陽子おばさん:だって猫難だもんスピンオフ
久々に静かな夜だった。いやこんな静けさは何か月ぶりか。
先月クリスマスに大ブレイクしたAKO47は、たちまちヒットチャート上位に躍り出、地方公演が決まった。AKO47のダンスやパフォーマンスは生のステージで見る方がはるかにすごい。ファンを一気に増やすために荒巻桂が考えた方法だった。りょーの妹とらを救うための一億円もあと少しでたまるようだ。そんなわけでAKO47たちは全員外にいて、一月ばかり戻ってこない。奈落荘には今おれとおばさんしかいないのだった。
おれは正月のもちを水から出し、バターをひいたフライパンで焼いていた。こたつにはおばさんが座っている。ミカンをむく手が白い。どんな乳液をつけているのか若々しい肌をしていた。
おれは焼けたバターもちを皿に入れ、こたつに出した。
「あら、いい匂い」
「でしょ。鏡餅なんてカチカチだからこれくらいしか料理法がないんですよ」
はむはむとバターもちをフォークでつつくおばさん。
その向かいで同様のおれ。
外ではときたま車のエンジン音が聞こる他はひっそりとしている。
AKO47たちがいないとこんなにも静かなんだ。おれの当初の目論見である「閑静な住宅街でひっそり暮らす未亡人と一緒に受験勉強に集中する」という環境がついに出来上がったのだ。
「お茶淹れるわね。ちょっと待ってて」
おばさんが立ち上がる。
「あ、いいですよ。おれがやりますから」
「さとみちゃんだけにやらせたら悪いわ。二人分しかいらないから簡単よ」
そう言っておばさんはそのまま台所に立った。
しばらくするとほうじ茶の香りがしてきた。
こぽこぽとお茶を湯飲みに注ぐおばさん。
「あ、これ、バターもちに合いますね」
「本当」おばさんはにっこりする。
な、なんか老夫婦の会話みたいだな。
「そうそう。ちょっと古いけど、いい湯飲みがあるの。出してくるわね」
そういい置いておばさんは自室へ行った。どんな湯飲みだろう。価値のある陶器だろうか。
おれはしばらく待っていたが、いっかなおばさんは戻ってこなかった。
おれはしびれを切らしておばさんの部屋へ行った。
「せっかくのお茶が冷めちゃいますよ、おばさ……」
おれは言葉に詰まった。
いつもヒマワリのように華やかで陽気なおばさんが暗い雰囲気をかもしていた。
周りには袋棚から出した什器の箱が散らばっており、その中央にぺたんと座り込んだおばさんはうつむいたまま肩を震わせていた。
おれはそっと近づき、肩越しにのぞきこんだ。
写真。
小さな額縁にハンサムな男性がにこやかに笑っている。しかし縁取りは黒だった。
「啓介さん……」
額縁のガラスにぽたぽたとしずくが落ちた。
おそらく古い茶碗を探しているうちにしまい込んだ夫の写真に行き当たったのだろう。そういえばおばさんの夫の写真は奈落荘のどこにも見当たらなかった。きっと悲しい思い出だからしまっていたに違いない。
おれは言葉をかけることもできずにただ立ち尽くしていた。
「変よね」おばさんがおれの存在に気づいていたと分かったのは、その声を聞いてからだった。
「もう十年も前のことなのに……もう忘れたと思っていたのに」
おばさんは振り返った。涙の流れる顔でおれを安心させるようににっこりした。
「わたしはもう……さびしくない。AKO47のみんなもいるし、しんくんや、さとみちゃんだって……だから」
おれはおばさんの前に膝をついた。同時におばさんはおれの胸に倒れこんできた。
「もうさびしく……ない……はずなのに……なのに」
そうしておばさんは静かに泣き始めた。おれはためらいながらおばさんのやせた肩を両手で包み込んだ。嗚咽する振動が手に伝わり、おれの心を揺さぶった。
「痛い」
「胸が……いたいの」
(おれでよければ、代わりになります)
そんなことを口にしそうになったが、おれは黙ったままだった。おばさんの悲しみを受け止める資格も、啓介さんの存在におれが足りるかもわからない。悲しんでいる人を見捨ててはおけないが、おれは今ただの受験生だった。
おれたちは暗い部屋の中で、ずっとそうしていた。
次の朝、おれが台所へ行くとコーヒーを飲んでいるおばさんと会った。目ははれているが輝くような笑顔が戻っている。
「昨夜はごめんなさいねー。夕飯食べなかったからお腹ぺこぺこ」
「あ、じゃあおれ、フレンチトーストでも作ります」
昨夜は夕飯の支度をするためにおれは立ち上がり、おばさんはその後自分の部屋から出てこなかった。
おれはフレンチトーストを二人前作るとテーブルに並べた。
「さとみちゃんって本当に料理上手ね。いいお婿さんになるわ」
「はあ」
おれはおばさんが淹れてくれたコーヒーをすすった。
AKO47も誰もいない奈落荘で、ほっこりとした時間が流れていった。




