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くのいち

 おれが台所に入ると、ジャージ姿がなにかを調理しているところだった。

「おっす、しのぶ。おはよっ」

 声をかけた瞬間にそれがしのぶではないことに気付いた。同じようだがもっと身体にぴったりし、濃い柿色をしたジャージを着ているほっそりとした姿は猫波ケイ。通称くのいちだ。

「おっと失礼。猫波か」言いかけたおれはくちごもった。ちら、と振り向いた猫波の目が泣きはらしたように赤くなっていたからだ。猫波はそのままぷい、と流しの方を向くと再び作業を続けた。

 おれは両手を身体の前で組み合わせてもじもじした。泣いている女の子ってどうやって声をかけたらいいんだろう。こいつはいきなり驚かせたり、退路を断つような位置においこむと瞬時に忍者モードになるからな。バク転して包丁を逆手に構えたり。しかも極端に無口ときている。なにを考えているかわからない。

 おれは話しかけるきっかけを求めて猫波の横からのぞきこんだ。

「なに作ってるんだ」

 猫波の前には数種類の雑穀が小鉢にわけられ、入れられている。どれも地味な色だ。

 猫波はそれらをすりつぶして混ぜ合わせ、小さな丸薬のようなものをいくつも作っては並べていた。

「ふーん。これなに。ハーブかなにか?」

 おれが問うと一瞬の沈黙の後、一言言った。

「兵糧丸」

 おれも一瞬沈黙した。おれの雑学知識だと、忍者は五穀をブレンドした兵糧丸と呼ばれる携行食を持ち歩き、任務中はそれと水以外一切を口にしない。兵糧丸は無味乾燥だが、その中にはあらゆる栄養素が含まれ、それさえ食していれば、一般の食事をしなくても何ヶ月も行動でき……おい、ちょと待て!

「もしかして、夕食のときにほとんど食べないのは、これ食ってるからか?」

 猫波はおれをちら、と見るとまた作業を続けた。

「おい! ちゃんと答えてくれよ」おれは猫波の逃避距離ぎりぎりまで近づいて言った。

「夕食は……食べてない」

「え、でもお前の皿、くいもん減ってるぜ」

 猫波は黙ってしまった。しかしある予感でおれは黙っていられず、猫波の横に回り込んで追及した。

「おい! まさか、まさかとは思うけどよ。もしかしていままで食事してなかったのか。寮の食事は全く……」

「食べて……ない」

「やっぱりそうか。飲み物なんかはどうしてたんだ」

 猫波は目をそらせた。

「おい! 答えろよ」

 おれはなぜだかカッとなって猫波に詰め寄った。猫波はいつものように距離を取って包丁を逆手に構えたりせず、不思議そうに目をあげておれを見た。

「飲み物は手ぬぐいに染ませた。飲むふり」

「それっておれたちを信頼していないってことかよ」

「……」

「おれだってみんなのために一生懸命作ってんだぜ。まずくてたまらないってんじゃなきゃ、食うのが礼儀だろう」

「習慣」

「え?」

「子供の時からの習慣。だから特に意味はない」

「いや違うと思うぞ。一緒に飯を食うってことは、お互い仲間だって、信頼してるってことを確認することだ。猫波。おまえ、おれたちを信頼していないのか?」

 猫波は顔をそらせた。

「敵では……ない」

「いや。おれが見ててもAKOの連中はお前を仲間として扱ってるぞ。だからおまえが少々他と合わさなくてもちゃんとおまえの席を空けといてくれるし、なにも発言しなくても、それを認めてくれてる。おばさんだっておまえのことを暖かく受け入れてくれてる」

「そういう……こと……なの」

 猫波はなんとも不思議な話を聞いたような驚いた顔をした。その表情を見ておれは初めて気付いた。こいつ、どんな育ち方をしたのか知らないが確かに普通じゃない。基本的な親や家族との関係みたいなものの経験がないんじゃないか。

「そうさ。おれが料理してそれをお前が食べる。同じ席でAKOたちが一緒に同じものを食って美味しいとか、お腹減ったとか言って騒いでその時間を共有する。それがなんて言うかきずなじゃないのかな。つまんないことかもしれないけど一緒に食事ってけっこう大事だぜ。食べるってことがただの栄養補給なら、食いもん置いといて、めいめい勝手に食えばいいけどそうじゃないんだ」

「知らなかった」

 作りごとではなく、猫波は本当に知らなかったようだ。

「今度から……ちゃんと食べる」


     *


 その日の夕食で猫波は初めて奈落荘の料理を口にした。その様子をちら、と見てたけちんが言った。

「へえ。くのいっちゃん。なにがあったの?」

「なに……も」

「でもいつもご飯食べてへんやろ。そっとスーパーの袋に入れてんの知ってんで」

 その言葉で猫波の体にさっと緊張が走ったのがわかった。持っていたはしをくないのように握る。

「や、ややなあ。くのいっちゃん。うち、別に他意はあれへん。確かにくのいっちゃんの技は手品師級や。普通の目やったら同席しててもそんなことわからへんやろうな。でもうちちょっと霊感強いねん。「あっ食べてへん」「ああ、テーブルの下に袋あるわ」とかわかってしまうだけや。うちかて気分悪い時食欲あれへんし、別にくのいっちゃんが食べへんでも全然気にせえへんよ。外で猫でも飼ってるん?

「……ない」

「じゃあ栄養ちゃんと取りや。体が資本やで」

「……なんで」くのいちは戸惑っている様子でちら、とおれを見た。おれはここぞと眼差しに力を入れてメッセージを込めた。

(そうだ。みんな仲間だからお前のことを普通に気にしてるぞ)

「うちら一応グループなんやから、うわべだけでも仲間になろうや」

 「一応」と「うわべだけ」は余計だ! だがナイスフォローたけちん。

「……仲間」


     *


「で、食事はするようになったけど、おまえその服装なんとかならないか」

 おれは腰に手を当てて猫波をながめた。猫波はいつもの濃いオレンジ色のジャージを来てすらりとした身体をのばしたままきょとん、としている。

「その服。いわゆる忍者服のつもりだろうけど、ジョギングでもないのにそれで外出したら滅茶苦茶目立つぜ」

 渋い柿色は黒と並んで忍者の夜間行動服の色だ。闇では目立ちにくいらしいが都会で女の子が外出に着る服ではない。

 なんか猫波ってパフォーマンス高いんだけど、どこかごっそり抜け落ちてるんだよな。

「目立つの?」

「当たり前。靴は持ってるのか?」

「ある」そういって猫波が差し出したのは足袋にわらじだった。ド目立ちだ。

「それじゃあんまりだから、ちゃんとした服と靴を買えよ」

「……」

 おれはぴんときた。世間知らずのこいつが絶対に持ってなさそうなもの。

「金はあるか」

「……ある」

「へえ。ちゃんと持ってんだ」

「そのあたりに……ある」

「そりゃ泥棒じゃねーか! ぜってーだめだ」

「だめ?」

「そうだ。他人のものを勝手に持ってきちゃだめだ」

「そう……なの」

「かー! まいったな。おれも助けてやりてえが、あいにく受験生には余分な金はねえんだ。バイトするか」

「バイト?」

「アルバイトだよ。不定期な仕事。小金をかせぐためにはいいぜ」

「仕事」猫波は考え込んだ。

「なんならバイト斡旋所を紹介してやろうか」

「はい」

「はいっていいのか」

「いい」

「じゃあ明日一緒に行こうぜ」


 翌朝、おれは支度をすませ、奈落荘の玄関口で猫波を待っていた。

「おま……たせ?」

 口ごもるようにして現れた猫波はいつもの渋柿色ジャージだったが、口を手ぬぐいでマスクのように覆っていた。おれの額に汗が浮き出る。

「それなんだ?」

「忍び働きに行くから」

「今日はバイトを探しに行くだけだ。偵察でも暗殺でもない」

「……」

「だからそのマスクは必要ない」

 猫波はしばらく迷っていたが、やがて言われたとおりに手ぬぐいをはずした。足元は足袋ではなく、たけちんに借りた普通のスニーカーを履いている。

 悪くない。普通の女の子がバイトを探しに行く服装だ。これであと、人前でいきなりバク転とかくない投げとか始めなければ大丈夫だろう。

「サイズは合ってるのか」

 猫波は黙ってうなずいた。

「気になるんだな。他人の靴だから」

「音が……しない……からいい」

 そういう評価もあるんだ。

「じゃあ、行こうぜ」

 おれはポケットに手を突っ込んで先に立ったが、猫波は立ち止ったまま考え事をしているように動かなかった。

「おい、まだなんかあんのか?」

 そのまま猫波はすっと手を伸ばすと、おれの肘をつかんだ。えっ。このままだと彼氏にリードされてお出かけのカップル、みたいになっちゃうけど。

「ああっ! のぞきの南部が今度はくのいっちゃんを毒牙にかけてる!」

 ちょうど階下に降りてきたまおりんとやおいに目撃された。

「人聞きの悪いこというな! 一緒にバイトを探しに行くだけだ」

「てなこと言って風俗で働かせるんじゃないわよね。自分はピンハネして」

「くのいっちゃん。危険を感じたら言うなりになってなくてもいいのよ」

「わかって……る」

 そういう認識だったよかよっ!


 おれたちはそのまま外へ出た。猫波は履きなれないスニーカーをときどき見たが、歩くペースは男のおれに全く後れを取らなかった。


 おれたちがたどり着いたのは都内のアルバイトあっせん所だった。スマホの時代になぜあっせん所を使うかというと、ここは単なる仕事の取次ではなく、紹介する仕事の面接もここの職員が行ってくれる。働く会社の担当者と面接しなくてもここ一回で決まれば即座に仕事ができる。忙しい受験生にはもってこいだった。

 おれは壁に貼ってある【急募】一覧を読んでいた。

「ええと、お前ができそうな仕事というと、コンビニのバイトはけっこう覚えなきゃいけないことが多いし、お前事務できる……わきゃないか。男なら現場とか警備員とかあるんだけどな。女の子だと受付とかならこれなんかどうだ。オフィスビル受付。時給6百円」

 おれは肉体労働募集一覧を見た。大体日給8千円から1万円。やはり男は稼げるぜ。おれはちょっと心の中で胸を張った。

「あれっ南部くん。今日はどうしたの? デート?」顔見知りの職員が呼び掛けてくれた。

「い、いえ。この子になんかいいバイトありませんか。まったく未経験なんですけど」

 その職員ははっとしたように猫波の姿を上から下まで数度見入るとパソコンで案件を検索した。

「ある」ただちにプリントアウトした案件情報をおれに手渡した。「着物コレクションのコンパニオンの仕事だ。しかも緊急。予定していた子が急病で来られなくて。身長もぴったり。体型もほっそりしてていい」

「え、でも。商品説明とか案内とかしなきゃいけないんじゃ」

「いやいや。今回のコレクションのテーマが「わび、さびの世界」だからむしろ黙って立っててもらった方がいい。この子はイメージぴったりだ。君、貧血とかじゃないね? 一日中立ちっぱなしでも大丈夫?」

「……」猫波は黙ってうなずいた。

「そうそう。そういう感じでいいよ。じゃあこの契約書に目を通してよければサインしてくれ。会場は説明するからすぐに向かって」

 ずいぶんと急だな。でもとりあえずバイトが見つかってよかった。おれがなんの気なしに契約書を見ると、日給2万円という文字が目に入った。

「あれ、南部君。どうしたの? 貧血? 他の人の邪魔になるからへたりこむなら廊下じゃなくてそこのベンチに頼むよ」

「立ってるだけで日給2万円! あああ、男のプライドが」おれは廊下にがっくりとひざをついたままつぶやいた。

 職員はそんなおれには構わず猫波に話しかけた。

「名前は? 猫波さんだね。免許証か保険証ある? ない。ま、いっか。これ地図だからすぐに向かってくれる? あっちの担当者には話しとくから」

 膝をついたままのおれにそっと猫波がふれた。おれは顔を上げる。

「一緒に……」

「うん?」

「……来て」

「え、おれ邪魔じゃね?」

「不安」

「不安なのか」

 猫波はだまってこっくりとうなずいた。ま、そりゃそうだな。どんな育ち方したのか知らないが、S級の世間知らずが初バイトじゃ、どんな騒動を起こすかもしれない。これはおれがついていってやった方がいいかも。

「じゃ、行こうぜ。おれは案内図を手に先に立った。猫波はうつむいて黙ったまま前と同じようにおれのひじをつかんでついてきた。うっ。なんか捨て猫になつかれたような感じだな。おれたちはそのまま着物コレクション会場へと向かった。


 おれはコレクション会場の控室前で待っていた。コレクションはすでに始まっている。おれたちは開場10分前にたどり着いたのだ。入口近くで死にそうな顔つきで待っていたデザイナーらしき男性はくのいちを見るとぱっと顔を輝かせて駆け寄ってきた。

「猫波くん? 早く早く。こっちです」

 そのまま控室へ猫波を押し込み、着付け担当者とヘアスタイリストに指示を飛ばすとばん、とドアを閉めた。

 ふう

 おれも猫波を無事送り届けて任務完了したのでちょっと休憩タイムとなった。おれとデザイナーは二人とも長椅子の両端に腰掛け、猫波ができあがってくるのを待っていた。

 かちかちかちかち

 廊下にかけてある時計の秒針がいらいらするほど遅く回ってゆく。

 そうして十分待たされた後、目の前のドアがきゅっと開いた。

 同時に竹林をざわつかせる突風が吹き、琴の音色が聞こえたような気がした。

 おれの周りで時間がゆっくりと進んだ。

 スタイリストに伴われて出てきたくのいっちゃんは本職のモデルさんかと思うほどさまになっていた。

 白と黒を基調にした振袖に、丹頂鶴の朱がひとすじ入っている。襟元から見える細いうなじの白さがまぶしい。汚れのない白足袋に雪駄を履いた足が様になっている。どこから見ても着物を着るために生まれてきたような似合いっぷりだった。

「どう」くのいっちゃんは相変わらず無表情のように見えるが、よく見るとちょっと嬉しそうな顔をした。

「きれいだよ。素敵だ」おれは思ったままを言った。くのいっちゃんはちょっと顔を赤らめた。

「理想だ」隣にいたデザイナーがほうっとため息をついた。そのままうつむいたままのくのいっちゃんを周りからながめる。「ふんふん。姿勢もいい。足袋も履きなれている感じだ。うん。いいよ。そのままちょっとうつむき加減で、無理に媚びを売る必要は全くない。笑顔でなくてもいい。むしろあまり表情を変えないで静かに立っていてくれたらいい。ああ、こんな子が現代にいるんだ。夢のようだ」

 そのままそのデザイナーはくのいっちゃんをコレクション会場の奥へ連れてゆき、まっすぐステージに上らせた。

 このコレクション会場は広い会場のそこここにテーマ別のディスプレイがあり、それぞれのディスプレイには一人の着物コンパニオンが立って、ある者は笑顔で別のある者は憂いを帯びた表情で立っているのだが、中央のステージには今年の新作着物を着たモデルたちが順番に現れ、居並ぶ報道陣のフラッシュを浴びているのだ。

 おれが追いついた頃、護衛艦の砲塔のように並んだ望遠レンズを前にしてくのいっちゃんは躊躇していた。デザイナーが困ったように早口で話しながらくのいっちゃんの肩を押している。おれは進み出た。

「猫波。これはカメラだから。心配するな飛び道具じゃない」

 くのいっちゃんはそういうおれを見ると安心したように黙ってうなずくとしずしずとステージの花道を歩き始めた。とたんにフラッシュが機銃掃射のようにたかれ、その合間にほう、とため息がもれるのが聞こえる。会場のあちこちから客が集まってきてスマホを構えた。

 ライトアップされたくのいっちゃんは美しかった。影のある顔つき、にこりともしない表情。会場のテーマに合っている。デザインや着物に造詣のないおれでも、くのいっちゃんがどんぴしゃりということはわかった。

「ねえ、彼氏くん」さきほどのデザイナーがくのいっちゃんに視線を定めたままおれに向かって言った。「いったいどんな育ち方をしたら、彼女みたいな表情ができるんだろうな。少なくとも普通に学校行って、SNSやってマンガ読んでる子じゃないな猫波くんは」

「彼女は……忍者……くのいちですから」

 デザイナーはその言葉をなにかの比喩と思ったようだった。「そうか。くのいちか。それならわかる気がする。とにかく。今日という日にあえてよかった」

 デザイナーはくのいっちゃんの着物姿を目に焼き付けるかのようにずっと見つめていた。


     *


 一日のバイトが終わって帰るときに問題があった。くのいちが一生懸命なにかを探している。

「どうした」

「服が……」

 見るとくのいっちゃんの着てきたオレンジ色のジャージがどこにもない。おれも一緒になって探しているとスタイリストに声をかけられた。

「どうしたの?」

「ああ。この子のジャージがなくなったんです」

「着物クィーンのジャージ、知りませんかぁ!」スタイリストが大声で叫ぶと、小道具係のおじさんが額を手で打って言った。

「ありゃ。あのオレンジのやつかい? しまった。古いからごみだと思って捨てちまったよ」

 ごめんねごめんねと平謝りの小道具係とは別にくのいっちゃんの顔は心なしか青ざめていた。

「道具……は?」

「道具?」

「胴巻きに……」

 詳しく聞くとどうやらジャージの下には胴巻きをしていたらしい。こんなものをつけていたらスタイルが崩れる、と着付け師に外されてしまったのだ。その胴巻きも捨てられたのか小道具に紛れてしまったのか、どうしても見つからなかった。

 くのいっちゃんはまわしをなくした相撲取りのようにそわそわした。

「中に大切なものが入っていたのか?」

「うん」

「金じゃないよな。保険証とか?」

「くない、分銅、火薬」

「銃刀法および危険物取締法違反だ! そんなもの持ち歩くなよ。現代の東京でいるか、そんなもん」

「ないと不安」

 猫波の顔を見てたらなんだかかわいそうになった。

「そんなに心配すんなよ。おれがついててやっからさ」

 猫波はおれの顔をじっと見つめてから言った。

「不安」

 おれ、そんなに信頼ないんだ!


     *


 結局着物コレクション主催者が「おわび」ということでくのいっちゃんはコレクションで着ていた着物をそのまま着て帰ることになった。ほかに衣装がなかったのだから仕方ない。

 町を歩くくのいっちゃんはすれ違う人々がみな振り返るくらい目立った。指さして連れを呼ぶ人、いきなりスマホを構えて撮影する人もいた。そんな風にされて、くのいっちゃんはますますうつむいた。おれはいきなりパパラッチする人をにらみつけ、それでなんだか目立つ彼女を守る彼氏、みたいになってしまった。いや、ここにまおりんがいれば目立つお嬢様を守る下男とか言われるだろう。おれ、なに自虐ネタ振ってんだろう。まあとりあえず、くのいっちゃんはバイトで稼いだし、いいとするか。

 そんな風にして帰り道を二人で歩いていた。最初おれの腕をつかんでいたくのいっちゃんは今ではおれの腕に腕をからめていた。日は暮れたばかりで、空はまだ明るかった。夕凪がまだ続いており、空気は蒸したがくのいっちゃんは汗一つかかずに雪駄でつまずくこともなくあるいていた。


 一陣の風が後方から吹いてきて、突然腕にかかっていた重さがなくなった。ふと後ろを見るとくのいっちゃんはおれの腕を離し、立ちすくんでいる。突然がばと歩道に膝をつくと敷石に耳をつけた。

「な、なんだ。どうした」

 おれはあたりを見回したがちょうど道には誰もいない。

 くのいっちゃんは唇をかみしめていたが、吐き出すように言った。

「追っ手」

「追ってってなんだよ」

 おれの質問には答えず、あたりを素早く見回すと言った。「隠れて。早く!」

「はあっ?」

「早くして」道端の郵便ポストを指さす。有無を言わさない意思が現れている。今まで見たことのないくのいっちゃんの様子におれは無言で従ってしまった。

「声を出さないで。決して」

 そう言い置くとくのいっちゃんは走りだそうとして立ち止った。「遅かった」


 夕暮れの薄闇から影が現れた。一つは前、もう一つは後ろ。ちょうどくのいっちゃんをはさむようにして素早く近づき、距離をとって立ち止った。二人とも黒いジャージを着ている。顔は覆面で口を覆っており、目だけが異様な輝きを放っている。

「抜け忍お波。ここで会うたが百年目」

 はあっ? なにこれ。時代劇の撮影?

 しかし彼らの間にただよう緊迫感はまったく冗談のようではない。

「お波。忍びが掟は知っていよう。抜け忍には「死」あるのみ。しかしその前に、お主の師匠の居所を吐け」

「知らぬ」くのいっちゃんは言った。

「知らぬはずがあるか。お前の師匠だ。教えれば命だけは助けてやらんこともない」

「笑止」時代劇の言葉でくのいっちゃんが答えた。

「ならば、参る」そう言うと二人はジャージのそでから刃物をすらりと抜き出すと同時にくのいっちゃんにとびかかった。

 破

 くのいっちゃんは回転し、歩道に転がって二人の刃をかわした。そこへ立て続けにくないが飛び、たたた、と突き立つ。くのいっちゃんはそれもかわした。起き上がるのが遅れたくのいっちゃんに男の一人がとびかかる。

「どうした。忍び道具を持っていないのか。一般人の生活でぼけたか」

 忍び道具って、あの胴巻きはやっぱり必要なものだったのか! ありえねえ。

 くのいっちゃんは手刀で相手の首を打ち、それで相手は転がった。しかしくのいっちゃんにはいつもの素早さが欠けていた。あの振袖だ。素敵な着物だが足が自由に動かない。くのいっちゃんもそれに気づいたようだった。歩道に突き立っているくないの一本に飛びついて回転しながら起き上がる。そうして思い切って着物のすそに手をかけ、切り裂こうとした。

(着物が!)おれは思わず考えた。コレクション会場で着物を着て出てきたときのくのいっちゃんの表情が脳裏に浮かんだ。あんなうれしそうな顔を初めて見た。

 くのいっちゃんも同じことを考えたのかはっとして固まった。郵便ポストから身を乗り出しているおれの方を見ている。その一瞬、敵が背後に迫った。

(危ない!)

 おれが考えるのとくのいっちゃんが前に転がるのと同時だった。それでも敵の刃を完全にかわすことはならず、着物の背中がはらり、と分かれて垂れ下がる。使い物にならなくなった着物をうつろな目で見ていたくのいっちゃんは、やおら着物のすそに手をかけ、刃を入れた。

 ぴり

 着物がさあっと裂け、くのいっちゃんの真っ白な足がさらけだされる。子供の浴衣じんべえ姿のように短くなった着物でそのままくのいっちゃんは跳躍し、迫る男の腹に蹴りを叩き込んだ。

「ぐわっ」

 男の足は止まり、口から吐いた。普通の人間ならダウンしているダメージだ。

 それでも二人は前後からくのいっちゃんをはさみ、攻撃の機会をうかがっている。後ろの男が振りかぶる。

「猫波! 後ろだ」思わずおれは叫んだ。

 おれの叫びに男たちはおれを見た。

「ち。目撃者か」「連れだ」「ならば」

 男の一人は振り向きざまおれに向かってくないを投げた。おれは反射的に目をつぶり首をすくめる。

 ちん

 金属音が響き、目を開くと郵便ポストにくないが突き立っていた。両手が空のくのいっちゃんが投げ終わった姿勢のまま立っている。おれを救うために、自分の持っているくないを投げて敵のくないをはじいたんだ。

「愚か者。忍びが他人を救うためにえものを捨てるとは」

 男二人はおれより先にくのいっちゃんを殺すことにしたらしい。再び二人でくのいっちゃんを挟んだ。くのいっちゃんはたもとに手を入れている。

 一呼吸後に男二人はとびかかった。くのいっちゃんも同時に跳んだ。

 しゅん

 空気を切り裂く音が聞こえ、三人はすれ違った。

「ううう」「あああ」

 うめいたのは男たちの方だった。二人とも目をおさえている。手の下から血がしたたった。

 くのいっちゃんは両手の人差し指と中指でもらったバイト代の一万円新札をはさんでいた。文字通り手の切れそうな万札だ。それで男たちの目を切ったらしい。

「去れ」冷たい声でくのいっちゃんが言う。

 目をつぶされながら男たちが言った。

「お波。おぬしは師匠と同じ弱さをもっておる」

「殺すことをためらっていては忍び働きはかなわぬ」

「よいか。どこに隠れようともいつの日か必ずわれらはおぬしを見つけ出す」

「「おぼえておれ」」

 二人はそう言い捨てると走り去っていった。


 おれはその後姿を呆然とながめていたが、しばらくたってようやく猫波の方を振り向いた。

 猫波は唇が白くなるくらいかみしめていた。

 おれは猫波のそばに駆け寄った。

「おい。けがはないか」

 猫波は答えなかった。おれは猫波の手首を握りしめ、たずねた。

「あいつら何者だったんだ」

「追っ手」

「追っ手って、どこから追ってきたんだ」

「……忍び里」

「「忍び里」って、そんなもん、現代にあるのかよ」

「ある」

「あいつら「抜け忍」とか言ってたけど」

「わたし……抜け忍だから」

「そうだったのか。って全然納得いかねえ。忍び里だって信じられねえ。でもそんなこたどうでもいい。とにかくお前が無事なら」

 おれの言葉で猫波は再び唇をかんだ。一瞬くやしそうな表情になる。

「わたしの……落ち度」

「なに言ってんだ。とにかく変質者がいなくなって良かった。着物、残念だったな」

 おれの視線に初めて気づいたように猫波は自分のぼろ雑巾のようになった着物を見回した。愛おしそうに切れた振袖をつかむ。

 それからゆっくりと引き裂いた。

「なにすんだよ。無理に破らなくてもいいじゃねえか」

 猫波はゆっくりとおれを見ると言った。

「じゃあここで」

「へ? 一緒に奈落荘へ帰るだろ」

「用事」

「そうか」

「今日……ありがとう」

「おう」

「あした……また」

「そうか」

 そうか、と言いつつおれはもっとしっかりと猫波の手首を握りしめた。心の中に不安がどっとあふれ出てきた。なんでこんなに不安なんだろう。そうだ。この猫波の言葉、どこかで聞いた言葉だからだ。

「あした……また」

「おい猫波」

「……」

「それどういう意味だ」

 そう言った瞬間、思い出がどっと打ち寄せて、おれは周囲を忘れた。

 「ありがとうねェ」決して礼を言わなかったばあちゃんはそう言った。自分の最期を悟ってそういった。「あしたまた」それが生きているばあちゃんの顔を見た最後だった。「あした」が来る前にばあちゃんは帰らぬ人となった。


 今猫波が同じ言葉を言っている。礼など言ったことのない猫波が。余計なことを一切しゃべらない猫波が明日のことを口にした。

 ちょっと親しくなってくれたのかな。

 そんな楽観的な考えは唇を白くした猫波の顔を見たら消え去った。おれはもう一度猫波の手首を握り直し、言った。

「一緒に奈落荘へ帰ろうぜ。みんなが待ってる」

 猫波は初めてつらそうな顔をした。

「おれたちゃ仲間だろ。いや、おれは除外されるかもしれないけど、少なくともAKO47はお前の仲間だ」

「……だから」猫波は顔をそむけた。

「だから?」おれはつばを呑み込んだ。

「わたしと一緒だと……危ないから」

「だからっておれたちに何も説明せずに黙って去るのか? いなかったみたいに急にいなくなるのか? そんなのダメだ!」

「知らない方が……いい」

「一人で抱え込むなよ! お前。こんな細い手首で。全部自分一人で解決しようとするな」

「今日……本当に……後悔した。可愛い……服……うれしくて……後れを取った。もう少しで……南部くん……殺される」

「なにも知らずにお前がどこかで死んでしまうより、なにもかもわかった上で殺されたほうがましだ!」

 猫波は目を見開いた。「そん……な」

「忍び里とかまあいい。抜け忍とかもかなり痛いけど許容範囲だ。あのいかれた変質者も警察に届けずにおこう。お前が世間知らずで着物もぼろぼろにしちゃって、おれが殺されそうだって、それもいいよ。でもお前がおれたちを置いて一人でさびしく行ってしまうのだけはだめだ」

 おれは猫波の手首を胸の前にかかげた。

「猫波。約束しろ。誓え。決しておれたちを置いていかないと」

 おれが説得しているあいだ伏し目がちだった猫波の目は今度こそ最大限に見開かれた。

「誓い」

「そうだ。誓うんだ。けっして黙っておれたちのもとを去らないと」


 突然猫波はおれの胸に倒れこんだ。おれは驚いてやせた体を抱き留める。

(おししょうさま)

 猫波の目から涙があふれでて、おれの胸を濡らした。体が震えている。おれは手の置き場に困って猫波を見つめていた。

(おししょうさま。行かないで。おいていかないでください)

 猫波がなにかつぶやくのを聞いた気がしたが、ぼろぼろとこぼれる涙に気を取られて何を言ったのかわからなかった。


 おれたちはだいぶん長い間、そうやって立っていた。


     *


 謎の襲撃者が襲ってきた次の日、AKO47たちはなにごともなかったかのようにいつもどおりの生活をしていた。ただ一人、目覚ましい働きで襲撃者を撃退したくのいち―猫波のみが朝食にも昼食にも姿を表さなかった。いままではその存在すら目立たないが、みんなが集まるときにはさりげなくそこにいたものだが。

 夕食の時間になってまでくのいちが現れないことに気づいたおれはたけちんにきいてみた。

「あれ、猫波は来ないの」

「部屋におれへんみたいやし」

「また外へ行ったんじゃない。いつも夕方になると出かけるみたいだし」と、はなちゃん。

「あの子、なに考えてるかわからへんとこあるし。前なんか寝てるところをゆすったら飛び起きて部屋のすみまで飛んでったんや。しかも定規を逆手に持って。匕首みたいに」

「だから忍者。くのいっちゃん」と、まおりん。

「そうそう」全員がうなづく。「まんま忍者」

「干渉されるの嫌いみたいやから、そのままにしてんねん。でも必要なときにはちゃんと現れるし」

「でも今日は全く見ないぜ」

「なに? あんた気になるん? もしかしてタイプ?」

「お、おお。おれはここの舎監ドメトリィ・コオーディネーターだし」

「ただの雑用係でしょ」

 即否定されたがそれくらいではおれはめげない。

 夕食が終わり、床そうじをしているときにモップのもじゃもじゃした雑巾部分がぼろぼろなのに気づいた。スペアは二階の納戸にしまってある。

「あがるぜ」そう声をかけておれは二階へ上がっていった。就寝前のこの時間はAKO47たちの入浴時間なので、きちんと了解を得ないと大変なことになる。

 たまにしか開けない納戸の扉をがらっと引いた瞬間、異変に気づいた。

 変な臭い、そう腐臭に近いものが部屋をただよっている。ばあちゃんの世話をしていたときにかいだような臭いだ。ばあちゃんは床ずれがひどくて皮膚からいつもすえたような臭いがしていたからおれは慣れていた。

 中に踏み込むと奥の箱の影にうずくまっている姿があった。ジャージ姿の猫波だ。おれの来たことに気づいたようにうっすらと目を開ける。

 おれはしゃがみこんで猫波のひたいに触れてみた。給湯パイプのように熱かった。

「おい。大丈夫か」おれの心の中で(ダイジョウブジャナイ、ダイジョウブジャナイ、コレハカナリヤバイ)と誰かが声をあげていた。

「だい、丈、夫」と猫波が声を絞りだすように答えた。

「なわけねえだろ」おれが触れようと手を伸ばすと、猫波はびくっと反応して下がろうとしたが、その激しい動きにうっとうめいた。同時にこめかみから汗が流れ出る。

「そうとう悪そうだな。どこが痛い」

 猫波はおれを見上げていたが、言った。「背中。昨日、切られた」

「ちょっと見せてみろ」おれがジャージの背中をまくろうとすると素早くおれの手首をつかんだ。

「おい、頼むよ。こんなときまで。なにも変なことはしないから。ただ、お前のことが心配だから来たんだ」おれがそう言うと、しばらく手首をきつくつかんだままだったが、突然力を抜いた。

 おれはそうっと猫波の身体を横に向け、ジャージの背中をめくった。

 乾いて黒ずんだ血がこびりついている。すぱっとした切り口の赤が生々しい。赤色の奥に白い膿がたまっていた。

「こりゃひどい」

「死……毒」

「しどく?」

「忍びの……使う……毒。刃物に……塗ってあった」

「そうか。それで切られた所が悪化したんだな」おれは立ち上がった。「なんでこんなになるまで放っておいたんだ」「すぐに救急車を」

「だめ!」急に大声で猫波が叫んだ。「呼ばないで」

 猫波の声で開きっぱなしになっていた納戸の入り口からやおいがのぞき込んだ。

「ああっ。また南部がセクハラしてる。ていうかもうこの状況はレイプ? 納戸でレイプとかいつの時代よ」

「違うわっ! よく見ろ」おれがどなるとまおりんとやおいがこわごわと入ってきた。せまい納戸はそれだけでいっぱいになる。

「こういう事態だ。医者に連れていかなきゃ」

「やめて!」猫波が叫ぶ。この声だけ聞けばおれがなにかしてると勘違いするよな。

「医者はいや」

「え、でもこの傷、かなりひどいぜ。ちゃんと治療しなきゃ」おれは携帯を取り出してダイヤルしようとした。

「い、いや、いやー!」猫波は叫んでおれの足にしがみついた。さすがにおれは止まった。

「どうしても」猫波の表情は必死だった。よほど医者に悪いイメージがあるらしい。

 おれが途方にくれてると廊下からたけちんが言った。

「その子、ほんとに人見知りやねん。身体に触れられるのも嫌いやし。あたしらみんなそれ知ってるから干渉せえへんし」

「とにかくここじゃ治療もできないからおばさんの部屋へ行こう」

 おれは猫波の手を引いて立たせようとしたが、猫波は立ち上がりかけたところで膝から崩れ折れた。

「やっぱり無理か」おれは背中の傷に触れないように気をつけながら猫波のわきと膝の下に腕を入れて持ち上げた。痩せた身体はかなり軽い。猫波は一瞬目を大きく見開いて身体を固くしたが、そのままあきらめたように目を伏せ力を抜いた。

「ほいっと。ちょっとそこどいてくれるか」おれが猫波の身体を運んでゆくのを廊下で縦列になったAKO47たちは見ていた。

(やだっ! 「お姫様抱っこ」よ)やおいがまおりんにささやく。

 おれはそれを無視して広い階段を下り、おばさんの部屋に猫波を運び込んだ。割烹着をきたままのしのぶがやってきたので指示を出す。

「ちょっとふとんを出して敷いてくれるか。あとお湯を」

 おれは手を洗うと猫波のジャージをぬがせようとした。

「ちょっと」

「ごめんな。手当てのためだから」

「そうじゃなくて……」

 猫波は顔をそむけて小さな声で言った。「わたし、臭うから」

 なんだ。そんなことを気にしてるんだ。やっぱり女の子だ。

「傷口が化膿してるんだ。臭うのはあたりまえ」おれはそういってそのままジャージを脱がせた。猫波は抗わなかった。きれいな背中の真ん中に血の一筆書き。その横に古い傷がある。四本の並行な刃物で井の字型に切りつけられたような傷だ。どんな刃物だとこんな傷になるのだろうか。

 おれはしのぶの敷いてくれたふとんの上に猫波をうつ伏せに寝かせると清潔な脱脂綿にオキシドールをつけて猫波の傷口を掃除し始めた。傷はそう深くはないが傷口の化膿がひどい。膿や毒混じりの血をできるだけぬぐいとった。かなりしみるはずだが猫波はさすがくのいちというあだ名を持つだけあって、ときおり痛みで身体を固くしたものの、うめき声ひとつたてなかった。それからおれは救急箱から塗り薬を出してたっぷりと塗りつけ、ガーゼをあてテープでとめた。抱き起こしてコップに入った水で解熱剤を飲ませる。

「お湯が用意できました」しのぶがたらいにお湯を入れて持ってきた。

「じゃあ、しぼったタオルで彼女の身体をふいて包帯を巻いてパジャマに着替えさせてくれるか。おれ外に出てるから」

 おれはそう言うと廊下に出てドアを閉めた。ほー、とため息をついた。こんなことをしたのは久しぶりだった。亡くなったばあちゃんのことを思い出す。実家は騒々しかった。今ではここ奈落荘がおれの家なんだ。そして……。奈落荘のみなが家族だという考えがちょっと心をかすめたが、おれはその考えを追求するのをためらった。

 しのぶに呼ばれておばさんの部屋に入った。入ると同時に四つの目がおれを見る。猫波はピンクのパジャマに着替えさせられてうつぶせに寝ていた。

「ずっと南部くんのことを探していたんです。迷子になった子供みたい」しのぶがなぜだかつっけんどんに言う。なにか怒ってるみたいだ。「ぼくじゃ駄目みたいです」

 おれが近づくと猫波は手を差し出した。おれはしのぶの顔を見た。しのぶは唇をとがらせたが、腕組みをしておれにあごをしゃくった。

 おれがあぐらをかいて畳の上にすわり手を握ると猫波は親を見つけた子猫のようにほっとした顔をした。

「……かないで」

「えっ?」

「いか……ないで。ここにいて」

「お、おう」おれはちらりとしのぶの顔を見た。しのぶはあきらめたようにうなづいた。このは本当にいい子だ。

「今夜は寝ずの晩になりそうだな。みんなにまた誤解されないようにドアはあけたままにしてくれ」

 おれが猫波の手を握り直すと、寝息が聞こえた。猫波はすでに安心したように眠っていた。


     *


 ぎしぎしときしむ廊下の音で目覚めた。はっと飛び起きるとおれは畳の上で眠りこけ、そのおれにくっついたまま身体を丸くした猫波がすやすやと寝息を立てていた。思わず猫波の額に手をあてると熱は下がっていた。

「あら」開きっぱなしのドアから猫ヶ谷遼が顔を出す。

「猫ヶ谷」

「「りょー」でいいって言ったでしょ。どうしたの。あら。くのいっちゃんじゃない」

「けがをしていたんだ。昨夜は高熱だった……って。いま何時?」

「夜中の三時よ」

「今帰宅か?」

「そーよ。悪い?」猫ヶ谷は胸をはって答える。目にはべったりとアイラインを塗り、化粧が濃い。どう見てもフィットネスジムへ行ってきたんじゃなさそうだ。

「ええと。じゃああんたこの子を寝ずに看病してたの?」

「お、おう」眠りこけてしまったことを思い出してちょっと後ろめたかったがおれは答えた。

「ふーん」猫ヶ谷はおれをまじまじと見つめると顔を近づけた。こいつ、絶対十代には見えない。大人の女の色香がファウンデーションに混ざってただよってくる。ぷん、とアルコールの臭いがした。

「あんた。見かけによらず、男らしいこともあるのね」そういいざまおれのほおにくちづけした。

「なっ! お前飲んでるだろ」

「さあね」

「不良娘!」

「あら。保護者づら? あんたになんの関係があるの」

「おれは……奈落荘ここの……舎監ドメトリィ・コオディネーターだ!」

「住み込み雑用係ね」

「うるせえ」

 猫ヶ谷はくっくっくっとのどの奥で笑いながらふらふらと膝をくっつけて座り込んだ。座ったままけたけたと笑う。

「あらあらちょっと飲みすぎちゃった」

 猫ヶ谷はうるんだ眼でおれを見つめたまま話した。

「優しい南部くん。あんたは受験生らしく、他人に干渉する暇があったら勉強でもしてなさいね」

「うるせえよ」

 おれは黙った。

「あら気に障った?」

 おれはちょっと顔を背けて言った。

「わかってる。おれは受験生なんだ。来週だって模試だし、こんなところで時間を食ってる暇なんてない」

「でも、可哀そうな美少女を見ると放っておけない」

「別に美少女だろうがブスだろうが関係ねーよ」

「本当? まさかー」猫ヶ谷はけたけた笑った。「男って下心があるに決まってるでしょ」

 おれは黙り込んだ。

「どうしたの?」

「ちょっと思い出してた」

「なにを?」

「こないだの受験で落ちたときのこと」

「なにが?」

 おれはしばらく考えていたが打ち明ける気になった。別に言い訳したかったんじゃない。でも夜には人を素直にさせるものがある。

「受験の当日、道で苦しそうにうずくまってるおばあさんを見つけたんだ。あたりにいる人はみな、ちらっと見て足早に通り過ぎて行って……」

「それでちょうどおれのばあちゃんと同じくらいに見えたから気になって、救急車を呼んで付き添った」

「で?」

「それで受験に遅刻した」

「ばっかじゃないの」猫ヶ谷は優しさを込めて言った。

「ばかだよ」

「うん」猫ヶ谷遼はふらつく足で立ち上がると一人でうなづきながら一旦ドアを出て、それからもう一度頭だけをドアから出して言った。

「そういうとこが素敵」


 結局おれは一晩中猫波の氷枕を取り替えたり汗を拭いてやったりして過ごした。

 猫波はときどき眉間にしわを寄せて「あう」とか「くっ」とかうめき声をあげ、おれの服を握りしめた。おれが背中の傷に触らないように頭を抱いて自分の胸に押し付けるとしがみつき、おれのシャツの臭いをくんくんとかいでから眠ったまま安心したようににっこりとほほえむと再び眠った。手はおれのシャツを握りしめたままだ。

 そのまま口を半開きにして頭が横にころがると白いほおにうっすらと赤みがさしているのが見えた。

「あっ」おれは一瞬猫波の手をふりほどこうかと思った。おれの男の保護欲指数が急上昇してレッドゾーンへ入る。やばい、おれ受験生なのに。それくらい、猫波の寝顔は可愛かった。


 一週間が過ぎた。猫波は最初の三日間はおれに看病されていたが、ある日ふっつりといなくなった。その日から奈落荘の古い木製の下駄箱にあるおれの靴入れには毎日のようにさりげなくチョコレートが入っているようになった。裏には控えめに引っ掻いたような三本の線を井の字に組み合わせた署名が……おれはこれを「猫十字」と名づけたが……書かれていた。

「『ごんぎつね』か」


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