第一話
主人公の帰蝶は胡蝶、濃姫とも称される信長の正妻の名前ですが彼女の死は諸説ありますものの、享年七十八歳で死亡、現在京都市北区にある大徳寺総見院にある織田家の墓所、戒名養華院殿要津妙玄大姉として祭られている説を取りました。
私はご覧のとおり年寄りで五年ほど前に庭先で転んでからずっと足が満足に動きません。今年に入ってから、どういうわけかすぐに熱が出ますし、身体全体がしびれて食欲もなくなります。この様子では私の人生も、もうすぐ終わるでしょう。
これから始めるのは私の若い時の話です。聞いていただけたら幸いです。申し遅れましたが、私は俗名を帰蝶と申します。
一、
私が十四歳になった時に嫁ぎ先が決まりました。相手は父上がお決めになりました。もちろん私は相手が誰かは知りません。年が一緒だとは聞きました。母上は相手の名を聞くなり「なんでかような男のところへ我が娘をやらないけませんのや」 と嘆いたそうです。だけど父上には逆らえません。母上はともすれば嗚咽をこらえつつ私の婚礼支度をしてくれました。
私は、武家の女に生まれたらいつかは誰かに嫁ぎ、子をうみなさい、とだけ言い聞かせられていました。ましてや地域では名の知られた豪族の娘、ですから相応の相手だろうと母上は思っていたでしょう。母上は私の相手がどういう風評をもった男であるか知っていたのでそれを心配しておいでだったのです。母上はこうもおっしゃいました。
「帰蝶は私のかわいい娘。だけど嫁にいったらもう会えぬ、そう思うたら私はつらくてかなわぬ。しかも相手はあの名うての乱暴者。なのに我が君は善き相手じゃ、不足はないとの仰せ。あそこは当家にとっては敵地にひとしいのになんということじゃ、もしかしたら帰蝶は殺されてしまうかもしれん、なんというあわれなことじゃ」
日に一度は父上のいない所で袖に顔をあてて母が嘆くので、私は逆に慰めていました。
「父上は今は敵地であっても、私が嫁にいくことで戦が避けられるのじゃとおおせられましたよ。だから嫁ぐことはよいことではないのですか、あちらもそう思うて私を嫁に迎えてくれるのではないのですか」
母上はため息をついていました。そして眉毛にしわをよせながら、何度も私の頭を撫でます。
「そうはいうてもなあ……心配なのじゃ」
もう一人の私が映るその瞳は潤んでいました。私は不安ながらも、微笑むしかなかった。あの頃母上はまだ若かった。私は幼かった。何も知らなかった。
婚礼前夜、私は改めて父上に呼ばれました。
ああ、申し遅れましたね。私の父上は斎藤道三、嫁ぎ先は尾張の織田家でした。相手はそこの嫡男です。お名前は当時吉法師さまでした。今はもうとっくに亡くなられています、そうです信長さまです。私との婚礼直前に元服されて改名されました……はい……あの御方でございますよ。ほほほ、かように驚かれなくても……今はもう誰もいませんし、私の寿命も尽きようとしていますのね。
私は信長さまの正妻でしたし、今もそうです。私は今からでもそれを強く言いたいのです。さあ、元の話に戻しましょう。父上はこうおっしゃられました。
「婚礼は早い方がいい。一週間後じゃ。あちらもその方がよかろうと申されるし、よいな」
とうに亡くなってもなお下剋上の印象を持たれる父上ですが、私にはとてもやさしく接してくれる人でした。私は父上は大好きでした。明るくてふざけてばかりいる父上でした。
時々戦場へ行っては怪我をしたり、怪我がなかったら怖い顔をして帰ってきたりしました。でも私の顔を見ると笑顔になっていつでもひざの上にのせてくれて抱っこしてくれました。私のために赤い髪飾りを緑の色ひもで結んでくれたことさえある父上です。そうです。私は父上にとてもかわいがられていたのです。
だけど結婚を告げた父上の顔はそっけなくあっさりとしていました。私の顔を見て笑顔になることなく、険しい表情をしておいでだったのです。私はもう結婚する年齢になったのだし仕方なしと自分を納得させましたがとてもさみしく思いました。
婚礼前夜、私は再度父上に呼ばれました。いつもの居室ではなく外に通じる土間の広い方のお部屋でした。そこへ乳母のイネに連れられて入ると三十人ぐらいいた父上の部下が私に向かって一斉に土下座しました。外を見るとそこにも部下や下郎達がこちらを見ています。みんな私と顔見知りでしたが、誰も口を利かず私の顔もまともに見ず神妙な顔で土下座していました。
どの人もいつものほがらかな顔ではなくみんな怖い顔でした。誰も私にいつものように冗談を言いませんでした。みんな黙り込んで頭を下げたままでした。私が父上のそばで座るまで。
父上は彼らより一段高い敷居に座っていました。そしてすぐ横に座った私とみんなに聞こえるように叫びました。
「みなも知っておろう。これは我が娘の帰蝶だ。だがそれも今宵限り。明日からはこれは織田家の人間になる」
その言葉が終わると皆が一斉に顔をあげました。同時に皆の口が開きました。
「織田家のうつけにもったない」
「これで織田家も黙るだろう」
「帰蝶殿を人質にして」
「帰蝶殿が信秀やうつけの寝首をかいていただけたら、われらもきっと」
物騒な言葉が静かに飛び交いました。私は織田家のうつけ、という人のところに嫁ぐのだと思いました。うつけ、というのは人をバカにする言葉です。
私は織田家の吉法師さまがその相手だと聞かされているのに、下座にいる部下達が彼のことを「うつけ」 といいます、そして父上はこれを叱らないのです。悲しく思いました。そして私は今まで父上からこの家のまわりのこと、戦の様子など一切知らずに育てられたことを知りました。今にしてもどうしてだろう、戦続きの時代で戦のことを一切考えずに無心に遊べる私でいてほしかったのだろうかと思いますが……どうでしょうか。
父上は酒を飲んでました。私はもう大きくなって娘になってしまったので、幼いころのように父上のひざにのって抱っこしてもらえません。本当は泣きたかったのですがみんなが私を見ているし、私は母上の教え通りにきちんと背筋を伸ばして前をしっかりと見ていました。
そんな私を皆はしっかりと見返していました。もう誰もしゃべらずにいます。
やがて父上は私に言いました。
「帰蝶はもうよいからさがれ。今夜はゆっくり休め」
その言葉に私は頭を深く下げそして部屋を退出しました。
私は一言もしゃべりませんでした。
私の居室に戻りますと母上が婚礼時に持っていく支度物を繕っていました。母上は婚礼の日取りが決まってから繰り返して私に同じことを教えたのです。
「婚礼の日がさらに早まって明日になってしまった。ですから私も急いでそなたに教えておかねばなるまい。どのような相手であっても、たとえ敵地の男であっても女がいったん嫁いだらその男のものになってしまうのです。この斎藤家とそなたの嫁ぎ先の織田家……隣国なので近い……馬をとばして二刻もあれば会える土地、だけど当家とはいつ敵になるかもしれない間柄ゆえに、婚礼以後はお互い会いとうなってもおいそれと会えぬ。よいな。明日からはそなたは織田家の人間じゃ。
……斎藤家のことは忘れるように、今は戦国の世でみんながいつ死ぬかわからぬご時世じゃ。こうしてあちらの方から嫁取りを所望されて嫁げるのは女としてはよきこと、そして子を産めたらもっとよきこと。
その子が大きくなって天下がとれたらもっとよきこと。だけど戦になったらいつばらばらになるかわからぬ。いつ死ぬかわからぬのじゃ。あちらの吉法師さまもそなたの夫になるがいつ死ぬかわからぬ。だが当面はそなたが嫁御になることで戦は避けられる。それでみんなが助かるのじゃ。みんながしばらく生きているのじゃ。
またそなたが生きてさえいれば、いつの日か織田家に当家が攻め入られても私は怨まぬ。逆のことがおきてもそなたは我らを怨むなよ、よいな。私がそなたの母であることは変わらぬが、そなたは斎藤道三の娘であることはまた変わらぬのじゃ、みんながそういう目でみるじゃろう、ひるむなよ何を言われてもひるむな。そなたは斎藤家の息女であり、織田家の嫡男の正妻なのじゃ」
長い言葉でしたが、毎日聞かされていた言葉です。私はそれも今夜で最後かと思ってしみじみと聞いておりました。母上は繕い物の手を止めて私の顔をじっと眺めておいでです。私も母上に近づき、こんなに近い距離で過ごせるのも最後じゃと思いました。その夜は二人で抱き合って寝ました。