ヒデマル
おれが拾った猫は『チョコ』と名付けられ、そのまま奈落荘のペットになっていた。
溶けてテーブルにへばりついたカカオの少ないチョコレートのような模様が体についていたからだ。
「イチ、ニッ、サン、シッ……」AKO47は相変わらず練習に余念がない。りょーが来たことで全員にやる気スイッチが入ったような気がする。
りょーを見たリーダーがふん、と目をそらした。はなちゃんも上から目線で見ている。まおりんとやおいは腕組みをしている。全員でりょーをにらんでいる。
やる気じゃなくてライバル意識か。
「はい。ここで発表があります」ダンスの先生がぱんぱんと手を打ちながら言った。
「みんな、そのままで聞けよ」荒巻宙二が手にしたファイルを読み上げた。
「先週の選抜試験の結果だ。トップは256点で文句なし猫ヶ谷。他は全員200点以下。そこで普通は配置換えを行うところだが。今期のセンターは据え置きで猫橋。みんな文句ねえな」
りょーは不満そうだったが、無言だった。
「さて、振り付けの続き」
再びAKO47は隊伍を組んで踊る。汗が散る。呼吸音が台所の中に響いた。
ふと、下を見るとチョコが立ち止ったままAKO47たちを食い入るように見つめていた。おれが見ているのに気づくと、つと目をそらした。
練習が終わり、おれはようやく空いた台所で昼食の準備をしていた。今頃二階ではAKO47たちがシャワーを使っているころだ。
おれのいる場所からは空いたドアから二階へ行く階段の登り口が見える。そこに茶色い影が現れた。チョコだった。チョコはそのまま考え事をするように歩いてきた。いや、なんとなく残念そうな顔をしていた。
残念そうな顔?
おれは目をこすった。いま一瞬だが、チョコが人間のような表情をしたように見えたのだ。動物ならありえない。おれがもう一度見直すと、そこにはどこにでもいる普通の茶色い猫がいた。
「あら、里己ちゃん。いつもありがとう」
おばさんが現れる。いま起きたばかりのようだ。おれとしのぶのタッグで家事をすべてこなすようになってから、おばさんはあちこち旅行に出たり忙しい。この頃あまり奈落荘にいない。
おばさんはチョコをちらと見てからおれを振り向いた。
「そういえばチョコちゃんのことなんだけど」
「なんでしょう」
「今はまだ季節じゃないけど、ご近所の迷惑になるからうるさくなる前に手術しておいた方がいいわね」
ああ。
チョコは雄だから、さかりの季節が来る前に去勢手術をするのが猫をペットとして飼う人のマナーだ。
「あれ、まだ手術していませんでしたっけ」
「野良猫なら普通そうでしょ」
「でも、前は飼い猫だったぽいですよ。人慣れしてるし」
「ちょっと確認してみましょ」
おばさんがチョコに近づくと、チョコはそれはもう殺されるかと思うよな勢いで飛びのいた。そのままテーブルの下を走り抜け、ドアの外へ出ていった。
「あら、いつもは黙って抱かれるのに」
「なんか、ぼくたちの会話がわかったみたいですね」
「あら、やだ」おばさんは手を振って笑った。「そんなはずないでしょ。猫だもの」
夕方、おばさんが風呂場から出てきた所で出会った。
「里己ちゃん。お風呂どうぞ」
「はい。しのぶさんは?」
「もうさっき済ませたみたいよ」
「そうですか、じゃあ」
おれは着替えを取りに自分の部屋へ行こうとした。
すこし開いたままのドアから茶色い影が忍び出た。
チョコだった。
チョコはおれの顔を見るとはっとした表情をしてからすぐに何食わぬ顔つきで歩き去った。
こいつ、なにしてんだろ。
人間の男子なら風呂場でのぞき、という可能性はあるが、いやおれなに自虐ネタを振ってんだ。
トラウマ記憶を思い出して、おれは頭をぷるぷると振った。しのぶが通りかかった。
おれは言ってみた。
「なあ、なんかチョコって変じゃないか?」
「変って」
しのぶはいつものようにサングラスをかけたままだからどんな表情かは読めない。
「あいつ、女性に興味あるみたいなんだけど」
「そうですね。昨日もぼくが部屋で着替えていたら、じっとぼくの着替えを見ていました」
「えっ。それで気持ち悪くなかったのか」
「猫がなにかを見つめるのはよくあることですし、別に猫ならいいじゃないですか。南部さんなら即通報ですけど」
地雷踏んだ。
「自分も猫になりたい、とか考えていますね」
「いやいやいや。誤解だから」
*
たけちんが台所兼食堂に入ってきた。錦の着物を着て、長いすそをたくしあげている。
「どや、これ」
色白で、線の細いたけちんが着ると様になっている。どこかの城のお姫様みたいだ。おれはしばし見惚れて沈黙した。
「……すてきだ。こんどそれ着て歌うの?」
「いややなぁ。AKO47《わたしら》まだそんなチャンスあれへんの分かってるやろ。これは来週から始まるSKOのステージ衣装や。寸法合わせして、って頼まれてん」
「お姫様みたいだね」
「そや。テーマが「戦国武少女百花繚乱バトルロワイヤル」やから、戦国武将の姫やねん」
「どっかで聞いたことのあるような設定だな」
「ま、ショービジネスなんてパクリばっかりやから。日本映画がハリウッドをパクって、ディズニーが日本アニメをパクって、お互いパクリ同士やからええんちゃう?」
相変わらず辛辣だ。線の細い外見からは想像もつかない毒舌が出てくる。これで黙ってさえいればかなりグレード高いのに。
「いま、失礼なこと考えたやろ」たけちんはズバリ指摘した。
「えっ? いや」
「今「しまった」ちゅう顔したで」
「してない。してない」
「してへんでも分かんねん。わたし結構霊感強いから」
「霊感ね」
「信じてへんやろ」
「霊感って言われても」
「ほんまやで。このへんも結構霊気集まってるわ。だからわたしもここへ来てからずっと頭痛が止まれへんねん」
「「このへん」って奈落荘のこと?」
「そうや。あと、あの神社と……」
「日陰神社ね」
「反対側にある墓地つきのお寺の間一帯や」
「このあたり全部じゃん」
「そうや。だから、ただでさえストレスたまるのに、ここへ来て以来、ずっと緊張しぱなっしや」
そう言うとたけちんは突然よろ、とよろめいた。はかなげに手の甲を口にあて、細いまゆにしわを寄せて作り声を出す。
「ああ、持病の癪が……」
「お前いつの時代の人間だよ」
「わらわは孤独じゃ。親兄弟も信用できぬ。さびしい。わらわのそばにいてたもれ……」
「うっ」
ただの演技とわかっているのだが、こいつはたけちんでAKO47の意地悪娘で、口を開けば毒舌が飛び出すと知っているのだが、線の細い彼女が姫を演じるとぐっときた。おれは黙った。
ふと、目をそらすといつの間にか台所に入ってきたチョコが全身を緊張させて立っていた。四肢を伸ばしきったまま目を驚愕に見開いている。ひげがぴん、と立っている。
猫は環境が変わったり、見知らぬ人間には強い警戒心を抱くものだが、錦の着物を着たたけちんに気が付かないのだろうか。
「これはしたり! このような近くにおられたのに気が付かなかったとは」
猫は驚きに声を発した。
おれたちは固まった。一瞬だったのかもしれないが、少なくとも数十秒は動けなかった。その間、脳は激しく思考した。いましゃべった? 猫が? いや、それありえないでしょ。これチョコだよね、捨て猫チョコ。どこにでもいそうな太った野良猫。
最初にわれにかえったのはたけちんだった。
「や、ややなぁ、南部くん。腹話術うますぎ。本気にしたわ」たけちんの語尾が震えている。
しかしチョコ、いや、こいつ本当にチョコ? その表情は昨日まで食って寝てみなになでられていた猫とは別人、いや別猫に見える。その猫はさらにたけちんの足元ににじり寄った。無意識にたけちんはあとじさる。
「万姫様!」猫は大きな目をさらに大きく見開いて叫んだ。
え、いや、空耳だよね。猫がしゃべるわけないし。
「万姫様! おなつかしゅうございます」猫は目に涙さえ浮かべてたけちんの着物の裾にすがった。
「ひっ」たけちんが思わず尻もちをついた。
「姫! お忘れでございますか。ヒデマルでございます。将然院札槻でございます。ご幼少のときからおそばに使えた秀丸でございます! あなたさまはこの人間界にこられて記憶を失っておられるだけ。その実体は妖界のプリンセス・テンサウザント万姫」
たけちんは突然はっと気づいたような顔をした。
「も、もしやそなたは……」
「おお、思い出されましたか」ヒデマルと名乗った猫は満面に笑みを浮かべた。笑う猫を見たのは子供の頃読んだ『不思議の国のアリス』の挿し絵以来だ。
「そう、そうでございます。あなた様の実体は……」猫は言いつのる。
「ああ、頭が痛い」たけちんが目を固くつぶって首を振る。
「もうしばらくのご辛抱でございます。必ず全てを思い出されます」
「そういえば……」たけちんが何かを思い出したかのように遠くを見る目をした。
おい。本当か、本当かよ!
「そう、そうでございます。心を凝らしてご覧ください。あなた様が何者かをようく思い出してくだされ」
「な、なんとなく……」
「あなた様が幼少の頃、庭で鞠をついて遊ばれましたなあ」
「紅い鞠」
「そうそう、そうでござる。あなた様がそれをわたくしめにぶつけようと笑いながら追いかけて来られて」
「鬼ごっこ」
「そのとおりでござる」
「わたしは……わたしは……そうだ!」
「おお。思い出されましたか」ヒデマルが期待に満ちた顔でにじり寄る。
「全然」たけちんが首を横に振った。ヒデマルがずっこけた。
「てゆうか。これなんやの? 新手のドッキリ? ただでさえ忙しいのに、こんなんと付き合ってられへんわ」姫は一瞬でもとのたけちんに戻った。
ヒデマルはあごを落として呆然としている。
「これぬいぐるみには見えへんし、南部くん。これなんかのいたずらやろ? この忙しいのに凝っとんね」
「いや、おれ知らないし」おれも必死で直立させた手を顔の前で振った。
「では、万姫様ではないとおっしゃるのですか!」
「なんのことや」
「妖界のこともごぞんじない、と」
「知れへんなあ」
しばらく考え込んでいた「チョコ」ことヒデマルは突然おれたち二人の視線に気づいた。額に汗を浮かべながら、突然つぶらな瞳をしてにじり寄り、にゃーと鳴いて頭をすり寄せようとした。
「いや、もう騙されないから」「いまさら猫のフリして、にゃー、とかキモいわ。あんた何者?」おれたちは同時に言った。
ヒデマルはちょっと固まっておれたちを大きな目で見つめた。
おれがその大きな目をにらみつけると、ヒデマルはさっと目をそらせた。そらした先に腕組みをしたたけちんが上から見下ろしている。
ヒデマルは横を向いて口笛を吹きながらさりげなく去ろうとした。
おれとたけちんはそれぞれ示し合わせたように反対側へ動いて二つある台所の扉を閉めた。
退路を立たれたヒデマルは四肢をふんばってだらだらと汗を流していたが、突然がば、と土下座した。
「このとおり、お願いでござる。なにも見なかったことにしてくださらんか」
「いや、それ無理でしょ」
「このままやったら、今夜寝られへんわ。ちゃんと説明してや」
ヒデマルは肩を落としていたが、意を決したように顔を上げた。
「仕方ござらん。話をしますゆえ、このことはどうかご内密に」
ヒデマルは咳払いを一つすると話し始めた。
「実はそれがし、猫の姿に身をやつしてはいるものの、本当は猫ではござらん」
ヒデマルは手を床に突き、きちんと腰を下ろして話し始めた。
いや、猫がすわると普通、前足を前に突いて、後足と腰を後ろに下ろすんだけど。
とにかく台所の椅子に座ったおれとたけちんの前でヒデマルと名乗った猫は語った。
*
この世には、人間が認識できる人間界の他に人間とは異なる物質でできており、普通の人間には認識できない世界がある。それを妖界と言う。
もちろん深海には人間にまだ知られていない生物の世界があるし、ミクロの世界の動物もその生態はまだほとんどわかっていないという意味で身近な別の世界だと言える。
ただ、妖界は実は人間の直ぐ側に存在する。さらに重要なことは妖界の住人は人間とは異なるものの、知性を持つ。つまり喜怒哀楽の感情を持ち、善悪の基準があり、独自の文化を持っている。人間と対等、あるいはそれ以上の存在なのだ。
妖界は今でも王政で、キング・ウフーンによって統治されており、平和であった。
ヒデマルは本名を将然院札槻。幼名を秀丸と言う。キング・ウフーンの息子であり王位後継者のプリンス・アハーンの従者として王家につかえていた。
しかしプリンス・アハーンは現代の風俗にあこがれ、ヘビメタを始めた。
「ちょっと。ヘビメタなんてもう死語というか全ッ然はやってないけど。まあおれは知ってるけど、たまたま」
「妖界はまあいわば田舎なのでござる。ちょっと時代がずれているのでござる」
ま、そうかな。王様がいるくらいだし。
「それで王子がヘビメタに狂うとどうなんだ。それで国が乱れた、とか言うんじゃないだろうな?」
ヒデマルは真剣な目をしてうなづいた。「そのとおりでござる」
ヒデマルは大きなため息を一つついて言った。「わたしの主君は力に魅せられ、ダークサイドへ行ってしまったのでござる」
ヒデマルの話では、妖界は人間と異なる力の原理で動いている。例えば現代の人間世界のちからは金や科学技術だ。金があれば色々とできるし、家電製品やネットデバイスは人々の生活を変えた。
しかし妖界に家電製品はない。その代わり、妖界を支配しているのは妖気と呼ばれる不思議な力だそうだ。妖気があれば働かずに食べ物を得たり、病気を直したり、敵を倒すことができる。妖界では妖気を制する者が世界を制するのである。
「妖気とともにあらんことを」
これが妖界での普通のあいさつだそうだ。いや。おれ単に聞いたままを語っているだけだから。おれの創作じゃないし世界的に有名なチャンバラ映画のパクリじゃから。いやホント。
「「それで?」」おれとたけちんは最大級に胡散臭いという目つきでヒデマルを見ながら尋ねた。「その妖気と王子のヘビメタ狂いとどうからませるつもりなん?」
ヒデマルは額からだらだらと汗を流しながら言った。
「妖気を操るのは……音なのでござる」
音には精神的な力がある。昔から軍隊を統率するには陣太鼓やラッパを使ったし、カリスマミュージシャンの声は人々の心を動かす。しかし、あらゆる「力」に善悪の向きがあるように、妖気も力の使い方を間違えるとそれは世を乱し人々を苦しめる力となる。
プリンス・アハーンは妖気を研究するうちに、音楽の種類によって得られる力が異なることを見出した。彼が研究した中で最も直接的に力があり、力を実感できるのはヘビメタだった。それもより過激で下劣な歌詞やパフォーマンスであればあるほど、より大きな力を召喚できた。そこでプリンス・アハーンは王宮でその実験に勤しんだ。
王宮で豚の血をばらまいたり、陶酔して夜通し妖気を召喚したりしているうちに理性を失い、己の扱う妖気の暗黒面に支配されるようになってしまった。
「あれは二つ前の新月のとき、妖気の力が最も弱まるときでござった」ヒデマルは目を閉じて話し続けた。「激しい狂宴が終わり、血の飛び散った王宮でぽつんと力なく座っているプリンスにそれがしが近づいたところ、プリンス・アハーンの右目――理性の目がそれがしの方を向いて言われたのでござる。
「ヒデマルよ。わたしはもはや自分で自分を御することができない。今夜私はとんでもないことを発見した。わたしの内なる黒い意志ある妖魂がわたしにそれを命じるであろうことは間違いない。それが始まる前になんじに使命を託す」
「なんでございましょう」
「ヘビメタを用いた妖気の発動には、同じく妖気を最もはらむ猫の皮を使った三味線を使うのが最も良いことがわかった」
「なんと! 猫の皮を」
「さよう。そなたと同じ妖猫族の皮である。そなたも良い皮をしておるなあ」
そう言われたとき、殿下の左目――狂気の目がぎらり、と光った。拙者はあのときの恐ろしさを生涯忘れぬであろう。拙者の恐れを感じ取られ、殿下の右目――理性の目が優しく微笑んだ。
「ヒデマルよ。月が満ちればわたしはこの衝動を抑えることはできぬであろう。明日から王国で猫狩りが始まる。狗族がこの任に当たるであろう。千年ぶりに妖界に戦が起きる。そうなればその影響は妖界だけでは済まぬであろう」
「この危機を救うのは伝説の八猫士以外にはない。ヒデマルよ。どうか人間界へ行き、八名の剣士たちを探して集めてきてくれ。八猫士は人間界にいるときには己の真の姿を忘れているが、世界の危機には必ず互いに惹かれ合い、黄泉の裏木戸の近くに集結する」
「ヒデマルよ行くのじゃ。ここから最も近い黄泉の裏木戸まで一日の旅程じゃ。明日、月が昇れば、わたしはお前の皮をはぐように命令するであろう」
そう言われると殿下はご自分の首についていた鈴を引きちぎると拙者に差し出されました。
「ヒデマルよ。これは黄泉の裏木戸の鍵である。今度おぬしが妖界に戻るのは八猫士を引き連れてきたときであるぞ」
夜が白み始めてきました。殿下は天窓からの薄明かりでそれを認められると最後の力をふりしぼって私に鈴を託され、別れの言葉を言われました。
「妖気とともにあらんことを」
そうしてその場に倒れ伏すとごうごうと大きないびきをかいて寝てしまったのです。
拙者は追手の手を逃れ、黄泉の裏木戸を通って、人間界に来たのでござる。しかし珠の魔力で妖界の記憶はとどめているものの、姿はこのとおり猫となってしまいました。このままでは八猫士の消息を人にたずねることもできませぬ。
*
「さて」ヒデマルの話が終わると、おれとたけちんは立ち上がった。
「受験勉強しなきゃ」「さ、練習。練習」
ヒデマルはあっけにとられていたが、ドアのそばに近づいたたけちんの前に回って叫んだ。
「それだけでござるか!? なんか言うことがござろう。八猫士ってなに? とか、妖界ではヒデマルはどんな姿だったの? とか。無視しないでくだされ」
「やだ。猫がしゃべるわけあれへんし。うち、霊感強い言うてもそこまではちょっと付いてかれへんわ」
たけちんは着物の襟を合わせ直すとドアを開けて出て行った。
ヒデマルは今度は走っておれの前に回った。
「本当でござる。いま拙者の申したことは全部本当のことなのでござる」
ヒデマルはひし、とおれのジーンズのすそにすがりつくと爪を立てた。
「痛てっ!」
「あ、すみませぬ」ヒデマルはぺこぺこと謝った。そんなヒデマルの姿を見ているうちになんだかおれは可哀想になった。拾ったときにこいつが傷を負っていたのには間違いない。なにか事情があったのだろうとは思っていたが、こんなお伽話を聞かされるとは。いや、猫がしゃべるだけで十分大事件だが。
「お前も大変だな」
ヒデマルははっとしておれの顔を見上げた。目は希望できらきらと輝いている。
「あああ里巳どの」
「いや、やっぱおれ忙しいし」
ヒデマルはまたずっこけた。その後でとぼとぼと歩いてテーブルの下に行き、向こうをむいたままあぐらをかいて座った。背中に哀愁がただよっている。
おれはためらった。AKOに引き続き、こいつはとんでもない厄介事を持ち込んできた。理性がやめとけやめとけかかわると受験どころじゃなくなるぞ、と警告したがおれはさみしそうな後ろ姿を見ているのが辛かった。
「おい」そっとささやく。返事はない。
「その……なんだ。受験勉強に差し支えない程度になら付き合ってやってもいいぞ」
ヒデマルはぱっと振り返るとおれの足元に走り寄ってきた。
「本当でござるか」
「ああ」
「かたじけない」ヒデマルはがば、と伏せて土下座した。「このヒデマル。生涯恩に着るでござる」
「いや。そんなに期待されても。ちょっと相談に乗るくらいならやるつもりなんだけど」
「そうでござるか」ヒデマルはちょっと肩を落とした。こいつ、感情がモロに表情に現れるな。
「まあ、ちょっとここじゃあれだから、おれの部屋へ行こう」
おれが先に立つとヒデマルはとことこついてきた。
おれたちは一階のおれの部屋に入るとしっかりとドアを閉め、鍵をかけた。
おれは少しの間考えをまとめるために四畳半の部屋をぐるぐると歩き回った。昨日まで、こいつは猫であり人畜無害なペットだった。今日から人格(猫格・妖格?)のある存在として扱わなければならない。そのことに関して自分の世界がひっくり返らなかったのは意外だった。
猫と会話しているなんて。猫だぞ、猫!
おれはのどが渇いてこたつの上にあった缶コーヒーをあけて飲んだ。ちら、と下を見るとヒデマルがおれを見上げている。
「あ、悪い。お前も飲む?」おれは缶コーヒーをそそぐために皿を探したが見つからなかった。ヒデマルは黙って首を振った。
「そうだ。確か猫ってカフェインが体に良くないんだったな。おれも実は缶コーヒーってあんまり好きじゃないんだ。バイト先でもらったから持ってるだけで」
おれは缶コーヒーを飲み下した。まずかったが、とりあえず喉の乾きは癒えた。
「それで里見殿」ヒデマルが落ち着いて話しだした。
「あ、おれ。南部と言います。里見は名前です」逆におれが丁寧語になる。
「南部殿。かたじけない。で、そこもとのご職業はなんでござるか? 数週間この館に滞在するもよくわかりませぬ」
「おれの職業ですか。ええと、まだ就職はしていなくて、浪人してます」
「にゃっ! 浪人!」
「その「にゃっ」てなに」
「妖界では驚いたときには「にゃっ」と言うのでござる。もっと驚くと「にゃにゃっ」、もっともっと驚くと「にゃにゃにゃー」と言うのでござる」
「本当かよ!」おれは猜疑心丸出しの目でヒデマルを見つめた」
「本当でござる。本当で」
「まあいいや。それで」
「その、浪人ということでござるか。それでは現在仕える主君はおられぬ、ということでよろしいんでござるか」
「あ、まあ。今は親元を離れてますし、おばさんはおれの保護者というよりはおれが保護者みたいなとこあるし」
「それではぜひ、わが主君にお仕えなされよ」
「わが主君っていかれたプリンスだろ」
「プリンス・アハーンがおかしくなられたのはダークサイドのみでござる。正気に戻ればこれほど民に慈愛深く、公明正大なお方はおられませぬ」
「いや、正気のときに契約して給料貰いに行ったら正気じゃなかったら困るし」
「それは……可能性はありますな」
「困るだろっ!」
「ほれ。ここに契約書がござる。この隅っこに血判を押していただくだけのことでござる」
「ほー」おれの前に巻物をひろげると、謎の文字で墨書してあった。
「この部分はなんて書いてあんの?」
「これは……「命令には絶対服従」と書いてあります」
「それでここは?」
「ここは……「二年毎契約自動更新」と書いてあります」
「そーか。じゃ、ここは」
「「報酬はベストエフォート型」と……」
「ぜってー契約しねえ!」
悪質なインターネット回線契約みたいな文言があふれている契約書だった。
「それで」
「伝説の八猫士を探すんだろ」
「そのとおりでござる。話が早い」
「そもそもその八猫士ってなんなの?」
「あれは太古の昔。キング・ウフーンの治世が始まったばかりの今から千年ほど前……」ヒデマルは夢見るような表情で話し始めた。額にしわを寄せ、目をつむって遠い過去を思い出すような表情で話し始めた。
その昔、妖界はまだ混沌としていた。それぞれの文化を持ち、それぞれの生き方をしていた様々な妖たちは人間界で言えば獣と鳥と魚のように別々の生活をしており、食物連鎖で食ったり食われたりをしてはいた。知性を持ち、言葉を操り、文化を持ってはいたが、一つの「国」とか「世界」とかいう概念を持っていなかった。
そこに外の世界からの侵略者が現れた。彼らを狗族と言う。狗族はおそらく人間界から転生してきたようである。転生とは黄泉の裏木戸を通って別の世界に行くことで、その方法は知られていたものの、普通は姿形が変わってしまうことと、記憶を失ってしまうので、別世界に転生して戻ってきた者はいない。
しかしアヌビスという狗妖のみは別世界にいるときの記憶をとどめていたようだった。アヌビス率いる狗族は強力な妖気を操り、みるみるうちに妖界を支配していった。妖界の住人たちは支配され、自由を奪われ、苦しめられた。
そのとき立ち上がったのはキング・ウフーンである。彼は妖界の妖たちを結束し、狗族の侵略に対抗した。
戦いは長く厳しかった。狗族は少数だったが、どうしたことか黄泉の裏木戸を通って自由に妖界と人間界を行き来することができたのである。思わぬ場所から突然現れて攻撃してくる狗族には手を焼いた。しかし、とうとうアヌビスの秘密が明かされた。転生時に記憶を失わないのはアヌビスのみであり、残りの狗族はただ付いているだけだということ。アヌビスの転生する力は妖界の太古からある幻視珠の力であり、それを奪えば転生することはできなくなる、ということである。
戦いのさなかに幻視珠が粉々に砕け散った。砕けた珠のかけらはそのまま黄泉の裏木戸を通ってどこかへ飛んでゆき、アヌビスも珠のかけらの一つとともに妖界を去った。
しかしそれで終わりではなかった。その第一次妖界大戦から三百年たったある日、復讐心に燃えたアヌビスは大軍勢を率いて再び妖界を侵略し始めたのである。今度は十分に準備を整えたアヌビス勢に対し、突然の太平の眠りを破られたキング・ウフーンたちは攻め滅ぼされるかと思われた。
その時、どこからともなく八人の戦士たちが現れ、アヌビス軍に対抗した。彼らは全て妖猫族の剣士たちで、飛び散ってどこかへ行ってしまったはずの幻視珠のかけらを携え、転生しても記憶を失わない能力を備えていた。彼らは妖界と人間界を転生して動き回りながら戦うアヌビス軍を追撃し、ついに彼らを撃破し、アヌビスは降伏してキング・ウフーンの権威に恭順した。キングウフーンは妖界の危機を救った八猫士たちに名誉を与え、要職につけようと引き止めていたが、ある夜、彼らは滞在中の館から忽然と姿を消し、その行き先を知るものもだれもいなかった。
「で」おれはお伽話を聞いた後のような気分で尋ねた。「その行き先のわからなくなった八猫士だが、どこへ行ったんだ」
「八猫士を惜しんだキング・ウフーンは妖界中を探すおふれを出し、巫女を用いて手がかりを探しましたが、彼らの行方は杳として知れず。妖界にはいないということがわかりました。それでは、人間界にいることはほぼ間違いないと。ただ、幻視珠をもっていないので、記憶がないはずでござる。自分の名前はおろか自身が妖界の住人であったことすら覚えていないと」
「幻視珠って?」
「これでござる」
ヒデマルはポケットから数珠を取り出した。八つのクリスタルがつながり、それぞれの中に異なった文字が浮き出ている。
「ふーん」
「これがないと妖界と人間界を通り抜けるときに記憶を失ってしまうのでござる。だからこちらから見つけてさしあげねば」
「いや、でも会えばわかるんだろ」
「いや、それがしと同じく姿も変わっているはずでござる。ただあれほどの妖気を備えていた彼らのこと、犬猫ではなく人間の姿になっている可能性が極めて高いでござる」
「そうか。で、どうやって探すつもりなんだ」
「伝説によれば」ヒデマルは重々しく言った。「王国の危機には彼らは再び黄泉の裏木戸近くに集結するのでござる。つまりここでござる」
「ここ?」
「さよう。アヌービスの軍勢と戦っているとき、多くの裏木戸の目印となる建造物は破壊され、出入口がわからなくなりました。ここは今でも残っている数少ない出入口でござる」
「どこ? どこに出入口があるんだよ」
「通常は黄泉の裏木戸はふさがっており、アクセスすることはできませぬ。時が満ちれば開門します。また幻視珠のかけらがなければ元の姿を留めることはできず、記憶も失います」
「ただ、この近くに八猫士が集まりつつあるのは間違いござらん。あとは八猫士の印を確かめるだけ」
「八猫士の印?」
「さよう。八猫士は記憶を失う以前でも、身体にこのような……」ヒデマルはおれの勉強机に飛び乗り、前足をスタンプ台に乗せてインクをつけると、おれの大学ノートに押印した。鮮やかな肉球マークが大学ノートに残った。
「おい。なにすんだよ! おれのノート」
「このような形のあざが、八猫士の身体のどこかに必ずあるのでござる。これが八猫士が八猫士たる明らかな証拠でござる」
ヒデマルはかしこまって言った。




