82話:理想郷
「一部屋お願いします」
店に入り、カウンターにいるおばちゃんにお金を払う。
「201号室へどうぞ。階段を上がってすぐの部屋です」
「ありがとうございます」
鍵を受け取り、カチコチになっているノルンちゃんを連れて階段を上った。
鍵を開けて、室内へと入る。
中はピンク色のガス灯が灯っており、大きなベッドが1つ、鏡台も1つ置いてあった。
「うう……」
「……えっと、ノルンちゃん、大丈夫?」
「は、はいっ!」
ノルンちゃんが真っ赤な顔で、びくっを肩を跳ねさせる。
「その……無理してない? 別に、婚約したからって今すぐその……しないといけないわけでもないし、今じゃなくても……」
「い、いえ! 私、コウジさんともっと仲良しになりたいのです!」
ノルンちゃんが俺を見上げる。
「そ、そっか」
「はい……うう、恥ずかしすぎて魂魄が霧散してしまいそうなのです……」
ノルンちゃんが両手で顔を覆う。
なんというか、雰囲気の流れでいたすのと違って、そういう目的でこういった場所に来るというのはかなりこっぱずかしいものがある。
チキちゃんとの経験のおかげで比較的冷静な自分に、俺自身少し驚きだ。
「とりあえず、座ろうか?」
「はい……」
ノルンちゃんと並んでベッドに腰掛ける。
「えっと……ノルンちゃん、いつも本当にありがとう」
両手を膝の上でぎゅっと握り、カチコチになっているノルンちゃんに俺は努めて優しく話しかける。
「ノルンちゃんが来てくれてから、毎日が楽しくて仕方がないよ。ノルンちゃんが来てくれるまで、俺、いつもつらくて、ずっとクソみたいな人生だって思ってた。それが、こんなに幸せな日々が送れるなんて思ってもみなかったよ」
「あ、いえいえ! それが私の使命ですので! お礼なんて、とんでもないです!」
ノルンちゃんが俺を見上げ、わたわたと手を振る。
「天界にいた時、コウジさんの前世以前の行いを確認させていただいたのですが、本当に素晴らしかったのです。コウジさんには、幸せになる権利があるのですよ」
「そんなに? 俺、前世で何をしてきたの?」
「えっと、例を挙げると、1600年ほど前の人生ではコウジさんは欧州の商人だったのですが、飢えと病に苦しむ人々のために自らの財産をなげうって、今でいう養護施設のようなものを作っていました」
「えっ!? 俺、そんなことやってたの!?」
「はい。ただ、その時は権力者に盾突く不届き者として目を付けられてしまって、いわれのない罪で罪人として捕まって獄中死してしまったようです」
「そ、そうなんだ。なんだか、報われないね」
「ですね……他の人生でも、大なり小なり尊い行いを繰り返していました。弱者のために自らを犠牲にする、といった行いが多かったですね」
過去の自分がそんなことをしていたとは、かなり驚きだ。
今まで俺は自分のことが第一で、他人のために自らを犠牲にして何かしようなど、考えた事なんてなかったように思う。
魂が同じというだけで、完全に他人のおかげで今の幸せを享受しているような気がするんだけど、本当にいいんだろうか。
「なので、コウジさんが被救済者となったのは必然なのです。当然の権利なのですよ」
「うーん。その、前世までの記憶がまったくないからさ。全然実感が湧かないや」
「転生すると記憶はリセットされてしまいますからね。でも、カルマは引き継いでいますから」
「そのカルマってのが高い人って、転生後もいいことをする傾向があったりするの?」
「それはもう。当然のように、善人ばかりなのですよ」
ノルンちゃんがにっこりと微笑む。
「初めてコウジさんにお会いした時、私のことを受け入れてくださるのか、実はちょっぴり不安だったのです。でも、コウジさんはとても優しくしてくださって、すごく安心しました」
「はは。優しくっていうか、ノルンちゃんの勢いに圧倒されて、そのまま流れに身を任せただけなんだけどね」
最初にノルンちゃんと会った時は、現実離れした出来事の連続で頭が追い付いていなかったのが正直なところだ。
ぐいぐいくるノルンちゃんのパワーに押し切られた、といったほうが正しいように思う。
「私も緊張していたので、一気に捲し立てるようになってしまったのです。突然、みょうちくりんな小人が目の前に現れて、『あなたを救済します!』なんて言っても困惑するのは分かっていたので、勢いで押し切ろうと決めていたのですよ」
「そうなんだ。でも、実から生まれ落ちて、テーブルに顔をぶつけて鼻血を出したりしてたよね」
「あれは私も想定外だったのです……本当は、きちんと足から格好よく着地するはずだったのですが――」
そうして思い出話に花を咲かせているうちに、ノルンちゃんは緊張が解けたようで、自然な表情が戻ってきた。
ひとしきり話をして笑い合い、ふと会話が途切れる。
数秒の沈黙の後、ノルンちゃんが壁にかかっているガス灯に、ちらりと目を向けた。
「……コウジさん。明かりを消していただいてもよろしいでしょうか?」
少し照れくさそうな口調で、ノルンちゃんが言う。
「あ、うん」
俺は立ち上がり、ガス灯へと向かう。
ガス灯のツマミを捻って、火を消した。
光源は窓から差し込む月明かりのみとなり、かなり薄暗い。
「コウジさん」
呼びかけに振り返ると、すぐ目の前にノルンちゃんが立っていた。
ノルンちゃんが、まっすぐに俺を見つめる。
暗がりの中、彼女の綺麗な緑色の瞳に月明かりが反射して、美しく輝いていた。
「コウジさんの幸せが、私の幸せなのです。そのために、私は存在しているのですよ」
ノルンちゃんが柔らかく微笑む。
月明かりに照らされた彼女の幻想的な美しさに、俺は思わず息を飲んだ。
「あなたのために作ったこの世界で、至高の幸せを享受しながら、共に永遠の時を過ごしましょう。悩みも、恐れも、苦痛もない、あなたの望む幸せだけが存在する、この理想郷で」
ノルンちゃんが、俺の首にその両腕を絡める。
いつもの彼女とはまったく違う妖艶な眼差しで、俺をじっと見つめるノルンちゃん。
その幻想的な美しさのなかに、どこか退廃的な危うさを感じてしまうのはなぜだろうか。
「終わらない夢を、私と一緒にいつまでも」
そう囁き、ノルンちゃんは俺に口づけをした。




