109話:キングワサビ農園
「コウジさん、朝ですよ」
「んー……」
そっと頭を撫でられる感触とともに、柔らかな声が響く。
俺が目を開けると、ベッドに腰掛けたノルンちゃんが微笑んでいた。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
「おはよ。夢も見ないくらい、ぐっすりだったよ」
身を起こし、ぐっと背伸びをする。
俺は裸だけど、ノルンちゃんはすでに服を着ていた。
昨夜は例のごとくラブラブしてしまい、これでもかと搾り取られてしまった。
クタクタになって眠りについたのだけど、理想郷移住の特典として得られた自然治癒能力のおかげで、体調はすこぶるいい。
チキちゃんはネイリーさんと別室に泊まっている。
前回このホテルに宿泊した時は自分が俺を独占してしまったから、とノルンちゃんに譲ったのだ。
「ん、いい香り。コーヒーか」
「はい! どうぞ、飲んでくださいませ」
ノルンちゃんが湯気の立ち上るコーヒーカップを差し出してくれる。
「ありがと。これ、もしかしてノルンちゃんの出したコーヒーの木?」
「いえ、天空島産のコーヒーです。コーヒーの木のほうがよかったでしょうか?」
「ううん。これで大丈夫。コーヒーの木だと、ノルンちゃんの体を切り取ることになるし」
カップを受け取り、一口すする。
テーブルに目を向けると、コーヒーミルが置いてあった。
木製の土台に金属の受け台が乗っていて、その上にハンドルが付いている。
「あれ? コーヒーミルなんて買ってたっけ?」
「いひひ。実は、昨夜のうちにベラドンナさんにお願いして用意してもらったんです。街で販売されている器具だそうですよ」
「へえ、こんな立派なのを作れるようになってたんだ」
「ベルゼルさんが日本で見たものをもとに設計して、職人さんに作ってもらったそうです」
「なるほど。そういえば、ショッピングモールで杖を使って映像を記録してたね」
感心しながら、コーヒーを飲む。
すると、ノルンちゃんがベッドに上がり、俺に擦り寄って来た。
「えへへ。いい匂いなのです」
「ノルンちゃんも飲む?」
「いただきます!」
1つのカップで、代わりばんこにコーヒーを少しずつ飲む。
ノルンちゃんはニコニコしながら、「幸せです」と子猫のように俺に引っ付いていた。
「はあ、もうすぐお泊りが終わってしまうのですよ。名残惜しいです」
「別に、もう何泊かしていってもいいんだよ? 急ぐ旅でもないわけだしさ」
「あっ、いえいえ! 早く理想郷を完成させないといけないので、大丈夫なのです!」
ノルンちゃんがコーヒーをぐいっと飲み干し、ベッドから降りる。
「のんびり過ごすのは、完成した理想郷でいくらでもできます。それに、あまり怠けているとソフィア様に叱られてしまうので」
「あはは。ソフィア様なら、それくらい大目に見てくれそうだけどね」
「それでも、ちゃんと職務は全うしないとダメなのですよ。女神としての責務なのです」
むん、とノルンちゃんが胸の前で両手を握って気合を入れる。
「ささ、コウジさん、お着替えしてくださいませ。そろそろ朝食の時間なのです」
「うん」
そうして俺は着替えを済ませ、ノルンちゃんに引っ付かれながら部屋を出た。
俺たちが食堂に入ると、すでにチキちゃんやベラドンナさんたちが席に着いていた。
ホテルには他にも宿泊客がいて、それぞれ別のテーブルで食事をしている。
皆、和やかで楽しそうだ。
「よう、おはようさん」
「思う存分いちゃいちゃしたのかな?」
笑顔で片手を挙げるカルバンさんと、にやけ顔で茶化してくるネイリーさん。
「え、ええと、まあ、ご想像にお任せします」
「一晩中可愛がってもらいました……」
くねくねと身をよじるノルンちゃんに、ネイリーさんが「ひゅーひゅー」とはやし立てる。
「ふたりとも、早く座って。お腹空いた」
チキちゃんがフォークとナイフを両手に持ち、コンコン、とテーブルを叩く。
表情には出ていないが、妬いているのだろうか。
「ごめんね、待たせちゃって」
「わわっ、朝から豪華ですね!」
ノルンちゃんが席に着き、並べられた料理に目を輝かせる。
今朝のメニューは、スクランブルエッグ、ハムステーキ、じゃがいもとベーコンのチーズ焼き、トマトとレタスのサラダ、フレンチトースト、カットメロンだ。
牛乳、オレンジジュース、水のピッチャーも置かれていて、かなりご機嫌な朝食だ。
いただきます、と皆で食べ始める。
「食ったらすぐに出発だぞ。お前ら、しっかり元気を補充しとけよ!」
カルバンさんがガツガツと料理を頬張る。
「あの、本当に今日出発なさるのですか?」
少し悲しそうな顔で言うベラドンナさんに、俺はすぐに頷いた。
「はい。早くバグ取りをしたいっていうか、この世界のいろいろな場所を早く見たくてうずうずしちゃって」
「うう、そうですか……」
「ベラちゃん、そんな顔しないで。気持ちよく送り出してあげないとだよ」
エステルさんが苦笑する。
「そうだぞ。それに、あまり長居させると名残惜しくなってしまう。先日みたいに、また大泣きする羽目に――」
「わー!? それ言っちゃダメですよっ!」
ベルゼルさんの言葉を遮り、ベラドンナさんが顔を真っ赤にして叫んだ。
やはり、あの時ベラドンナさんは泣いていたようだ。
そこまで悲しんでくれていたなんて、ちょっと嬉しい。
「はは。まあ、再会のベルでいつでも話せますし。バグ取りが終わったら、ちゃんと戻ってきますから」
「最後のお別れじゃないから。大丈夫」
もぐもぐ、とチキちゃんがベーコンを食べながら微笑む。
「はい……うう、そうですよね。また会えますもんね」
ベラドンナさんが一つ息を吐き、ぱっと笑顔になる。
「バグ取りの成功、心よりお祈りしております。早くすべてのバグを修復して、またカゾにいらしてください。その時までに、もっと素敵な街にしておきますから!」
「おう、その意気だ。俺たちも頑張るからよ、あんたも頑張るんだぞ!」
「あはは、ベラドンナさんの任期が終わって追いかけて来られる前に、バグ取りを終わらせないとですね」
「もぐもぐもぐ、ふぁたしもばんばるべずよ!」
「ノルン様、食べながらしゃべっちゃダメ」
そうして、俺たちは楽しく朝食を取ったのだった。
食事を終えた俺たちは、古城ホテルの前でコンテナの前にいた。
行った先で食べられるようにと、大容量のお弁当を持たせてもらっている。
今日の見送りはベルゼルさんとエステルさんだけだ。
例のごとく、ベラドンナさんはグランドホークの操縦士としてキングワサビ農園まで送ってくれることになっている。
「では、元気でな。まあ、ちょくちょく連絡はすると思うが」
「皆さん、頑張ってくださいね! またお会いしましょう!」
「おふたりも、お元気で! またお会いできる日を楽しみにしています!」
「街の運営、頑張ってくださいね! 困ったことがあったら、いつでも連絡をくださいませ!」
俺とノルンちゃんに続き、チキちゃんたちも別れの言葉を告げてコンテナに乗り込んだ。
ベラドンナさんが翼を羽ばたかせて、グランドホークに飛び乗る。
「それでは、出発します!」
ギュイイ、とグランドホークの力強い鳴き声とともに、コンテナが浮かび上がった。
手を振るベルゼルさんとエステルさんの姿が、あっという間に小さくなっていく。
「ひゃああ。何度乗っても、グランドホークは楽しいねぇ」
ネイリーさんが楽しそうに、コンテナの柵越しに外を眺める。
「キングワサビ農園、行ったことないんだよね。ワサビを作ってるところなんでしょ?」
「おう。でっかいワサビがわんさか生えてるんだ。あと、野沢菜の漬物が絶品なんだぜ」
ネイリーさんにカルバンさんが答える。
「野沢菜ですか。日本でも漬物が食べられてますよ」
「おっ、そうなのか。なら、次に向こうに転移できたら、食わせてくれよ」
「ええ、もちろん」
「漬物かぁ。私、苦手なんだよなぁ」
ネイリーさんが渋い顔になる。
「ネイリーさんは野菜が苦手ですもんね。でも、食べてみればきっと気に入りますよ」
「だから、私は肉食なんだって。野菜はほんとに苦手なんだよ」
「ネイリーさん、お肉ばかりだと栄養が偏りますよ! お肌にもよくないのですよ?」
ノルンちゃんが、「めっ!」とネイリーさんに注意する。
「そんなこと言っても、苦手なものは苦手なんだよ……」
「なら、まずはヤシの新芽あたりから試してみるのですよ。さっぱりしていて美味しいという話ですので」
ノルンちゃんが左腕を変異させ、ヤシの幹を作り出す。
「この中にある芯の部分が新芽なのです。今、食べてみますか?」
「えっ、腕を!?」
「いひひ、冗談なのです」
ぎょっとするネイリーさんに、ノルンちゃんがケタケタと笑う。
そんなこんなで、わいわいやりながら空の旅を楽しむ。
数十分が経った頃、グランドホークが降下し始めた。
「皆さん、目的地の上空に到達しました! あそこが、キングワサビ農園です!」
ベラドンナさんの声とともに、コンテナがぐっと傾く。
なだらかな傾斜の土地に作られた、広大な農村地帯がそこにあった。
ぽつぽつと点在する木造家屋の間には大きな浅い川が無数に流れていて、その中に緑の葉が無数に広がっていた。
農園中が緑に覆われ、澄んだ水の流れる川には水車も設置されている。
川の中に入って作業をしている人の姿が点々と見られ、実にのどかな風景だ。
「おー! すごい農園だ!」
「綺麗なところだね!」
「すごく広い農園ですね!」
俺に続き、ネイリーさんとノルンちゃんも歓声を上げる。
「だろ? ここのワサビは、世界中に出荷されてるんだぜ。川の中に生えてるのは、全部ワサビなんだ」
カルバンさんが得意げに言う。
「大きいね」
「ああ。こんなでかい農園、そうそうないだろうな」
「農園じゃなくて、ワサビのこと」
チキちゃんがカルバンさんに、農園の一角を指し示す。
「……なんだありゃあ?」
指された先を見たカルバンさんが、怪訝な声を漏らす。
そこには、川の水面から、でん、と突き出るようにして、巨大な植物がいくつも生えていた。