5話:巨大クジラ
数秒、もしくは数十秒、俺は暴風の中にいた。
浮遊した身体はもみくちゃにされ、息を吸うどころか指一本動かすこともできない。
これは死ぬ、と思った瞬間、浮遊感が消えて地面に叩きつけられた。
「げほっ! げほっ!」
痛みに悶えながら、何とか息を吸い込む。
息を整えて身を起こし、辺りを見渡す。
だが、周囲には灯り一つなく、真っ暗で何も見えない。
「いてて……よかった、骨折とかはしてないか。何だかえらく柔らかいな、ここ」
座り込んでいる地面に手を当てる。
じとっと湿り気のある感触とともに、ぐにゃりとした弾力が伝わってきた。
「うへ、気色悪っ!」
じめじめとした地面に怖気を感じ、俺は慌てて身を起こした。
ぐしゅり、と尻の下から湿った音が響く。
まるで湿ったコケの上にでも座っているようだ。
「そうか、俺はクジラに食われたのか。というと、ここはクジラの腹の中か?」
そう言いながら、再び周囲を見渡す。
当然ながら、真っ暗で何も見えない。
「ううむ、これはまいったな。何にも見えないんじゃ、楽しみようがないんだけどな」
ノルンちゃんが言っていた『わくわくとドキドキ』というフレーズを思い起こす。
空飛ぶクジラに飲み込まれる。
まさにおとぎ話の世界だ。
おそらくこれも演出の一つなのだろうと、一人納得する。
「灯りが欲しいなぁ。魔法はほどほど、とかノルンちゃんは言ってたけど、俺も魔法が使えたりするのかな」
そう呟いた瞬間、俺の胸元が眩く光り輝いた。
その光は俺の胸の中から透けて出て、すうっと目の前数十センチの位置に浮かび上がった。
ピンポン玉と同じくらいのサイズの、光の玉だ。
「おお、できた! これが魔法か!」
目の前に浮かぶ光の玉によって、周囲が真昼のように明るく照らされた。
初めて使った魔法(?)に思わずテンションが上がり、「すげえ!」を連呼してしまう。
特に呪文のようなものを唱えた覚えはないのだが、できたのだからよしとしよう。
「いくつも出せたりするのかな。ほら、もっと出ろ!」
えいや、と念じながら、手を正面にかざしてみる。
だが、何も出ない。
「あれ、おかしいな。さっきはどうやったんだっけ……ていうかこの光、近すぎてかなり邪魔だな」
明るいのは結構なのだが、胸の前約30センチの位置で浮遊しているのは邪魔すぎる。
少し離れろ、と念じてみる。
光は動かない。
物理的に退けてみようと、手を伸ばす。
だが、手は光に触れることはできず、宙を掻くばかりだ。
立ち上がってみる。
光もそれに合わせて、立った分だけ上昇した。
くるっと振り返ってみる。
同じように、光も俺の正面に素早く移動した。
「うーん……これはあれか、一度に1つしか出せなくて、俺基準で出した位置に勝手に固定されて動かせないタイプのやつか。そういうタイプの魔法、漫画で見た気がするぞ」
そうに違いない、と勝手に納得し、とりあえず放置することにした。
この光が制限時間か何かで消滅したら、今度は出す場所に注意して魔法(?)を使ってみればいい。
気を取り直して立ち上がり、周囲を見渡す。
赤紫色の気味の悪い洞窟の一本道に、俺はいるようだ。
空気は生暖かく、じっとりしていて酷く気持ち悪い。
「とりあえず進んでみるか。どっちがクジラの頭なのかお尻なのかも分からないけども」
ここにいても仕方がないと、俺は一歩を踏み出した。
「うーん、まるで迷路だな。どんどん分かれ道が増えてる気がするし」
あれから数分歩き続けているのだが、いっこうに出口は見つからない。
途中、何度か分かれ道に遭遇した。
そのたびに広いほうの道を選択して進んでいるのだが、果たしてここが正しい道なのかどうなのか。
出口が無い迷路なんてノルンちゃんは作らないだろうし、きっとどこかに脱出口があるはすだ。
「この道はもしかしたらハズレなのかな……ん?」
いったん戻ってみるか、と考えだした時。
前方に、薄っすらと人影が見えた。
「おお、人だ! おーい!」
気味の悪い洞窟を一人で歩くことに辟易していた俺は、大喜びで手を振りながら駆け出した。
そして数秒走ったところで、ぎょっとして足を止めた。
「に、人魚?」
上半身は人間、下半身は魚の尾の、『人魚』がそこに座り込んでいた。
1つ結びにした青色の長い髪に片掛けのローブみたいな服を着た、女性の人魚だ。
「誰……ですか?」
俺の声に反応し、うなだれていた人魚がこちらに顔を向ける。
整った顔立ちの、かなりの美人さんだ。
ほっぺたから耳部分にかけて、美しく透き通った青色のエラのようなものが付いている。
「あ、えっと……に、人間、です」
「人間のかた、ですか。いったいどこで襲われたのですか?」
「襲われた? ……ああ、あの巨大クジラのことですか」
言葉も通じるし、敵意もなさそうだ。
てくてくと歩き、その人魚へと近づく。
光の玉に周囲が照らされて、その場所が巨大ホールのような空間であることに気が付いた。
座り込んでいる人魚さんの後方には、おなじようにぐったりとうなだれていたり横たわっている人魚がたくさんいた。
300~400人はいるように見える。
俺の声に反応し、近場にいた数十人の人魚が一斉にこちらに振り向いた。
女性の人魚がやや多いようだが、男性の人魚もたくさんいた。
子供と若者しかおらず、しかも全員が美女とイケメンだ。
「えっと、無人の港町を偶然見つけて、そこをさまよっていたんです。そしたら急に空飛ぶクジラが現れて、空に吸い上げられたと思ったら食べられてしまって」
他の世界から来たと説明するとめんどくさいことになりそうだったので、たまたま通りかかった体で話を進めることにした。
「そうでしたか……ということは、まだグリードテラスはルールンの街の上にいるんですね」
「グリードテラス?」
「はい。あの怪物、空飛ぶ巨大クジラの名前です。ご存じありませんか?」
どうやら、俺を飲み込んだ怪物は、この世界では一般的に認知されている存在らしい。
空飛ぶ巨大クジラ、と彼女が言っていることから、海で泳ぐ普通のクジラも存在するのだろう。
「ええ、この辺にくるのは初めてなもので……あの、失礼ですが、もしかして目が?」
話し始めてから気になっていたのだが、彼女の視線が俺から微妙にずれていた。
近くにいる人魚たちに目を向けてみる。
何人かはこちらを見ているようだが、よくよく見てみると視線が皆あべこべの方向に向いていた。
目を閉じている者も何人かおり、皆目が見えていないようだ。
「はい、まったく見えなくなってしまって……おそらく、ここにいるうちにグリードテラスに生気を吸われたせいだと思います」
「なんだって」
慌てて、自分の手をじっと見てみる。
うん、良く見える。
しかし、俺も遅かれ早かれ彼女たちのようになってしまうのだろうか。
「あ、まだ飲み込まれたばかりでしたら、たぶん大丈夫ですよ。私たちの目が見えなくなったのは、飲み込まれてから10日くらい経ってからでしたし」
「そ、そうですか」
とりあえずはまだ大丈夫だと分かり、ほっと息をつく。
だがそこで、あれ? とおかしなことに気が付いた。
「あの、人魚さんたちが飲み込まれてから、何日くらい経っているんですか?」
彼女たちが10日以上もここにいるとしたら、その間どうやって生き延びていたのだろうか。
人間、10日間くらいであれば水だけでも生きていられると聞いたことがある。
しかしこんなところでは、水も食べ物も手に入らないように思える。
人魚という種族自体が、人間よりもはるかに生命力が強いのかもしれないが。
「たぶんですけど、今日で飲み込まれて12日目だと思います」
「12日ですか。聞いておいてなんですけど、こんな真っ暗な場所で、よく日数が分かりますね」
「感覚的にですけど、1日に1回、グリードテラスが海水と魚を吸い込んでくるので、それを数えていたんです。私たちが吸い込まれてから毎日一度、同じ間隔で吸い込まれてきたので」
それを聞き、俺は奥へと目を向けた。
所々に、魚の骨やらホタテのような貝殻がまとめて捨てられている場所があった。
彼女たちはこれらを食べて、飢えをしのいでいたのだろう。
よく見てみると、しおしおになって干からびている魚も落ちていた。
このようにじめじめした場所で、腐らずに干からびるとはどういうことだろうか。
グリードテラスに生気を吸われてそうなったのだとしたら、さっさと逃げ出さないとまずいことになる。
「そうですか……ううむ、困ったな。皆さんがここにいるってことは、出口は見つからなかったってことですよね?」
「ええ、皆でこの奥にも行ってみたのですが、この先にはどこかに続いている大穴が空いていて、とても進めなくて……何だかすっぱい臭いもしましたし」
「大穴ですか。てことは、この奥がクジラの胃袋だったりするんですかね」
「かもしれません」
その大穴が胃袋だとしたら、今いるこの場所は食道と胃袋の中間地点だろうか。
すっぱい臭いの素が胃酸だとしたら、落ちた瞬間に溶かされてしまうかもしれない。
「それなら、元来た方向が口ってことになるのか。俺、ちょっと様子を見てきますね」
「あ、待ってください!」
踵を返そうとした俺を、その人魚さんが慌てて呼び留めた。
「そちらに引き返そうとすると、奥から変な虫みたいな生き物が湧いて出てくるんです。襲われるかもしれませんし、危ないですよ」
「虫ですか?」
そう言われても、ここにじっとしているわけにもいかない。
いずれ生気を吸われて視力を無くすと聞き、俺は若干焦っていた。
クジラの体内のグロさ加減と人魚さんたちの衰弱具合からいって、どうやらこれはノルンちゃんの用意したイベントではなさそうだ。
何とか脱出しなければ、ここで衰弱死してしまう。
クジラの口から出ることができて、うまい具合に海上に飛び出せたとしても、落下の衝撃で死なずに済むのかは甚だ疑問だが。
「まあ、虫くらいなら何とか踏みつぶして進んでみますよ。ダメそうなら、すぐに逃げ戻るので」
「ふ、踏みつぶして、ですか? さすがにアレは無理な気が……」
「ちょっと見てくるだけですから。それじゃ、行ってきます」
「は、はい。お気をつけて」
人魚さんの声を背に、元来た道へと引き返す。
振り返って気付いたのだが、この巨大ホールへとつながる道は、俺が通ってきた道だけではないようだ。
同じような横穴が、数十個あるように見える。
「目印でもつけておかないとだな。見失ったら最後だぞ」
そういえば人魚さんの名前を聞くのを忘れたな、などと考えながら、通ってきた穴に再び入る。
穴に入って数メートル行ったところで、奥の方から何かが近寄ってくる音が響いてきた。
「人魚さんの言ってた虫の足音かな。正直なところ虫は苦手だけど、命には代えられ……ぎゃあああ!?」
ギチギチと音を立てて現れたそれ。
体長50センチはあろうかという、数十本の足を持った巨大カマドウマの大群を目にした瞬間、俺は絶叫して気を失った。