59話:ソフィア様
車で走り始めてから間もなく、後方から複数のパトカーのサイレンが聞こえてきた。
物々しい音に、ベラドンナさんとエステルさんが青くなって背後を振り返る。
「げっ! もしかして、パトカーが追っかけてきてる!?」
「ううん、違うみたい。近寄っては来てないよ」
チキちゃんが窓から顔を半分出し、耳に手を当てている。
どうやら、それで距離感が測れるようだ。
「えっ、よくわかるね?」
「エルフは耳がいいから」
「あ、あの、コウジさん。もしかして、かなりの大騒動になってしまっているのですか?」
ベラドンナさんが後ろを振り入り、おろおろした様子で言う。
「ええ、ものすごい騒動になっちゃってるみたいです。チキちゃん、ネットはどんな感じ?」
「ちょっとまって……うわ、動画の数がすごいことになってるよ」
チキちゃんがスマホをベラドンナさんとエステルさんに見せる。
ネットの動画投稿サイトの、ニュースチャンネルだ。
素人がスマホのカメラで撮影したと思われる映像を流用したニュース動画が、数十件も投稿されていた。
「えっ、こ、これ、全部私たちを撮影したものですか?」
「うん。大騒ぎになってるみたい」
チキちゃんが動画の一つを再生する。
『こちら、たった今入った映像です。ご覧いただけますでしょうか、背中に翼の付いた人間がふたり、数十メートル上空を飛んでいるように見えます。動画投稿サイトには同様の動画が複数投稿されており――』
「あわわ……エステル、どうしよう……」
「わ、私に言われても……コウジさん、これって、消すことはできないんですか?」
「動画サイトに問い合わせれば消してもらえるかもしれないですけど、たとえ消してもすぐにまた同じ動画があちこちに投稿されちゃうんじゃないかな……一度広まったら、もうどうにもならないです」
一度こんな動画がネットに流れてしまったら、あっという間に拡散されてすべてを削除することなど到底不可能だ。
そもそも、動画を消すとかいう次元の話ではなくなっているようにも思える。
「コウジさんの顔がはっきり映っているですよ。車のナンバーがギリギリ映っていないことがせめてもの救いなのです……」
ノルンちゃんがスマホを覗き込んで、あわあわしている。
動画はどれもベラドンナさんやネイリーさんを撮影していて、俺たちが乗り込んだ自動車のナンバーまでは取られていなかった。
車で逃げだす時の映像も、今のところはないようだ。
皆、地面にはまってもがいている人々や、ビルの上を跳ねながら去っていくネイリーさんを映している。
とはいえ、俺の顔がはっきり撮られてしまっているのはすこぶるまずい。
ニュースを見た知人や親族から、いつ俺の素性が知れ渡るかわかったものではない。
「チキちゃん、俺の個人情報とか、まだ出てないよね?」
「たぶん出てないと思う。動画、新しいやつも再生してみるね」
アパートへと向かう車内に、スマホから動画の音声がひたすら鳴り響く。
そうこうしているうちにアパートの駐車場にたどり着いた。
今のところ、動画に俺の個人情報が流れているといったことはないようだ。
俺が先に車を降り、周囲に誰もいないことを確認して皆にも降りてもらう。
「やれやれ……これってさ、ノルンちゃんの上司のソフィア様だっけ? その女神様に、ノルンちゃんが怒られることになるのかな?」
こそこそとアパートに向かって小走りしながら、チキちゃんに抱えられているノルンちゃんに話しかける。
「うう、そうなると思います。こんな事態、前代未聞なのです。コウジさんとお別れしないといけなくなるかもしれないです……」
「えっ、そ、それは困るよ。俺、ノルンちゃんじゃなきゃ嫌だよ」
「私もコウジさんと離れたくないのですよ……とりあえず、すぐに天界に行ってソフィア様に報告してきます……」
「な、なんかすみません。私たちのせいで大変なことに」
深刻な話をしている俺たちに、ベラドンナさんがおずおずと言う。
しかし、悪いのはさっさと事情を説明しなかった俺たちだ。
「いや、ベラドンナさんたちは悪くないですよ。とりあえず帰ってから、これからどうするかは考えましょう。いざとなったら、もう不完全なままの理想郷に移住しちゃってもいいし」
部屋の前にたどり着き、鍵を取り出してドアノブに差し込む。
「えっ、コ、コウジさん、それは……」
ノルンちゃんが戸惑った声を漏らす。
「もしこっちの世界がどうしようもなくなっちゃったら、もう移住するしかないでしょ。それに、俺が移住した後なら、いろいろとつじつまが合うように世界を調整してもらえるって言ってなかったっけ?」
「それは……はい」
暗い表情でノルンちゃんが頷く。
不完全な理想郷に移住など、させたくはないのだろう。
「いろいろと怖いこととか、変なこともたくさんあるみたいだけど、俺はあの世界好きだしさ。別にバグが残ったままでもいいよ。移住してから、またバグ探ししてもいいしさ」
「……わかりました。もし事態の収拾がつかない場合は、移住の手続きを申請させていただきます」
「ノルン様、元気出して」
「……」
うつむくノルンちゃんに小首を傾げながらも、俺は鍵を開けて扉を開いた。
「ダメです」
「うわっ!?」
扉を開けると、真ん前にウェーブのかかった長い金髪の女性が仁王立ちしていた。
ニコニコと笑顔なのだが、何やら怒気が含まれているような雰囲気が感じられる。
ゆったりとした薄水色のロングスカートと白いブラウス姿の、優し気な顔立ちをしたかなりの美人さんだ。
「そそそ、ソフィア様!?」
「「「えっ!?」」」
素っ頓狂な声を上げるノルンちゃんに、皆がぎょっとした顔を向ける。
「ソフィア様って、救済の女神様の?」
俺が女性を見ると、彼女はぺこりと会釈をした。
「はい。ソフィアと申します。この度は、派遣した女神が非常に失礼な対応をしてしまい、誠に申し訳ありません」
ソフィア様が顔を上げ、ノルンちゃんを見る。
「ノルンさん」
「は、はい!」
チキちゃんに抱っこされたまま、ノルンちゃんが背筋を伸ばす。
「理想郷に不具合が生じたことや、こちらの世界に理想郷の人々が飛び出してしまったことは仕方がありません。あなたに悪気があったわけではないですし、多少の落ち度はあれど、あなたは常に全力でコウジさんの幸せのために努力していました。しかし」
ソフィア様の表情から笑顔が消える。
なんだか、雰囲気がものすごく怖い。
「想定外の事態になってしまったとはいえ、不完全な理想郷をそのままに彼の移住に同意するとは何事ですか。そのせいで、移住後の彼に不幸が降りかかったらどうするつもりなのです」
「う……も、申し訳ございません」
しゅん、とノルンちゃんがうなだれる。
「すべてに優先すべきなのは、コウジさんの幸せです。もし、あなたひとりの手に負えない事態が発生したら、他の女神がフォローに回ります。それを忘れないでください」
「は、はい!」
ノルンちゃんが顔を上げて返事をする。
少し驚いているような表情だ。
「あ、あの、私がコウジさんの担当から外れる、ということはないのでしょうか?」
「ありませんよ」
ノルンちゃんの問いに、ソフィア様が笑顔に戻って即答する。
「コウジさんは、あなたでなければ嫌だと、はっきり言っていましたからね。彼の女神は、ノルンさん以外にあり得ません。責任を持って、職務を遂行してください」
「ソフィア様……! はい! 精一杯頑張ります!」
「コウジさん」
ソフィア様が俺に顔を向ける。
「勝手にお邪魔してしまっていて申し訳ありませんでした。後のことは心配いりませんので、安心してくださいね」
「え? あ、はい」
よく分からないながらも頷く俺に、ソフィア様がにこっと微笑む。
「お騒がせして、申し訳ございませんでした。それでは、失礼いたします」
ソフィア様が会釈する。
その瞬間、彼女の体が光に包まれ、あっという間にその姿が掻き消えた。




