない。

 そう直感した。

「いや……おれも男だから……胸が気になるっちゃ気になるけど……それはもっぱら男側の問題でさ、だからやらしいのはむしろ男の方で、女の子のせいじゃないよ。だって胸の大きさは神様が決めたことだろ。人は生まれつき自分の胸の大きさを決めることはできない。両親だってできない。だから胸が大きかろうと小さかろうとその女の子のせいじゃないし、そのことで女の子の人格は関係ないよ。全然」

「ぼく、中学校のときにもうクラスの誰よりも胸が大きかったんです。それで、いじめられました。女の先生までもぼくのことを「男をたぶらかすいやらしい女」っていいました」

 担任に恵まれなかったんだね、きみも。

「あるときクラスのある女子がある男の子に告白して振られたんです。でもその次の日からクラスの女子が全員ぼくに冷たくなりました」

「どうして」なんとなく想像できたがおれはたずねた。

「その男の子はぼくのことが好きだったんですって。その女子が友達を引き連れてぼくに文句を言いに来ました。ぼくはそんなこと気づいてもいなかったし、なんとも思っていなかったんで、なんとも思っていないって答えたらなまいきだって言われて」

「なまいきね」そんなときは何を言っても無駄な気がする。

「モーもーむすってあだ名をつけられました」

「モーニング娘のことかい」

「いえモーモー牛みたいに胸が大きいからだって」

「うわ」女子って残酷だよな。

「そんなようなことが数件ありました。それでクラスの女子が全員敵になりました」

 数件もあったんだ。男子には人気絶大だったんだな。

「それで胸を小さく見せるブラを買いました。でも仲間はずれは終わりませんでした」

「毎日上履きを隠されたり、違う教室や違う時間を教えられてぼく一人別のところへ行ったり」

 いじめ大国ニッポンよ。

「当てられてはっきりとした声で発言すると横から「ボヨンボヨン」ってささやくんです」

 やめなよ。そんな自分を傷つけるのは。

「ぼくはだんだん声が小さくなりました。すると先生たちも授業態度が悪いって」

 もういい。

「椅子に画鋲がおいてあったり」

 もういい。

「教科書を隠されたり」

「もういい。やめろ」おれは思わずしのぶの肩に手をおいた。「そんなにしてまで学校に行かなくていい」

「おばさんにもそう言われましたぼくが「学校に行きたくない」って言ったら。「あたしも高校途中までだったけど別にそれで困ったことないわ」って。」

 からっとしてるからな、あのおばさんは。おとこという感じだ。

「それでぼくは奈落荘ここにいます。ここがぼくの世界です。学校に未練はないけど、相変わらず声が小さいのと人混みが苦手なのは変わりません」

 しのぶは顔を上げてサングラスを直した。

「でも、正直そんな自分が好きではありません。もしできるなら、普通の女の子みたいに大きな声で笑ったりおしゃべりしたりショッピングしたりしたいです。それがぼくの望みです」

 なんだか涙が出てきそうになった。普通の、女の子にあこがれる規格外の少女。でも、神が与えたもうた美貌のため(そしてさらに胸のため)に名もない野の花のように生きることができない。おれのそんな表情を見てあわてたようにしのぶは言った。

「あ、別にぼくが不幸なわけではありません。でも、なんていうか、ぼくはちょっと他の人と違うみたいで、話も合わせられないんです。空気読めないっていうんじゃないですけど、そうですね、種類が違うっていうか」

「種類?」

「人種、というより、生物の種類、ですか」

 よくわからないまま、おれは黙っていた。

「ぼくは……その……あっ、笑わないでくださいね」

 おれはうなずいた。

「ぼくの存在というのは……なんというか……いわば……猫なんですね」

「猫」

「そうです。それも捨て猫です」


     *


 台所兼居間にはおれとおばさんだけだった。しのぶは二階のAKO47用シャワー室とトイレをそうじに行っていなかった。本来なら二階はSKO47の領域だが、彼女らは本当に家事はダメ駄目だったので、しのぶが一人でやっていた。おばさんも家事全般だめだし、もししのぶがいなかったら、この奈落荘はどんな事態になっていただろう。

 おれは前から聞きたかったことを思い切ってたずねてみた。

「あの、おばさん」

「なあに」

「しのぶちゃんって、いつからおばさんの家族になったんですか」

「あら、あのこに興味あるの」

「え、ええ、まあ」

「あのこは本当にいいこよ。お嫁さんにするには最高よ」

「あ、いえ、そういうつもりでは」

「ま、今は受験生ですからね」

 そういう意味じゃないんだけど。

「あの子、実は捨て子なのよ」おばさんはさらっと言ったがおれは胸がどくんと打った。

「そう……だったんですか」

「いいのよー、別に隠すことじゃないし」おばさんはテーブルの上に頬づえをついて言った。「ちょうどあれはあたしが二十歳はたちのときだったわ」


     * * *


 十八で結婚した北川陽子は二十歳のとき、年上の夫に先立たれた。

 夢見がちな少女のような部分を残した陽子にとって、夫はとても大きな部分を心に占めていたため、夫の死をしばらく現実とは受け止めることができず、葬式が終わってからも数週間、陽子はただぼうぜんとしていた。機械的に食事をしたり風呂にはいったりはしたが、なにかをしっかりと考えたりすることはできなかった。部屋は散らかり放題になり、ごみもたまっていた。

 ある雨の日だった。陽子がいつものように呆然と庭を眺めていると、突然窓ガラスの外を影が横切った。それが陽子には一瞬、亡き夫の影のように見えて、陽子は思わず「待って」と叫んで庭に走り出た。影はそのまま当時『北川荘』という名だった奈落荘のはずれそうな門を飛び出ていった。陽子はとりあえず縁側においてあった木のサンダルをつっかけてカラカラと音を立てながら走った。門を出て左右を振り返ると影が最初の角を曲がっていったような気がした。梅雨の温かい雨がしずしずと振りそぼる中、陽子はサンダルのかかとがスカートに泥をはねるのも気にせず走った。ちょうど安楽寺まで来ると影は中に飛び込んだ。安楽寺の後ろには夫の墓前がある。あの影は亡き夫の霊だろうか。いてもたってもいられず安楽寺の境内に駆け込んだ陽子はそこで硬直したように立ち止まった。きれいに掃き清められた境内の中に累々と猫の死骸が転がっている。その一つに近づいてみると光のない瞳で三毛猫が陽子を見つめた。陽子はしゃがんでその猫の死体にふれてみた。まだ暖かかった。硬直もない。手で血のついた毛皮をなでてみた。かみ傷の他に明らかに刃物による傷があった。

 だれがこんなことを

 陽子は歩きまわり累々と転がる猫の死骸を一箇所に集めはじめた。どれもまだぐにゃりと柔らかく、しかし脈のあるものは一つもなかった。死骸は三十ほどもあっただろうか。

 ふと、振り返ると石灯籠の影に小さな人影がいた。

 陽子は身震いすると立ち上がりその人影に正面から対峙した。小学校一年生くらいの少女だった。両腕にかかえきれないほど大きな白猫の死骸を抱いている。陽子がそれを取ろうとすると「必死」と言えるほどの力強さで猫をつかんだ。そのときようやく陽子はその少女が少しおかしいのに気づいた。古いデザインの白いワンピースを着ている。ワンピースの胸が猫の血で汚れている。足にはなにもはいておらず裸足だ。目はうつろでどこか遠くを見ているようだ。

「このは死んじゃったから、お墓に埋めてあげないと」

 少女は陽子の言葉にも無反応だった。

「あなた、名前は? どこに住んでるの?」返事はない。雨だけが強くなってくる。

 陽子は覚えていた。自分が小学生だったころ、こんな温かい雨の中を油断して裸足で歩いた翌日、高熱を出して寝込んだことを。それで無言の少女と同じくらいかたくなに陽子は言った。

「この猫はね。もう死んじゃったの。死んだものは人も猫ももう決して生き返らないのよ。決してもう戻らないの。だから無理に引き止めず、お見送りしてあげて。ね」

 そう言いつつ、陽子の目に急にどっと涙があふれた。少女に言い聞かせている生と死の事実を自分自身も受け止める必要があることに今気づいたのだった。陽子はそのまま白猫を抱きとめる少女を抱きしめながら嗚咽をあげて泣いた。雨は静かに降っていた。


 猫たちの死骸はまとめて平安寺の住職が引き取ってくれた。裏の墓地の余った土地を使い、猫塚を作ってくれた。残された陽子と少女は北川荘で暮らし始めた。少女は言葉は話せたが自分の名前もどこから来たのかも忘れていた。身元のわかる持ち物もなにもなかった。警察は事件の線を調べてくれたが、誘拐や失踪の届け出はなかった。もし陽子が里親として進みでなければ施設に預けるしかない。しかしその選択が出てくるころまでに、陽子にとってその少女はかけがえのない存在となっていた。戸籍がないため養子縁組すらできなかったが、少女は北川陽子の「家族」となった。猫塚のそばで見つかったから姓は猫塚、名はしのぶと名付けた。

 

     * * *


「そうだったんですか」おれはどういった言葉をかけて良いものか悩んでだまっていた。そんなおれにむけて陽子おばさんはにっこりとした。

「なんてね。昔のことよ。気を遣うことないわ」

「それで、しのぶさんはそのままここへ」

「最初は普通のこどもらしく学校へ通わせたのよ。これでも親代わりですからね」おばさんはちょっと胸をはった。「頭は悪くないんだけれど声が小さいでしょ。ほら、いつもうつむいてるし」

「それで小学校では友達がいなかったみたいね。それでも中学校までは行かせたんだけど、ある日、急に学校へ行きたくないって言い出して、わたしも理由わけを聞いたんだけど、話さないのよ。まあ、家の中ではほんとにしっかりしてるし、いいお嫁さんになるなら学歴いらないしね。いまでは彼女がいなければアパート経営まわらないわ。しのぶちゃんが奈落荘ここを出たら、わたし餓死するかも。だからしのぶちゃんが結婚する相手はここに住んでもらおうと思ってるのよ」

 おばさんはそう言うとおれの方を意味ありげにながめた。

 おれは目をそらせた。


     *


 おれが夜受験勉強していると二階がだんだんだん、と響いた。AKO47《あいつら》は夜になると元気なんだよな。昼は不機嫌そうに黙ってるくせに。

「やれやれ」

 集中を乱されたおれは両手を頭の後ろに組んで嘆息した。これじゃ勉強続かない。

 ノックの音がした。

「どうぞ」おれが言うと、お盆を持ったしのぶが入って来た。盆の上には淹れたてのお茶と羊羹が乗っている。なんだか涙が出そうなくらいうれしかった。

「甘いものって頭の疲れにいいんですよ」しのぶは当然という様子でちゃぶ台の上に盆を置いて去ろうとした。

「猫塚さん」

 しのぶははっとした様子で振り向いた。

「本当にありがとう」おれは真っすぐに見つめて言った。偽らある本心だった。この奈落荘でおれが受験生であることを気遣ってくれるのはこのしのぶだけだ。実家でもこんな気遣いをされたことはない。

「しのぶ……でいいです」

 猫塚しのぶはそう言って去った。こころなしかほおが赤らんでいるように感じた。


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