歓迎会
「ちょっとちょっと。そんなこと初耳です」
「そうね。先週決めたことだから」
そうか。おれがアパートに下宿させてください、と頼んだのが先々週だから……いや、そういうことでは。
「で、でも急すぎませんか。心の準備が」
「心の準備? そんなもの今からして。あら、まずかったかしら」
うきうきとした様子のあばさんは初めてちょっと困った様子で額にしわを寄せた。おれはそれを見てちょっと胸がつまった。
もともと自分の都合で下宿させてください、と転がり込んできたのはおれの方じゃないか。その居候の身のおれが、自分の都合で勝手なことを言えるのか。
でもしかし静謐な環境というのは、おれがきちんと受験勉強して大学受験で合格するためには必須なわけで……それを今譲ってしまったら二度と得られない気がする。
「まあ、こんな狭い場所にたくさん女の子がいたら、さとみちゃんもちょっと気にするかもしれないけど……」
いいえ! ちょっとではありません。大いに気にします。
だってA級の美少女だぜ。それも六人も!
この少女たちと一つ屋根の下。
毎日顔をあわせて。
「ま、でも、わかってちょうだい。おばさんは困っている人を見ると放っておけないのよ」
その言葉におれのパニクっていた心ははっとつかれた。
今まで疑問だったおれの家系の謎が一つ解けた。
今までおれのおやじを見てもおふくろを見ても自分のことばっかり考えて息子のおれに色々と押し付けてきて、おれはそれをつい聞いてしまうし、両親が困っている他人や親戚を助けるところを見たことなんかないし、おれは本当にこの家の子供なんだろうか、本当は貰われっこなんじゃないか、などと悩んだこともあったが、やはりおれは南部家の人間だということがはっきりした。
今目の前ににこにこしながら大きな責任を引き受けようとしているこのおばさんこそが、おれの血統なんだ。
アイドルが好き、とか毎日が刺激的でなくっちゃ、というのも本音だろうけど、このおれと同じ家系の血が流れるおばさんは、人助けの必要が目の前に現れると、見境なく行動してしまう、そういうタイプの人間なんだ。
おれは根拠もなしにそう確信した。
それでおれはこう答えるしかできなかった。
「いや、おれなんでもしますから。どんどん言いつけてください」
「ご両親からも手紙が来てるのよ」
えっ?
それは初耳だ。
おれの両親は自分の店のことで手一杯で、おれが受験をすると言っても、上京して予備校に入り受験に専念すると言っても本気で取り合わなかったのだが、先回りしておれのことを託すような手紙をおばさんに送っておいてくれたのか。
(お父さん。お母さん。誤解していておれが悪かった。やっぱり心の底ではおれの将来を案じてくれていたんだね。親元を離れて初めておれは自分の両親の偉大な愛情に気付かされた気がする。)
「ええと……」おばさんは手紙を広げて読んだ。「我が家の居候が大望をいだいてそちらに行きます。そちらも人手不足でしょうから遠慮なくこき使ってやってくださいね。下人とみなしてもらって構いません」
ちくしょう! 親なんて嫌いだ! こっちから縁を切ってやる。
*
荷物をそれぞれの部屋に運び込んだときにはすでに夕方になっていた。
そうじをし、今日必要な最小限のものだけ梱包を解いて今日の作業は終わりにした。
「引越しのときには「てんやもの」と決まっているらしいわよ」おばさんがそう言う。「今までの数しれない入居者がみんな口を揃えて言うんだから間違いないわ」
まあ、台所用具はそろっているしガスや水道の元栓も開いているからなにか作ろうと思えばできるが、おれは三回の引っ越しで正直へとへとだ。おばさんのおごりらしいのでありがたく頂戴することにした。
「ちわーす。まいど! 魚虎寿司です」
寿司屋が出前の寿司桶をいくつか持ってきた。おれはそれを台所兼食堂へ運ぶ。
一階の半分ほどを占める台所兼食堂はきちんと片付いていた。
先ほど落とした茶碗は片付けてあり、こぼしたお茶は拭いてある。
コンロに南部鉄器がかけてあり、先ほどの少年が湯が湧くのを待って立っている。
おれが入って行くとびくっと体をこわばらせ、こわごわとおれの方を見てからまたさっと向こうへ振り向いた。サングラスに隠れてどんな表情をしてるのかわからない。
おれが寿司をテーブルの上に載せ、玄関へ引き返そうとすると、かの少年がおばさんにそっと耳打ちするのに気づいた。小さい声でなにを言っているのか聞こえない。
おばさんはにこにこしながら聞いていたが、突然天井を向いて呵呵と笑った。
「やだあ、しんくんったら」
おばさんはおれを向いておかしげに言う。
「このこったらね、あなたが来ることは聞いていたけれど、女性だとばかり思っていたんですって。ほら名前がさとみだから」
ああ、それで。
おれは納得した。小学生のときには女みたいな名前だとからかわれ、ずいぶん嫌な思いをしたがもう慣れた。大冒険家の植村直己みたいに名前は女に間違えられるが立派な男はいくらでもいる。おれもそのあたりはすでにスルーできるくらいの年齢になっていた。
おれは大人の納得顔で会釈してみせたが、少年はほおを紅潮させ、ぷいと向こうを向いてしまった。ま、いっか。
「ちょっと質問なんですけど」
寿司を全部運びこむと、おれはこれからの生活を組み立てるためにおばさんをつかまえた。
「なにかしら」
「各部屋にトイレや調理場はないようですが、もしかして全員ここで食事ですか」
「そーよ。なにしろ古いアパートだから台所も食堂も共同」
げっ。じゃああの少女たちと毎日一緒に食事。
「あの、まさかお風呂場も……」
おばさんはにっこりした。
「そこは大丈夫。二階にシャワー室とお手洗いがあるからAKOのみんなにはそこを使ってもらって、私たち家族は一階の古いお風呂場を使いましょう。
「私たち家族」。その言葉、なんかちょっと感動した。
おばさんの頭の中ではおれも「家族」として数えられているらしい。
「さっきのこ? しんくんはおばさんの親戚ですか」
「いいえ。でも今はもう家族よ」
ふうん。
つまり赤の他人か。赤の他人も「家族」になっちゃうんだ。
しんくんが家族になった経緯はまたおいおい聞くとして、赤の他人も家族にしちゃうなんて、このおばさんならいかにもやりそうなことだ。
「家族」という言葉の貨幣価値が下がった気がしてちょっとがっかりした。
*
おれがふろしきをほどいて寿司をテーブルに並べるとおばさんは階段の下から大声で叫んだ。
「みんなー。夕食ですよー」
すぐさまどたんどたんと音が聞こえ、少女たちが階段を降りてきた。
「うわー、すごーい!」「おいしそー!」
六花は顔を輝かせる。
舞台裏というのか、六人は全員ずっぴんだし、来ている服もジャージだったり、ショートパンツとTシャツなどの動きやすいカジュアルで決して外出するときに着るようなものではない。しかしアイドル目指すだけあって素材がいい。すごくいい。いまおれはそんな少女たちをすぐ近くで見ている。おれは力をこめて心臓の動悸を鎮めた。
「さあさあみんなめしあがれ」おばさんも少女のようにうきうきしている。
テーブルの上には十人前の握り寿司、巻きずし、いなりずしが並んでいる。
AKO47のメンバーが六人。
おばさんとしんくんとおれとで三人。合計九人。
「あれ、あと一人は?」
おばさんが聞く。
「マネージャーですか?」リーダー格の少女が質問に質問で返す。
「ええ」
「あいつなら来ないよ」横から気の強そうな茶髪少女が言う。
「やる気ないんだから、あのマンジュウは」
どこの新宿署の課長ですか、それは。
「そう、来ないの。仕方ないわね。じゃあ始めましょう。みなさん未成年だからお酒はなしね」
「お酒もタバコも恋愛も禁止です。アイドルには」リーダーっぽい少女が言った。
みなでお茶やジュースをコップについでまわった。
「では、ここでAKO47を代表してわたくしこと猫目雅子が」リーダーっぽい少女は本当にリーダーだったようだ。
「このたびは、奈落荘をわたしたちの寮に提供していただきありがとうございました」
「「ならく」じゃなくて「なー・らっく」よ」
「似たようなもんでしょ」すでにタメ口になったまおりんがツッコむ。
「「ナラク」はサンスクリット語で「地獄」のこと。「ナー・ラック」はタイ語で「かわいい」という意味なのよ」
「ネコネコカワイイ」やおいが言う。
「アイエエエエエェ! ナンデ? ナンデネコ?」まおりんが一人ツッコミを披露するが誰からも反応がない。たぶんわからないのだろう。
(ニンジャスレイヤーかよ)おもわずつぶやいてしまった。少女二人の反応は早かった。
「なに。あんたヘッズなの」
「こんなとこで同好の士が見つかるとは奇遇だにゃん」
いやいやいや。同好の士とか言われても、おれ、そんなことに時間を費やしてる暇ないから。おれ受験生だから。おれは二人の追求をさりげなくスルーした。
「わたしはここの主人の北川です」おばさんが言う。
しんくんはさっきから向こうへ言ってしまった。おばさんがしんくんの去った方を見て言う。「さっきのこが家族のしんくん。そしてこちらが……」おばさんはおれを向いてうながした。
「あ、おれは今日からここに住み込みの南部里巳です」
一座が、正確にはAKO47の少女たちがちょっと固まった。表情からすると頭の上に「え?」マークが点灯している感じだ。
「住み込み?」
(男よ男)
(引越し業者の人じゃなかったんだ)
(ここに住んでるんだってよ)
(ちょっとイケメン)
(恋愛禁止よ、禁止)
(やだ。ちょっとタイプ)
(あの奉仕する雰囲気がセバスチャンって感じよね)
「ね、あんたのこと「セバス」って呼んでいい?」先ほどのネコ娘まおりんが言った。
「誰がセバスだ!」
「あ、ごめん。じゃあ「セバスちゃん」」
「おれが怒ったのそこじゃないから。呼び捨てにされたから怒ったわけじゃないから」
「細かい男ね。そんなんじゃ出世できないよ」
「関係あるか!」
おばさんがごほん、と咳払いして座を鎮めた。
「さとみちゃんはわたしの甥です。ナー・ラック荘での仕事を色々とやってもらうのよ。みんな男手が必要なことはなんでも彼に言ってね」
「「「「「はーい」」」」」「……」一人無言。
しっかりセバスでした。
「えーっと、じゃあさっきの続きを」リーダーが言う。
「なんだっけ」
「あいさつよあいさつ」
「早くして。わたしもうお腹ぺこぺこ」
このリーダー、あまり尊敬されていないみたいだ。みんな誰も言うことを聞いてない。
「えー、このたびはー、おひがらもよくー」
やる気をそがれた感が伝わってくる。
「かんぱーい!」待ちきれずに、少女二人が乾杯をやってしまった。
あとは歯止めがきかない。腹をすかせた少女たちは(おれも)、寿司に手をのばした。
「われわれはー、この日を新たなる出発の日としー、決意を新たにしてー」リーダーだけが一人喋ってる。
*
食事が終わるとみんなやっと周りを見回す余裕が出た。
「じゃあ自己紹介と行きましょう」とおばさんが言った。
「では、わたしから!」先ほどのネコ娘が元気に立ち上がった。カラコンとウィッグをはずすと普通の黒髪と黒い瞳だ。
「国はーせまいが心は広い、勇気凛々まおこんりん……」
「いいからいいから」AKOの全員で彼女を押しとどめる。「いまオフだし、マンジュウもいないから」
「はっきり言って、その自己紹介うざいし」
「あんた真面目すぎるのよね」
自己紹介を中断された少女はまったく動じることなくにっこりした。
「はーい。まおこんりんてす。わたしは、台湾からきました。おとうさんは、台湾人て、おかあさんは日本人てす」
「いや、キャラ作らなくていいし。まおりん」肩までで揃えた髪の気の強そうな少女が台湾少女の肩に手をおいて言った。
「この子、台湾人ハーフだけど日本育ちだから、普通に日本語は話せるんだ」
「なんで中国語なまりなの?」
「事務所が台湾ハーフのキャラで売り出すからって、地を出さないように言われてるんだ」
「ま、もともと地なんてほとんど出したことがないにゃん」まおりんはねこの真似をする。
「あたしは猫海葵。人はみなあたしのことを「やおい」と呼ぶ」
「本名はあおいなのに「やおい」なんだ」
「そう。なぜなら……。そういえばあんたちょっとイケメンね。『そううけアンパンマン』っていう感じ」
その一言に彼女の実態のすべてが集約されていた。そしてその場にいた全員の中でごく数名のみが『そううけアンパンマン』の意味がわかったであろう。そしておれはたまたまその意味を知っていることを他人に知られないような顔をするのに苦労した。
「趣味はこの頃は黒キラ×アスとか」
「それ普通の人わからないって」
「特技は64ビットで駆動すること。具体的には脳内同時32カップリングが可能」
「無駄にスペック高え」
(おれもずいぶんくだらない情報を身につけたもんだ)
「わたしは猫橋です。「はな」と呼んでください」背の高いグラマラスな少女が言った。見ただけで白人とのハーフだとわかる。緊張しているのかちょっとはだがピンクになっている。おれは安心させるように笑顔を向けたが帰ってきたのは冷たい表情だけだった。
「あたくしは猫目雅子です。AKO47のリーダーをしていますのよ」
「うちは猫咲たけ。「たけちん」でええよ」日本髪少女が言う。おれと目をあわさず、しきりにこめかみを押さえているのは頭痛でもするのだろうか。
「……」ショートカットの少女は黙っているだけだった。
「南部さん田舎はどこ?」
「あ、おれ、仙台市」
「あら、あたしも仙台」とやおい。
「仙台市のどこ?」
「おれの実家は青葉区」
「ア・オバ・クー」まおりんが重々しく言った。
「おれの実家、ガンダム最終決戦の場じゃないから」
「うむ。この世代では知る者の少ない初代ガンダムネタをおさえているとは、筋金入りのオタクと見たにゃん」
「いや違うから」
おれの実家は貸ビデオ屋兼漫画喫茶だ。われながらずいぶんと青春を無駄な知識の習得に務めたものだ。これからは心を入れ替えて人生の再出発と思ったのに、昔の悪事の癖がつい出てしまう。
おれは段々慣れてきた。いくらアイドル予備軍とはいえ、タメ、あるいは若干年下の女の子。一般の女子と同じ対応をすればいい。
自慢じゃないが、おれは高校生だったときクラスの女子たちにいいようにいじられていた。おれの雰囲気が「いじりやすそう」だそうだ。女子になめられるのには自信がある。
しかし東京デビュー。人生リセットしたばかり。過去は忘れよう。未来に向かって新しい自分をアピールしなくちゃ。
こういう場じゃ遠慮しちゃいけないんだ。ここは男。ガツンと言って頼もしい印象を与えなければ。わがままなら叱り飛ばすくらいの指導力を発揮して……
ちょうど「やおい」と呼ばれていた少女が十個あるいなりずしの最後の一個に手をかけたところだった。一人一個のはずだ。
「待ってくれ」おれは静かに言った。「それはおれのおいなりさんだ」
やおいさんははっとした様子で手をとめたままおれをきつい視線で見た。
「なんですって」
「は?」
「今なんと言ったの?」
やおいさんのあまりの視線のきつさに、おれは逆に指導力を発揮されてしまった。おれはたじろいでやっと声を出した。
「それはおれの……おいなりさんだと」
「キャアー!」
いきなりまおりんにぼかぼかぼかと殴られた。痛くはないが混乱する。やおいさんは静かにおれを見据えた。
「もう一度聞くから。なんと言ったの?」
もうやだ。正当なおれの権利なのに。
「だからあ。それ、おれの分だから。おれのおいなりさん」
「いやぁあああ!」ぼかぼかぼか。
やおいさんはおれを冷たい目で見た。
「妙齢の女性たちの前でゲスなネタを振るとは、大した度胸ね。わたしたちが気が付かないとでも思っていたの? その一言にあなたの潜在的な欲望のすべてが集約されている」
おれはさすがにむっときた。
「なんのことだかわからないな。おれは自分の正当な権利を主張しただけだ」
やおいさんは手で口をおおった。
「正当な権利! わたしたち全員に鬼畜な所業をしようというの」
いや、それ絶対被害妄想だし。今までの流れのどこにそんな話があるの?
*
翌日、おれが予備校の入学申込書を書いているとおばさんに呼ばれた。
行くと台所でしんくん、と呼ばれた少年とおばさんが山ほどの玉ねぎを前に途方に暮れていた。
「どうしたんですか」
「わからない。わからないのよ」
「なにがですか」
「今まで二人暮らしだったでしょう。あ、アパートの住人は自分たちで適当にやっていたから。いままでしんくんとわたしの二人分だったから、急に人数が増えて九人分なんてどうやって作ったらいいかわからないのよ」
「ええと。ふつうに二人分の倍数作ったらなんとなく分量がつかめるんじゃないでしょうか」
「そ、そうよね。ええと、二人で一合半だから1.5 1.5 X 9だから……おばさん小数の掛け算苦手なのよねぇ。900くらいかしら」
「パーティー始めるんですか」
「いやねえ。里己ちゃんは現役大学生ですものね」
「いえ。浪人ですが」
「まあいいわ。もったいぶらずに教えてちょうだい」
「一合半で二人なら1.5÷2×10で約8合。初めてだから大目に10合炊いておけばいいんじゃないですか」
「アバウトね。いいわ。円周率がおよそ3と」
「おばさんゆとり世代だったんだ」
「とにかく少し多めに作っておけば急に必要になっても対応できますよね」
「アイドル予備軍ならもっと食べるかも」
「そうそう。だからおかずも10人前作っておけば」
突然、しんくんが頭を抱えて台所を飛び出した。おれとおばさんはそれを見送った。
「あーあ。我が家の炊事班長がパニック起こして逃げちゃった」
「いつもはどうしてたんですか」
「しんくん頼みよ。わたし、料理は壊滅的にダメだから」
「でも、ぼくたちが夕飯を用意しなければならないんですよね」
「そうよ」
おれはそれぞれの場合をシミュレートしてみた。
1.おばさんが料理する。→不可能。
2.しんくんが料理する。→回らない。分量でパニックになって逃げだしてしまった。
3.おれとしんくんが料理する。→無理。共存できない。
4.おれとおばさんが料理する。→おばさんがかえって邪魔。
5.しんくんとおばさんが料理する。→右に同じ。
6.しんくん、おれ、おばさんの三人で料理する。→無理。3.に同じ。
「まかせてください」おれは自分で自分に死刑宣告したが心の中では(くそー、さらに勉強時間が減る)と考えていた。
「で、結局今夜は何を作りますか」おれは覚悟を決めて袖をまくった。
「とりあえず、材料はいろいろ買ってあるから」おばさんは冷蔵庫を開いた。ほとんど冷凍食品でびっしりと埋まった冷蔵庫の中身が見えた。
「これじゃ栄養が足りない。やはりちゃんと料理しなくちゃ」
「でも夕飯は7時なのよ。AKOのみなさんもおなかをすかせて帰ってくるし。どうしましょう」
おれは壁の時計をちらりと見た。「今5時だから買い物に行っている暇はない。あるもので済ませなくちゃ」
「じゃあ、やっぱり冷凍食品で」おばさんがにこやかに言ったがおれはそれをさえぎるように言った。
「いえ。時間が短くてもできるものがあります。栄養満点。ほとんどの人が好きで食べやすい。ズバリ、カレーライスです」
「そ、そうそう。カレーライス」おばさんが無邪気に言う。手伝う気はないようだ。
おれは速攻で肉をゆで始めると、米を10合洗い、ジャガイモの皮をむいて水につけ、ニンジンと玉ねぎの皮をむき、フライパンでいためた。そこまで1時間。この分なら夕食に間に合いそうだ。
「あら、そういえば、カレールーがないわ」
「大丈夫です」そんな場合の危機管理も経験済みだ。おれはS&Bの赤缶と数種類のスパイスを混ぜて即興のカレールーを調合した。
7時のきっかり十五分前におれは炊飯なべの火を消した。10人分のカレーはことことと音を立てている。
待つほどのこともなく、AKOたちの帰宅する音が聞こえた。
「ただいまー」「あー疲れた」「めしー」
AKOたちの声とどたどたという足音が台所までくる。
「カレーよ」「え、カレー!?」喜びの声。
おれは仕事をし終えたプロ料理人のようにふーと息をついて前髪をはらりとかき分けた。「ちょっとみんな、手を洗ってからだ」誰も聞かない。
おれに代わってしんくんが盛り付け始めたが騒動が始まった。
「え、ちょっと。わたしの分、少ないんですけど」やおいが言う。
「あ、いくら巨乳やからと言っても、その肉大きすぎやろ。もっとボリューム増やす気か? 少しは遠慮せえや」とたけちん。固まるグラマラス。
「うち、にんじん嫌いやねん。あ、玉ねぎも。肉は大目に入れてや」
「盛り付けはキャラ弁で頼むにゃ」まおりん。
「そ、そんな」もう泣きそうなしんくん。
「こうすれば簡単なことだにゃ」まおりんはしんくんからお玉を取り上げてたちまちのうちにカレーの具で皿の上にドラえもんの顔を描いた。
「次はガンダムといくにゃ」暴走するまおりんをみなで止める。
「ガンダムはカレーの具パーツを使いすぎますわ。ここはリーダーのあたしが等分に分けるということで……」誰も聞かない。
そのうち全員の前にカレーライスが盛られた皿が並べられた。
「いただきまーす!」
全員が飛びつくように食べ始めた、と言いたいところだが、グラマラスはハンカチで口元をおさえて黙っているし、くのいっちゃんは黙ったままだ。たけちんは「まったく。こんなに野菜ばっかし」ぶつぶつと文句を言いながら玉ねぎとニンジンをよけている。小学生か!
「はなちゃん食べないの」やおいが問うとグラマラスは「カレーのにおいがちょっと」とつん、と澄ましたまま答えた。
「口に合わないやつもいるようだな」おれはちょうど外に出ていたにんにくの芽をいためて追加の一品として出した。
「うわ! これめちゃくちゃおいしい」まおりんが叫ぶ。しかしグラマラスはハンカチで鼻を抑えたままだ。「くさいのはちょっと」なんか貴族のお嬢様みたいだ。
そのうちまおりんとやおいが調子に乗ってパフォーマンスを始めた。互いの右肘を曲げ、腕を交差させてからスプーンに乗せたカレーを口に運ぶ。
「お二人! お行儀が悪いですわ」リーダーが叫ぶが誰も聞かない。
「きゃっゴキブリ!」
全員が振り返った。見ると流しの上の壁を大きなゴキブリが走っている。みなの注視を浴びてゴキブリは一瞬止まった。
しゅん
目の前をなにか飛んでいき、壁に突き刺さった。フォークが壁に張り付いたゴキブリを縫い留めている。くのいっちゃんはフォークを投げ終わった姿勢を戻すと黙々とカレーを食べ始めた。
「いや。あれ誰が掃除するの」「気持ち悪いー」
おれは黙々と壁のフォークとゴキブリをかたづけた。
「そのフォーク。再利用するんじゃありませんよね」リーダーが念を押す。おれは流しに戻そうとしたフォークをそのまま不燃物ごみのバケツへ入れた。
振り返ったおれの額にまおりんがぴたっとなにかくっつけた。
「なんだこりゃ」おれがはがそうとするとまおりんは重々しい声で言う「DIO様に仕えるのじゃスタンド使いよ」
「にん「肉の芽」かよっ! おれ花京院典明じゃねえから」
「あたりですにゃ」まおりんがうれしそうに言う。
結局、その騒ぎのまま夕食は続き……
食事中、みなさわぐこと火のごとし。
「ちょっと、お茶」手伝いを頼んでも自分から動かぬこと山のごとし。
食事が終わると「おい。後かたづけは全員で……」みないなくなること風のごとし」
みな去って食堂がひっそりすること林のごとし。
呆然として洗い物の山と散らかり放題のテーブルや床を眺めるおれとは対照的に、おばさんはうれしそうに立っていた。
「まあ、元気な少女たちね。これから寂しくないわ」
ま、寂しくはなりようがないでしょうがね。
*
おれは静かな夜を楽しんでいた。
さわがしかった猫娘たちもようやく静かになって、おれはようやくおれ本来の身分である「受験生」としての責務を果たしているところだった。
夜って時間が長いみたいだ。
おれはノートパソコンに向かってオンライン代ゼミの練習問題を解いている最中だった。出題は日本史の記述問題。日本史は得意だ。けっこう古い本も読んできた。
「1192(いいくに)作ろう鎌倉幕府っと」
おれは自分の回答に満足して口笛を吹きたいくらいだった。今夜は特に筆が乗る。いや、キーボードが乗ると表現すべきだろうか。
オンライン代々々《よよよ》ゼミナール、通称オンライン代ゼミの問題は練習問題といえども常に記録され、正答数や所要時間で自分の実力がリアルタイムで更新される。たとえ練習といえども気を抜くわけにはいかなかった。
「はーい」
しれっとした顔でやおい?猫海葵が部屋に入ってきた。悪びれた様子もない。
「お前な。いったいどうやって入って来た。ドアは鍵がかかってただろ!」
「あら、やっぱり鍵だったの。ドアが硬いだけかと思ってくのいっちゃんに頼んだらすぐ開けてくれたよ」
やおいの後ろで相変わらず無表情のくのいち?猫波ケイがたたずんでいる。
「お前っ。どうやって開けた!」おれはドアの鍵を確かめた。繊細で他人の侵入に敏感な青少年であるおれは、とつぜんドアを開けたりするおばさんに備えてドアの鍵は念入りにかけることにしている。そう。青少年には突然ドアを開けられたら困る場合があるのだ。
鍵は無残に壊されていた。鍵のあった場所に穴が空いている。
「これどうやったらこんな風になるんだ」
おれの詰問にくのいちは黙ってハンドドリルのような機械を持ち上げて見せた。
「これ。音が出ない。潜入任務用」
「おれの部屋、国家の存亡に関わる情報なにもねえから」
「ごめんねー。さっきのこと謝りたくて。あたしになにかできること、ない?」
「え?」
「これでもね。ちょっと悪いとは思ってるんだ」やおいは両腕を後ろに回し、上目遣いでおれの機嫌をうかがうように見上げた。そんな目で見られるとどきどきするぜ、ちくしょう!
「え、えと、ま、まあ、そんならまあ許してやってもいいかと……」われながら威厳のないことはなはだしい。
「あたしでできることならなんでも言いつけて。なんでも言うことを聞くから」
「お、おう」
この「なんでも」ってのが曲者だよな。言葉通りになんでもお願いしたら、たとえば「裸エプロン」とかお願いしたら即死攻撃をくらうに決まってる。
「なにか手伝ってあげられること、ない?」
おれの躊躇に構わず、やおいはずかずかとおれの横に来て机の上を見渡した。おれはそのままにしておいた。見られると人格を低めに見積もられる危険なものはなにもない。参考書と筆記用具、ノートパソコンが開いている。パソコンの画面では今まさに編集中の記述問題回答が開いたままだった。少し字を大きくするために全文を指定して反転してあるところだ。
やおいはなにげなくすっと手を伸ばすとキーボードの上をこすった。とたんに全文指定していた文章が消える。
「なにすんだよ、てめえ!」
「あっ、キーボードの上にごみがついていたからとってあげようと思って」
「余計なことすんじゃねえ! 一時間の労苦が消えたじゃねえか! ああっ! おまけにEnter押して提出してるし」
「あら」指先で口元をおさえてやおいは言った。「あたし邪魔しちゃったみたいね」
「くうー」おれは頭をおさえた。こいつにはむかつくが、覆水盆に返らず。すでにやってしまったことをいつまでもくどくど言っても仕方ない。見るところこいつにはパソコンの基礎知識すらないようだ。ヘルプデスクに電話して「システムを立ち上げてください」と言われたら自分が椅子の上に立ち上がってしまうようなタイプだ。
「いいよ。気にすんな。済んじまったことは仕方ねえ」
「そう言わずに、代わりにあたしでできること、ある?」
「うーん」代わりにねえ。
「料理とかできるか」なにか食べさせてもらおうか。
「目玉焼きならまかせて!」
その元気な返事で料理のレベルがわかった。なにも期待することはない。
(部屋の整理整頓・そうじとか)
想像しただけでおれはぷるぷると頭を振った。こいつらの部屋のさんさんたる有様を見れば、掃除スキルは限りなくゼロに近いことがわかる。天は二物を与えず。
「腐士道を伝授するならまかせて」
「頼むからお前は黙ってろ!」
*
朝になった。
右腕と左足を壁を越えてきた巨人に食われる夢で半泣き状態で目覚めたおれは、うーんとふとんの上で伸びをしたあと、しばらく違和感で天井を見つめていた。なにか自宅と違う。
「そうか、そういえば引っ越して来たんだった」
声に出してみてようやく実感がわく。おれは真剣な受験生としての人生を送るべく、環境の悪い自宅を出て、新天地『奈落荘』へ来たんだった。しかし昨日は大変だった。引っ越しも大変だったがあの……なんだっけ。
そういえば夢の続きか右腕がしびれている。
ふとわきを見るとおれの腕を押さえつけている重い物体があった。それは丸くて髪の毛のような糸が無数に生えている。人間の頭部のようだ。
「……って、人間の頭じゃねえかよ! うわぁ!」
もしかして死体かも、と必死にその物体を押しているうちに気づいたが、それには体温があった。まだ生きている。その頭はうーん、と息をすると寝返りをうった。黒髪の中から少女の顔が現れた。
それで思い出した。
昨日はAKO47と称するアイドルユニットの卵たちにさんざん振り回されたのだった。この顔は昨日たけちん、と呼ばれていた少女のものだ。
うーん、と別のため息がおれの左足の方からした。いやだ。見たくない見たくない。いや見たい見たい。
おれがちら、と足元の方を見るとそこにはリーダーと呼ばれていた少女の顔があった。おれのふとももを枕にしている。
道理で腕と足を食われる夢を見たわけだ。いやあ原因が分かってよかったよかった。
「よくねえよ!」
一人でツッコミを入れて大声を上げると、少女二人はぱっちりと目を覚ました。そのまま数秒。二人はうーんとのびをした。細いしなやかな肢体がおれの前でくねり、パジャマのすきまから白い肌が見える。たけちんは白、リーダーはピンクのパジャマだ。可愛いな。
いや、そんな感想を持ってる場合じゃねえって。
おれは立ち上がろうとして足と腕のしびれでよたよたとよろめいた。しかし男らしくしっかりと足を踏ん張って踏みとどまると小娘たちの方をきっと振り返って言った。
「おい、お前ら。いったいどういうつもりで……」
「きゃあああ! なにするんですの!」
「うわ! セクハラやん。しかも同時に二人。この男、最初からこれが目的でこのアパートに潜入したん違う?」
議論の法則1:正論よりも声が大きい方が勝つ。
この場合もまさにそうだった。訓戒をたれようとしたおれの声をさえぎって二人は大声で叫び始めた。
「ち、違う」おれは必死に話そうとしたが、彼らの声の方が大きかった。
「いやらしい、いやらしいですわ」
「同時に二人やでしかも」
突っ込むポイントはそこですか。
「まてぇ!」おれは野武士のような声を出して立ち上がった。「よく見ろ。ここはおれの部屋だ!」
二人は一瞬止まって部屋の中を見回した。
「わかったか。つまりお前たちは勝手におれの部屋に入ってき……」
「わたくしたちをを自室に連れ込んでやらしいことを……」「拉致したんやな」
「ふざけんな! おれが寝ている間に勝手に入って来たんだろうが」
「うるさいですわね。耳が痛くなりますわ。大声を出さないでください」「だから男って嫌いや」
しかし自分たちが悪いことには気づいたようだった。二人は互いに目線を交わしてささやいた。
「どうやらわたしらが来たようやね」
「そんな! わたくし全く覚えていませんわ」
「たまにあることや。気にしたらあかん」
たまにあるのかっ!
「夜這い?」
「やばい」
二人あ顔を見合わせてからたちあがった。そのままおれの部屋から出て行った。
「お、お前ら。待て」
たけちんとリーダーはそのままおれの部屋から出て行った。
議論に勝利する法則2:議論に負けそうになったらスルーしろ。