1話:かしこまらなくていいですよ!
午前1時。
眠気覚ましのミントガムを噛みながら、俺は住処のボロアパートへと向けて車を走らせていた。
帰宅がこんな時間になるのはいつものことで、日付が変わってから会社を出るのは今月で5度目だ。
今日は6月5日の金曜日。
5日連続での深夜退社だ。
さすがにもう限界が近い。
「疲れた。疲れた。疲れた。疲れた」
呪文のように同じ言葉を繰り返しながら、アパートの駐車場へと入る。
ギアをパーキングに入れてエンジンを切り、ハンドルに突っ伏した。
「明日までに終わらせとけ、とか言うなら、定時直前にそんな仕事寄越すんじゃねえよ。ていうか、何でお前はそのまま帰ってるんだよ。死ね。謎の奇病に罹って苦しみぬいて死ね」
日々の苦痛の元凶の不幸を願い、ブツブツと呪詛の言葉を吐き出す。
社会人になってから、今年で3年目。
年を追うごとに、日々の帰宅時間が遅くなっているような気がする。
それもこれも、すべてはあのクソ上司のせいだ。
部下に仕事を押し付けて、自分は毎日定時退社。
社長の甥っ子だか何だか知らないが、まるで王様のように部下を顎で使いやがる。
社長も社長で、そんな甥っ子と毎日楽しそうに「今夜はどこで飲むよ?」と昼間っから堂々と話しているのだから、まったくもって手に負えない。
そんなに嫌なら辞めればいいじゃないか、と思うだろう。
だが、俺は社会人になってからまだ3年目。
どんなにつらくても最低丸3年は続けろという、呪いの言葉に怯えて踏ん切りがつかないのだ。
3年経ったら辞める、という、実行に移せるかも怪しい決意を慰めに、日々奴隷のような生活を続けている。
「……風呂入って寝よう」
深くため息をつき、車を出て部屋へと向かう。
部屋の前の郵便受けに手を突っ込み、中身を漁る。
「ん、何だこれ」
ダイレクトメールやらピンクなチラシやらに混じって、平たい小袋があった。
片側に、何かの植物のイラストと、かわいらしい女の子のイラストが描かれている。
「『女神の種』……って、なんだこれ。栄養剤か何かの試供品か?」
小首を傾げながら、鍵を開けて部屋へと入る。
8畳一間の、板張りのワンルーム。ここが俺の城だ。
掃除だけはきちんとしているため、清潔感はそれなりにある。
背広の上着を脱ぎながら、手にしていたそれらをちゃぶ台の上に放り投げた。
袋がひっくり返り、裏面が目に入る。
説明が数行、箇条書きになっているようだ。
よっこらしょ、としゃがみ込み、読んでみる。
・コップに半分くらい、土を入れます。
・土の真ん中を人差し指の第二関節まで突き、穴をあけます。
・種を入れ、土をかぶせます。
・土が湿る程度に、水をかけます。
・蔓が生え、女神が実ります。
「なんじゃこりゃ」
袋を手に取り、ひっくり返して表面をもう一度見てみる。
緑髪ロングの女の子が、にっこりと微笑んでいる。とてもかわいらしい。
「蔓植物は分かるけど、女神が実るって何だろか。女神っていう名前の果物か何かかね」
袋をちゃぶ台に置き、風呂へと向かう。
興味をそそるが、今は体力が限界だ。
明日やればいいかと、今日はもう休むことにした。
ざっとシャワーを浴び、倒れ込むようにしてベッドに滑り込んだ。
翌朝。
昼近くになって起床した俺は、菓子パンを食べながら例の小袋をもう一度眺めていた。
「コップに土、か」
食器棚から適当な湯飲みを1つ取り、外へ出た。
アパートの敷地を出て、道路を一本挟んだところにある小さな公園に入る。
「使い終わったら戻せばいいよな」
自分に言い訳をしながら、すみっこにしゃがみ込んでコップ一杯分の土を拝借した。
部屋に戻り、ちゃぶ台の上にそれを置く。
『女神の種』の小袋を開封し、中を覗く。
小豆大の大きさの緑色の種が1つ、入っていた。
「女神の種、っていうくらいだから、本当に女神様が実ったりして」
何をやってるんだ俺は、という思考を無視し、説明書きどおりに種を植える。
洗面台に持っていき、蛇口をひねって水を少し入れた。
「さて、発芽までどれくらいかかるのかな。何も書いてなかったけど」
コップを手に、部屋へと戻る。
そして、ちゃぶ台にコップを置こうとした時。
「……ん?」
土の表面が、もこっと小さく盛り上がった。
ぎょっとして、盛り上がった土をまじまじと見つめる。
緑色の蔓が、土を押しのけてするすると延びてきた。
「えっ!? えっ!? なにこれ!?」
慌ててコップをちゃぶ台に置き、一歩後ずさる。
蔓は数秒で20センチほどの高さにまで成長し、その先端に7センチほどの丸いものが実った。
恐る恐る顔を近づけ、その物体を見つめる。
それは薄緑色をした半透明の球体で、中に何か入っているようだ。
「……人間、か?」
ミニチュアサイズの人間が、両手で膝を抱えたような格好で丸まっているように見える。
唖然としながら見ていると、ぷるぷる、と球体が揺れ出した。
ぷちん、と音を立てて蔓の先から外れ、重力に従ってちゃぶ台の上へと落下した。
「へぶっ!」
着地と同時にそんな声が響き、球体の薄膜が爆ぜた。
そこには、薄緑色のひらひらとした服を纏った長い緑髪の女の子。
顔面をしたたかにぶつけたらしい彼女は、何とか起き上がると呆然と見つめる俺を見てにっこりと微笑んだ。
「はじめまして! 私があなたの女神なのですよ!」
「め、女神様、鼻血出てますよ」
「あ! これは失礼しました!」
女神と名乗った体長15センチくらいの女の子が、手の甲で鼻を拭う。
腰の後ろに大きなリボンのついた、ひらひらとした薄緑色の服。
艶やかで美しい、緑色の長い髪。
服から延びる、すらっとした白い手足。
ぐいっと拭われて、頬のほうへと延びた真っ赤な鼻血。
鼻血は止まらない。
「うえぇ……あ、あの、何か拭くものをいただけませんか?」
「あ、はい」
傍にあったティッシュを1枚取り、彼女に手渡す。
彼女は自分より大きなそれを受け取り、ごしごしと顔を拭った。
たらりと、再び鼻血が垂れ出す。
「鼻血が止まらないですううう!」
「と、とりあえず、それを少しちぎって鼻に詰めておいたらどうですか?」
「そうします……」
彼女はティッシュをちぎって鼻に詰め、はふう、とため息をついている。
「あー、えっと、女神様?」
「あ、失礼しました! あらためて自己紹介をば!」
鼻に詰めものをした女の子が俺に向き直り、にっこりと微笑む。
「私は『栽培の女神』のノルンと申します! あなたを救済するためにやってきたのです! よろしくお願いするのですよ!」
「あ、はい。俺は水戸幸次と申します。よろしくお願いします」
つられて自己紹介をした後で、俺は、はて、と首を傾げた。
「あの、ノルン様」
「かしこまらなくていいですよ! ちゃん付けで大丈夫なのです!」
「あ、はい。ノ、ノルンちゃん?」
「はい! 何ですか?」
にこにこと微笑んだまま、元気に返事をするノルンちゃん。
そんな彼女に、俺はふと浮かんだ疑問を口にした。
「ノルンって名前、確か北欧神話の運命の女神の名前だったような気がするんですが」
「おー! コウジさん、なかなか物知りですね! この名前は先人の女神様からもらったものなのですよ。あと、この名前だからこの管轄、みたいな決まりはないのです!」
「そ、そうですか。すみません」
「かしこまらなくていいですよ! もっとフランクにいきましょう!」
とびきりの笑顔を俺に向けて、彼女が言う。
俺は愛想笑いを浮かべながら、後ろ手で自分の太ももを思い切りつねった。
めちゃくちゃ痛い。
どうやらこれは、夢ではないらしい。
ということは、この小人は本当に神様なのだろうか。
だとしたら、あまりぞんざいな態度を取るのはよろしくない気がする。
「あの、それならノルン……ちゃんも、俺に敬語は使わないでもらえると」
「私はいつもこんな感じなのですよ! 気にしないでくださいませ!」
「わ、分かりました」
「かしこまらなくていいですよ!」
「は……うん」
「そうそう、そんな感じがいいですね!」
何とも元気で、ノリが軽い女神様だ。
気を遣うな、と言ってくれているのだから、それに合わせることとしよう。
「えっと、俺を救済してくれるってさっき言ってたけど、どういうことかさっぱりなんだ。説明してもらえると嬉しいんだけど」
敬語にならないように気を付けながら、彼女に話しかける。
「はい! 私たちは救済担当の女神なのですよ! カルマが一定以上で、大変な不幸が訪れようとしている人を救うのが私たち女神なのです!」
「え、カルマって存在するの!?」
驚きの声を上げる俺に、彼女は元気よく頷く。
「しますよー! しかも、生まれ変わってもカルマは強制的に引継ぎ続けるのですよ! いつでもどこでも、神様は見てますよ!」
「そ、そうなんだ。ええと、俺はカルマが規定値以上で、大変な不幸に見舞われようとしているってことなのかな?」
「はい! 『あ、こりゃやばい!』って思って、急いでやってきたですよ。サボらず四六時中見ていてよかったのです!」
「四六時中って……ずっと俺のことをノルンちゃんは見てたってこと?」
「そうなのです! 具体的には、コウジさんは高校2年生の時にカルマが規定値を突破したのです。その時から、私がコウジさんの担当となって、それからは片時も目を離さず、ずっと見守っていたですよ」
高校2年、と言われて、俺は当時のことを思い返した。
小さい頃から病弱だった俺は、体質改善のために中学生の頃から毎朝近所をジョギングしていた。
そのついでに、近所の氏神様に必ず参拝し、境内のゴミを拾ったり掃き掃除することを日課としていた。
それは大学卒業まで雨の日も雪の日も欠かさず毎日行っていたのだが、まさかそれでカルマが増加していたとでもいうのだろうか。
「塵も積もれば、ってやつですね! 境内のお掃除という毎日の小さな善行が、カルマを押し上げたのですよ。もちろん、前世の時点でかなり高いカルマを保持していたからこそ、今回の救済につながったわけですが!」
「あ、やっぱり神社の掃除のおかげなんですか」
「かしこまらなくていいですよ!」
「す、すみま……ごめん」
「いえいえ!」
少し真面目な話になったせいか、つい敬語が出てしまった。
間髪入れずに「かしこまらなくていいですよ!」と突っ込んでくるノルンちゃんが、ちょっと怖い。
「それで、担当っていうのは?」
「カルマが規定値以上もしくは規定値以下になると、私たちみたいなのが1人あてがわれるのですよ。コウジさんが大型の不幸に見舞われないように、もしもの時は緊急措置として救済をすることが私の役目なのです」
「はあ。だから、四六時中見守っていたと」
「はい! 大型の不幸……過労と睡眠不足が原因で、コンビニに車ごとダイナミック入店する未来に半日前につながったので、急いで救済にやってまいりました。救済完了まで、傍にいさせてもらいますね! よろしくお願いするのです!」
なかなかにすごい話だ。
コンビニにダイナミック入店などした日には、賠償金やらなにやらで大変なことになっていただろう。
下手すれば人身事故につながっていた可能性もある。
「なるほどねぇ。それで、その救済っていうのは何をしてもらえるの? 仕事とか上司を何とかしてくれるとか? それとも、宝くじ当てたりしてくれるのかな?」
「あ、仕事とか、そっち方面は担当外なので無理です。番号いじって宝くじ当てるのとかも無理なのですよ。株やFXも、もちろんダメです」
「えー……」
「とりあえず、今の会社には見切りをつけてはいかがですか?」
不満げな声を上げる俺に、ノルンちゃんが何とも現実的な提案をしてくる。
「見切りって言っても、今辞めるのはちょっと」
「見切りをつけるなら早いほうがいいですよ。『丸3年はしがみ付け』って大学生時代に教務課のおじさんに言われたことを気にしているのだと思うのですが、頑張った結果潰れちゃったら何の意味もないのですよ」
懸念していることをズバリと言い当てられ、俺はたじろいだ。
どうやら、本当に俺のことを何年も見守り続けていたようだ。
「まあ、私が来たからには、仕事やら上司やらの悩みなんて些細なことなのです! そんなことはどうでもいいっていうくらい、幸せにして差し上げますので!」
ノルンちゃんはそう言うと、胸元から小さな布袋を取り出した。
布袋を取り出す際、ちらっと覗いた豊満なそれに、つい目がいってしまった。
「それは?」
俺が問いかけると彼女は「ふふん」と得意げに鼻を鳴らした。
腰に片手を当て、布袋をぐいっと俺に向ける。
鼻に詰めてあるティッシュは、半分ほどにまで赤く染まっていた。
「理想郷の種なのです! あなたを、あなたのための理想の世界に連れて行ってさしあげます! まずはその下準備をば!」