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その煙が目に沁みるから

作者: 夏野 千尋

未成年の喫煙を推奨するものではありません

 クラスで話題になっている少年がいた。別に素行が悪いわけではないし、逆に優秀なわけでもない。ただ、どこか周囲から浮いていた。


 名前を嘉山朔矢かやま さくや

 黒髪で、冷たげな風貌の少年だ。普通より少し長い髪は、彼を浮世離れした雰囲気にしていたが、彼女から見れば只の少年だった。


 ただ、煙草の残り香が絶えないというだけで。





 ゜゜゜゜





 夏休みが明けたばかりの、暑い日のことだった。雲が空を覆っているのにどこからか太陽の暑さが届く。朔矢は、ここに来たのは失敗だったかもしれないと思いながら、緑色の地面を上履きで踏みしめた。


「ねえ、嘉山って煙草吸ってんの?」


 屋上から校庭を眺めていた芳野佳子よしの かこは、珍しい客にそう声をかけた。


「…………吸ってるって言ったら?」


「別にどうも。というか事実吸ってるなら、とっくに鷹岡にしょっぴかれてるでしょ」


「ああ、残り香?」


「うん。あれでバレないわけがない」


 鷹岡とは、生活指導の熱血教師だ。未成年喫煙の臭いを嗅ぎ付ければ黙っていないだろう。


「残り香は、ヘビースモーカーの父親がスパスパやってるから疑われねえの。だから便利だぜ?」


 そう言って、ズボンのポケットから取り出したのは。


「うわ、ちょっと、マジで吸ってんの?」


 身を引く佳子に、面白がって朔矢は聞く。


「鷹岡に言いつけるか?」


「そんなことしたら、あたしが疑われるに決まってんじゃん。匂いがつくからあたしの前で吸うのは止めてよね」


「あー、芳野は鷹岡に目、つけられてるもんな」


 父親が働いていて母親が家事をする。そんな家庭を理想だと公言している奴は、あまり真面目でなく、かつ母子家庭の佳子に対する当りが強い。

 佳子は嫌そうに手をヒラヒラさせた。


「ねちねちねちねち本当姑みたいで嫌」


「しかも、長男嫁と次男嫁で差別するタイプだな」


「言えてる」


 手摺に肘をおいて、佳子と朔矢は灰色の曇り空を見た。どんよりと空気がぬるい。

 朔矢は煙草に火をつけ、慣れた仕種で銜えた。それを見た佳子はあきれ声を上げる。


「ちょっと、あんたいつから吸ってんのさ。慣れすぎじゃない?」


 煙草を離して、白い息を吐いてから答える。


「忘れた。中学の頃には吸ってたかもな」


「うわ、早死にするよ。ってかあたしより風下で吸え」


「へーへー分かりましたよ」


 風下に移動する朔矢は深く息を吸って煙草を堪能している。

 挙げ句の果てに、次からここで吸おうかと言い始める始末だ。佳子は自分一人の特等席が無くなることを察し、次から消臭スプレーを持ってこようと早々と諦めた。





 ゜゜゜゜





「よぅ」


「はよ」


 短い挨拶。ここは滅多に人の来ない、荒れ果てた旧校舎の屋上だ。いつの物とも分からないごみが多いのもあって、誰も来ない。それが都合良く、二人はそこにいた。


 柵に凭れ掛かって座っていた佳子は、ちらりと視線をあげ、相手が朔矢だと分かれば視線を膝の上の参考書に戻した。


「サボりか?」


「………まあね」


「……パンツ見えてんぞ」


「…そう」


 今日彼女が身に付けているのは、白いワイシャツと、黒い制服のスカートだ。膝を立てているため、見えるのは間違いない。だというのに動じない佳子に朔矢は絶句した。


「お前ほんとに女かよ」


「残念ながら」


 言いながら参考書のページを捲る。信じらんねえと呟いて、朔矢は佳子から少し離れた場所で煙草に火をつけた。

 秘密の場所を共有して今日で一ヶ月近い。聞こえるはずの秋の足音は聞こえず、相変わらず生ぬるい空気が停滞していた。


「ねえ、あんたの家って両親揃ってんの?」


 停滞した空気を突き破ったのは、佳子。

 外を向いていた朔矢は黙って煙草の火を消すと、振り返って手摺に寄りかかった。


「いるぜ?会社の社長やってるバリキャリの母親と、立派なヒモの父親がな」


「……ふうん、居るんだ」


「スルーかよ」


 普通とは離れていることを指摘されると思っていたのだろう。朔矢は唖然とした顔で呟いた。

 気にせず佳子は続ける。


「ねえ、お父さんがヘビースモーカーなんだっけ?」


「ああ…あいつはもうチェーンスモーカーだな」


「チェーン?」


「ヘビースモーカーよりやべえやつ」


 そう言いながら、朔矢は佳子の脇に立って外を見た。


「そうなんだ。……うち、父さんが煙草吸ってたんだよね」


「父さん?お前母子家庭じゃなかったか?」


 鷹岡に嫌われすぎているため、佳子が母子家庭だということは有名だ。佳子は補足する。


「離婚する前の話。だからあたしは煙草の匂いが嫌いじゃない。結構好き」


「臭いつく!って口煩せえくせになぁ…」


「何?疑ってんの?」


 ムッとした顔の佳子は、座ったまま朔矢の手から煙草の箱を奪って、一本を銜えた。


「ほら、ライター」


 急かされて瞬いた朔矢だが、すぐにしてやったりという笑顔を浮かべる。


「へーへー。てめ、前科持ちかよ」


「まあね」


 火を付けて、煙草をふかす。

 口内に煙が満たされて、息を吐くときの白い煙が胸をすいた。


「ちょっとこれ喉にこない?父さんが吸ってたのより辛いんだけど」


 美味しいけどさ、と唇を尖らせた。


「おまえ吸えねえの?」


 朔矢がからかえば、佳子は負けず嫌いを発症して煙草に口をつける。

 俺も、と言って口に煙草を銜えた朔矢は、ちょいちょいと人差し指を曲げて顔を近づけるように指示する。


「ん?」


 言われるままに佳子が顔を上げれば、朔矢は屈み込んで、銜えたままの煙草を佳子の煙草の先に押しつけた。


「息吸って」


 言われるままに息を吸った。


 朔矢の煙草に火が付けば、二人揃ってどこか緊張していた空気が緩む。


「はぁー。ねえ、さっきの何?」


 口から吐き出される白い息を見つめて、隣に立つ朔矢を見上げた。膝にある参考書のページが風で捲れそうになるのを煙草を持った指で抑える。


「シガーキス」


「え、キスかあ……。……。……これ、もしかして、…あんた、父親とやってんの?」


 半眼で見上げた佳子に、朔矢はげんなりと渋面を返した。


「気持ち悪いこと言うなよ。やってたまるか」


「ごめんごめん、冗談だって。本気で返さないでよ」


 煙草を銜えながら制服を着て参考書を捲る佳子を、朔矢は見下ろした。


(こうすると、明らかに年齢不詳だよな)


 朔矢は佳子を美人だと思う。

 大人びた風貌だが、けして制服に違和感は感じない。薄い色素の髪は、不真面目にも捉えられるのに、参考書を見つめている格好が良く似合うと思う。煙草の扱いは手慣れていて、口に加えている瞬間などはゾッとするほど色っぽかった。


 朔矢はあまり佳子のことを知らない。

 けれど、この関係は心地良いと思った。



 そんな風に佳子を見つめている内に、新校舎の方でチャイムが鳴った。

 はっと顔を上げる佳子が、己の視線に気がつかないように目を逸らせば、手元の煙草が殆ど灰になっていた。


 それを隠すように潰して、そ知らぬふりをしていれば、佳子は弁当を広げていた。


「何々?飯食うの?」


「うん。食べたら帰ろうと思って」


「帰んの?まだ午前中だぜ?」


 眉をしかめて誰のせいだ、と言う。


「煙草の匂いがついちゃったから無理。知ってる?あたしクラスじゃ大学生の彼氏がいて、貢がせてるんだって。そんな悪い噂があるあたしが煙草の匂いさせたら、即座に退学だよ」


「マジで?こんな女捨ててる奴に大学生の彼氏?ぶっ」


 投げ遣りに言った佳子に返ってきたのは、失礼なぐらいの爆笑だった。

 思わず赤くなって反論する。


「あたしだって彼氏の一人や二人……」


「居んのかよ」


「…………居ない。悪かったね」


 残念ながら、佳子は彼氏いない歴イコール年齢である。


 チャイムが鳴って、短い休み時間が終わる。弁当の最後の中身を口に入れて、後片づけをした佳子は、全身に消臭スプレーを吹き掛けて手を振った。


「じゃあね、バ嘉山。授業受けないと成績落ちるよ」


「うるせー。サボり」


 後には佳子の忍び笑いの残響と、吸った煙草の香りが残された。





 狭いアパートの家に帰った佳子は、まずシャワーを浴びる。煙草の匂いが残っていないか不安で仕方がない。


 煙草を初めて吸ったのはいつだったか。あまり良く覚えていないが、両親の目を盗んで父親の吸い殻に口をつけた記憶がある。


 それはだんだんとエスカレートして、父親の煙草を数本くすね取り、中学の頃には夜中に台所で、咳き込みながら煙草を吸った。

 バレることはなかった。


 数を重ねるごとに煙草を吸うのが上手くなった。ふかすことも出来るようになった。


 それを止めたのはいつだっただろうか。


 父親が煙草を買う量を減らしたからだったか。

 当時の中学の保険の授業で、喫煙のリスクに関する授業があったからだったかもしれない。

 それからクラスに嫌煙を声高に叫ぶ生徒が多くなって、微かな煙草の残り香さえも執拗に嫌った。

 佳子は自分の喫煙が露見するのが恐ろしくなって、煙草から遠ざかったのだった。

 そのうちに両親の離婚が決まり、私立の中高一貫校から公立高校に進学しなければならなくなり、受験勉強にそれどころではなくなった、と言うのもある。


 今日吸った煙草は、過去の物と味も違うしシチュエーションも違う。それなのに思い出すのは父親のこと。佳子は首を振ってそれらを思考から追い出した。



 私服に着替え、制服には消臭スプレーを掛けて窓際に吊るした。

 スーパーへ行って夕食を作り置き、部屋の片付けなどを一通りすれば時間が来たので家を出た。


 向かうのはバイト先のカラオケ。短期バイトも時によりいくつか入れているため、佳子のバイト代は、芳野家の大事な収入源である。

 仕事は6時から10時の週5で、時々深夜帯に仕事が入る。学生にしては忙しいに違いなかった。

 このバイトも高校一年生からやっているため、もう2年目で慣れたものだ。

 店長も先輩も良い人で、自分はいい仕事を見つけた、と思うのだった。





 蒸し暑い夏の夜道は、まだ昼間よりは歩きやすい。

 疲れきった顔で、街灯の白い明かりを見上げながら家に帰る。ドアを開けるとき、佳子は少し躊躇する。薄く開けたドアの隙間から見える狭い玄関には、脱ぎ捨てられた靴。シンクには汚れた食器。

 靴を直して部屋に上がった佳子は、鞄を椅子に置くと、眠っている母親を起こさないように、食器を片づけ始める。





 ゜゜゜゜





 それは、とある月曜日のことだった。その日は朝から散々だと、遠目で眺めていた朔矢にも分かるほど、佳子はついていなかった。


 朝、校門前に立っている鷹岡が、佳子に目をつけた。

 髪が茶髪だ染めているんだろう化粧するなスカートが短いやる気あるのかないなら帰れ。

 罵倒のオンパレードである。


 その罵倒は留まることを知らず、結果佳子は遅刻した。


 それだけで疲れきっているだろうに、今日は何故だか佳子の腕や足に痣があって、クラスメイトたちに酷く噂をされていた。


 休み時間はずっと机に突っ伏していた。酷く消耗しているようだ。


 放課後になってやっと、朔矢がいる屋上にやって来た。

 仏頂面の佳子は、酷い形相で朔矢の元に寄る。朔矢はその迫力にややたじろいだ。佳子は女性にしては背が高い方で、朔矢は低くはないが高くもないから、般若のような顔が近いのである。


「ん」


 無言で手を差し出す佳子に、訝しげな顔になった。


「………金を出せと?」


「違う!それ!」


 佳子が指差したのは、指に挟んだ煙草。朔矢は了解したが、一応尋ねた。


「はいはい。けど、臭い移ったら困るんじゃねえの?」


「今日はもういいの。学校終わったし、我慢できない!ああ、イライラする!」


 差し出された箱から煙草を一本抜き取った。それを口に銜え、手を翳して同じく差し出されたライターで、火を付ける。


「御愁傷様。災難だったな、今日は」


「どうもありがとう!ほんと災難だよ!」


 語尾が強くて、怒りが籠っていることが良く分かった。


「ほんとなんなの鷹岡!あたし髪染めてなければ化粧もしてないし!そもそもこの学校染色パーマありだろ!?」


 息をついて煙草を吸い、吐き、また叫ぶ。


「なに!?なんなの?あたしのどこが気に入らないっていうのさ!てかあんな教師が存在していいわけ?あいつこそやめちまえ!教師失格だ!!」


 全て叫び終えたとき、佳子は息切れで肩を上下させていた。息を整えながら煙草を吸って、冷静になる。


「あれは災害だと思え」


「………そうする。今まであんなのいなかったから慣れないもんだ」


 うんざりだ、と煙を吐きながら言った。


「それは恵まれてたんだな。大概一人ぐらい変なやついただろうに」


「あたし、中学まで私立女子校だったからね。あんまり変なやつはすぐ首になるし」


「女子校か…おまえが?」


 ぷっ、と笑った朔矢に澄まし顔で佳子は返した。


「女子校なんて女を捨てた奴ばっかだからね」


「つまりおまえみたいなのがいっぱいいる、と。それは残念だ」


「なによ、その言い方」


「さあな」


 口を噤んで佳子は煙草を吸った。

 彼女を見た朔矢は、どうもあちこちにある痣が痛々しく感じられて、つい尋ねた。


「おまえ、大丈夫か、その痣。何かあったのか」


「お、聞くんだ。嘉山って、見た目より結構優しいんだね。クラスじゃあたし、デートDVされたことになってるのにねえ?」


 それは感謝より痛烈な皮肉に聞こえた。朔矢が気分を害する前に、佳子がポツリと切り出した。


「…これは、母さんがやったんだ」


「…!?」


 言葉が出ない朔矢をせせら笑って、佳子は続けた。


「母さんは、煙草の臭いが大嫌いだから」


 溜め息と共に口から漏れ出た煙草の煙が、佳子の腕にある痣に絡まって色身を簿かす。


「昨日は一昨日の深夜帯からバイトしてて、ちょっと喫煙客が多かったんだ。それで臭いが移って、母さんは疲れていたから、なおさら気が立ったんだよ」


「そう、か…。痛く、ねえのか?」


 恐る恐る尋ねた朔矢に答える前に、短くなった煙草の先を潰して始末し、彼に手を差し出した。


「もう一本」


 言われるままに差し出された煙草を吸う。

 吐き出した煙が上る先を、遠く、見つめた。


「別に、もう慣れた。たまに、そういう日があるからね」


 母親は、別れた父親を思い出すから煙草が大嫌いだ。臭いさえも、嫌悪する。

 煙草の臭いを少し、佳子から嗅いだだけで、父親に会ってきたのだろうと激情に駆られる。どうせあんたも私を捨てるのだろう、と。

 あわれだと思う。父親は母親と別れる少し前には父親は煙草をやめていて、たまに面会する父親からは、煙草の臭いなどしないのに、それを知らない母親が、おろかだと思う。

 けれど、それでも離れられない。

 守りたい家族だから。


「そう、か」


 言ったきり、朔矢は何も言わなかった。


「あんたは、やっぱり、少し優しいね」


 そこに挑発するような色はなく、身に染みるような声だった。





 ゜゜゜゜





 ある日の放課後。朔矢がふらりと屋上に立ち寄れば、橙色の夕日を眺める佳子がいた。


「芳野、今日、バイトは?」


 いつもより一層その背中が華奢に見えて、朔矢は声をかけていた。

 振り返る佳子は普段通りで、朔矢は飛び降りそうに見えたのは気のせいだったのか、と内心で首をかしげる。


「明後日から修学旅行だから、休み。準備期間だって」


「準備しねえの?」


「何をするって言うのさ。着替え詰めたらおしまいじゃん」


 女子にあるまじき淡白な台詞。佳子らしくて、朔矢は微かに笑った。


「まあ、その通りだな」


 ふと、思い付いたように佳子が尋ねる。


「そういえば嘉山は旅行中煙草どうするの」


「勿論持ってかねえよ。バレたらヤバイからな」


「3日もなくて平気なの?」


「まあ、大丈夫なんじゃねえか?」


 適当な、と佳子が呆れるが、朔矢は取って付けたように言う。


「それに、誰も知らないからバレたときフォローしてくれるやつがいねえのが問題だ」


「え、誰もあんたの煙草知らないの?」


 佳子は瞬きした。朔矢は得意そうに腕組をして、ニヤリと笑う。


「父親の煙草を貰ってるから、父親は知ってるな。母親も多分知ってる。でも他はおまえだけだ」


「マジでか。ちょっとビックリした。慎重なんだね」


「まぁ、将来かかってるからな」


 その台詞の意外性にまた、佳子は瞼を上下させたのだった。





 ゜゜゜゜





 修学旅行。最近は、秋も近づいたのか夜はめっきり冷えるようになっていた。

 カーディガンを羽織って佳子は歩く。

 ホテルの喫煙コーナーのそば。廊下に設置された腰掛けに、ぼんやりと座り込む黒髪頭を見つけた。


「よ」


「……あ」


 手短に挨拶を済ませて隣に勢いよく座る。佳子に気がついた朔矢は小さく声を上げた。

 分かりやすく普段より元気がない。


「ニコチン不足?」


「……。…やっぱそうなんだろうかなぁ……。煙草ぐらいいつでも止められるって思ってたから、結構ショック…。吸いたくてたまんねえよ」


 冗談が当たってしまい、呆れながら尋ねる。


「いつもどんぐらい吸ってんのさ」


「一日数本?10本は早々いかねえし、吸わない日もたまにあるな」


「……いや、あんた吸ってる方よ」


 未成年喫煙は犯罪である。


「うー。たばこー」


 唸りだした朔矢に佳子は仕方がないな、と言ってポケットを探った。


「あった。ほら、あげる。煙草吸いたいっていうか、口が寂しいんじゃないの?」


「さんきゅ」


「これを機に、禁煙でもしたら?早死にするよ」


 そう言いながらポケットに入っていたチョコを手渡す。包装を破って中身を口に転がした朔矢は、慣れない甘さに眉を顰めた。


「甘っ…」


 低い声で佳子も対応する。


「文句言うなら返せ。あたしチョコなんて滅多に食べないんだから」


「もう無理だろ、流石に」


「吐き出せばあたしが満足する」


「………ひどいこと言うな」


 軽口を叩きながら包装を眺めていた朔矢は、軽く聞いた。


「これ、結構高いチョコじゃねえの?」


「…ああ、貰った。えっと誰だったかなー」


「あいつ?茶髪の」


「確かに茶髪!それでピアスしてて…なんかチャラそうな」


「それそれ。えーとなんて言うんだったかな…………」


 クラスメイトである。


「ま、いっか」


「そだな」


 今は11月の上旬であった。


「それにしてもあいつ、芳野狙いかー。よりにもよって、芳野かー」


 朔矢は佳子の上から下までを眺めた。


「な、なに」


 佳子は戸惑うが、朔矢が意に介さず鼻で笑ったので唇を尖らせる。


「……失礼だね。あたしにもあの茶髪のチャラそうなあいつにも」


 果たして失礼はどちらか。


「ってか、チョコくれただけじゃん。なんであたし狙いとかなんの?」


「なるなる。多分おまえにしか遣ってないし、陰ながら人気あるんだよ、おまえ」


「……。マジでか!?」


 佳子は絶句した。


「ってか多分、おまえの噂とかもそれが原因だしな。そうそう、今、一人歩きしてるおまえの噂が凄いことになっててさー」


 佳子はぎこちない表情になって聞く。


「今度はどんなことに…?」


 現在は大学生の彼氏に貢がせている設定が横行している。因みに事実無根である。


「おまえ、自由行動中何も買わなかったんだって?なんか、そこから広まったらしいんだけどさ、『いつでも男に貢がせられるから、自分じゃ何も買わない』だって」


「な、なにそれ……」


 開いた口が塞がらない。

 何故そんなことを言われるようになってしまったのかは、少し分かる。班の女子に何も買わないのか、と聞かれて、別に要らないし、と答えたからだと思う。きっと愛想が悪かったのだ。


 だが、否定の言葉は止まらない。


「今日は買わなかったけど、明日は買うし。ちゃんと買うし。バイト先と父さんと母さんに買うし…」


 足をバタつかせて、噂に抗議する佳子。面白がって朔矢は言う。


「ドンマイ!災難だったな!」


「笑うな!あたしがあげたチョコ返せ!」


「話題が一周回って戻ってきたし」


 まばたきをした朔矢は、仕方がないと言うようにのんびりと立ち上がると、目の前の自動販売機にコインを入れる。


「こんにゃろー!あたしが小遣い切り詰めてるの知ってて買う?ジュースとか買っちゃうの!?」


 なんだか周りに八つ当たりしたい気分な佳子が食って掛かれば、ガコン、という音が2回響く。


 不思議に思えば、チョコレート色のラベルがずいと差し出された。


「……なに?見せびらかそうってつもり?」


 片眉を上げれば、そんなわけあるか、と缶で額を突かれた。


「ほら、やんよ。チョコ返せねえし、まあ、礼だ」


「え、マジ?めっちゃ感謝!ほんとありがと!」


「態度変わりすぎじゃねえか……?」


 文句がありそうな朔矢に、一転して笑いかけた。


「いいのいいの。にしてもココアかぁ。久しぶりに飲む」


 佳子は上気分でプルタブを開けたのだった。





 ゜゜゜゜





 修学旅行を終えて、久々に帰った家は、煙に包まれていた。


「煙いな…」


 家ってこんなに煙かったか、と訝しみながら靴を脱いで家に上がる。いつものことだが、我が家の煙さには定評がある。


「ただいま」


 リビングのドアを開ければソファーに座って煙草を吸う父親が。気だるげに振り返って、煙草を口から離した。


「おーお帰り。禁煙お疲れー」


 我が父親ながら、色気しかないといつも思う。母親はきっとそういうところに惚れたのだろう。御愁傷様だ。


 内心で母親に手を合わせて、鞄の中から袋を投げる。


「ほら、土産」


「ごくろーさん。なになに?ご当地タバコ?」


「…………常識的に考えろ」


「ハイハイ。あ、ペアストラップだぁ。みっちゃん好きそー」


 未だにお互いを愛称で呼び合う夫婦(妻48歳と夫35歳)である。


「じゃあ朔ちゃんにもごほうびをあげましょう!」


 未だに父親に愛称で呼ばれる息子(17歳)である。


「じゃじゃじゃあああん!!タバコでぇっす!」


 父親の行動を一瞥した朔矢は唇を結んだ。


「要らね」


「え?なになに?どーしたの?はんこーき?」


「なんでもねえよ」


 体調でも悪いのかとあちこちを触ってくる父親を押し退けて、話を聞かない彼に朔矢は叫ぶ。


「だから、なんでもないって!ちょっと禁煙しようと思っただけだから!」


「朔ちゃんが禁、煙……?

 嫌だあああああああああ!!」


 まるでこの世の終わりのように叫びだした父親を無視して自室に戻る朔矢だった。





 ゜゜゜゜





「修学旅行終わったねー」


「そうだな」


「ってことは期末試験が近いね」


「………そうだな」


「…勉強してる?」


「軽い絶望」


「あ、してないんだ」


「絶望ー」


 ある日の休み時間。冷たくなってきた風を感じながら、軽口を叩きあった。


「そういうおまえは、どうなんだよ」


「期末試験が近いってことより、今更ながら、高2の夏休みが終わったってことに戦慄してる。センターまで2年無いんだよ!?絶望感がヤバい…」


「スケールがでかすぎて絶望なんてできねえよ」


 珍しくタバコを吸わず、棒つきキャンディーを舐めている朔矢に食って掛かる。


「じゃあ嘉山はどんなときに絶望感がヤバいのさ」


 朔矢は棒を片手に持って、思考した。


「んー、試験前日に範囲がどこだか分かんないとき?あと、範囲がわかっても最初のページから理解できないときとか」


「ヤバい。めっちゃ理解できる」


「学校に弁当持っていき忘れたのに、財布に28円しか入ってないときとか」


「なにその具体的な数字のリアリティー」


「あと……う〜ん。夏休み最後の日に途方もない宿題の山」


「それは誰しも通る道」


 一通り言い終えて、二人は目を見合わせた。こんなに気が合うと思ったのは初めてだった。打ち合わせた訳もなく手を差し出し、握手をした。


 だが、佳子にはもうひとつ、絶望に近いことがあった。




 こんなことは、誰にも言えないと思う。




 夜。バイトから帰る頃。

 外灯の明かりが漏れ入る室内。

 机の上に無造作におかれたカッター。

 カッターの先は長く出ていて、決まってその次の朝、母親の左手首には、絆創膏が張ってある。



(どうしたら、いいんだろう…)



 考えても答えは見つからない。


 あの、すっと心が冷やされるような絶望には、きっと慣れることはないのだろうと思っている。





 ゜゜゜゜





 ある日の放課後。

 どうにも消化しきれない感情があって、家に帰りたくないと思った佳子は、屋上に向かった。


 そこには何故だか朔矢がいて、いることを期待した訳ではないのに、佳子は嬉しく思った。


「よう」


 ドアの開閉音で佳子に気づいた朔矢が、歓迎するようにひらりと手をあげた。


 朔矢の後ろには大きな夕日が見える。


 佳子は朔矢の隣に立って暫くそれを眺めてから、ぽつりと尋ねた。


「ねえ、あんたさ、将来なにになりたいとか、何になってるだろうとか、想像つく?」


 朔矢の顔は見れなかった。何を巫山戯た質問を、と言われるのが怖かったから。


「さあな。あんまり想像したことねえからな…。…。あ、ヒモやってる未来が想像できた」


 微かに笑って聞き返す。


「ヒモ?何それ」


 朔矢はかなり真面目な顔をした。


「だってだぞ?俺の知ってる大人の男って奴は、父親しかいねえんだよ。で、父親みたいになるのかな、って思ったら簡単に想像できちまった」


「それでいいの?」


 込み上がる笑いを押さえながら聞けば、朔矢は憮然と返した。


「しかたねぇだろ。無茶ぶりに答えてやったんだから感謝しろ。………それで?おまえはなんかあんのか?」


 すっと、笑いが引く。前を向けば、もう夕日はほとんど沈んでしまっていて、微かな残光か届くのみ。


「さあ?」


 真面目に答えろ、と、そういわれる前に、佳子は言葉を継いだ。


「なにも、思いつきやしない」


 風が吹いて、前髪が上がった。

 全身に風を感じる。


「…今日、告られたんだ。知らない先輩に。あたしなら、卒業したあとも、好きでいられるんだって」


「……ふうん。それで?」


「先のことなんか、分かりやしない……」


 そう言って、両腕に顔を埋めた。

 暫くして、声が聞こえる。


「もちろん断ったよ。今はそんなこと、やってる暇なんてないから」


 その声は、どこか震えているような気がした。けれど、朔矢は慰めの言葉も、茶化すような言葉もかけず、ただ、遠くの残光を眺めていた。それは、綺麗だった。


「…――それにしても、あたし、初めて告白なんかされたよ!」


 顔をあげたときには、普段のからっとした性格の佳子に戻っていた。

 だから朔矢も、いつものように軽口を叩き返す。





 ゜゜゜゜





「そういえばあんた最近タバコ吸わないね。どうしたの?」


 昼休み。昼食を食べながら佳子は同じく昼食を食べている朔矢に聞いた。


「あー、ちょっと禁煙」


「っと、危な…」


 手に持っていた弁当箱を取り落としそうになった。


「…マジで?」


「おう。スゲーだろ」


「大丈夫なの?」


 真顔で訪ねれば、朔矢は言い返す。


「大丈夫なの、ってなんだよ。おまえが禁煙してみろって言い出したんじゃねえか」


「え?あたしのせい?」


 自分に箸を向けて、口を開ける。朔矢はムッとしたように顔をそらした。


「なんだよ。煙草吸ってる方が良いのかよ」


 我に返った佳子は箸をおいて手をブンブンと振った。


「いやいや!そんなわけないじゃん!ただちょっと、びっくりしただけだよ」


 事実佳子は驚愕していた。

 自分の一言で、こんな風に誰かに影響を与えられるなど、知らなかったのだ。

 それがどんなに嬉しいことかも、初めて知った。


 それが嬉しくて、朔矢が自分の言葉を存外真摯に受け止めていたのが照れ臭くて、佳子は誤魔化すように口走った。


「す、凄く良いことだと思う。だって、今までみたいに煙草吸ってたら、きっと、早くに死んじゃうと思うし。あたし、学校自体あんまり楽しくないけどさ、ここっていうか、あんたと一緒にいるのは、結構楽しいし、だから、あんたがいなくなったら、寂し………………………。………………………………………………………………………あたし、…変なこといった?」


 照れ臭さを隠すために上げられなかった顔を少し上げれば、朔矢が片手で口元を覆って酷く驚いたような顔をしていた。


「……言った」


 直視できない、というように、朔矢は顔を背ける。その表情は、なんだか凄く、色っぽい。


「……マジ、で………」


 聞き返している間に、先程の台詞がまるで告白みたいだということに思い至った。

 まもなく、佳子の顔も完璧に赤くなる。


「……。か、勘違いしないでよねっ、ば嘉山!別に、そんなつもりで言ったんじゃないから!」


 真っ赤な顔でばたばたと走り去った佳子の足音が遠くなって、朔矢は立てた膝に顔を埋めた。


「なんだよあいつ。バカかよ…」


 その顔は赤くて、瞳が熱で潤んでいた。


「勘違いしちまうよ、もう……」


 佳子の足音に聞き耳を立てずにいられない。



 佳子をきれいだ、と思うことは良くあった。目を離せなくなることも。

 それは予兆だった。


 佳子の台詞ひとつで煙草を止めようと思ったのは、きっと既に、そう、だったから。


 そしてあれが、決定打。

 『あんたと一緒にいるのは、結構楽しい』

 その言葉が嬉しくて、その言葉を嬉しいと思った自分に吃驚した。吃驚して、自分の気持ちを見つけてしまった。






 朔矢は空を見上げた。






「そっか。俺、あいつのことが、好きなのか」






 蒼い空を、見上げた。





 ゜゜゜゜





 本格的に冬が近づいて、朔矢も佳子も、シャツの上にジャケットを着るようになった。


 あの日以来、朔矢は煙草を吸っていない。


 佳子は、何も言い違えなどなかったかのように振る舞った。


「結構冷えてきたね」


「まーそうだな。もう冬だし」


「寒いと、電気ガス代が嵩むんだよね」


 はぁ、と佳子はため息をつく。


「すっかり主婦だな」


 同情するような目を向ければ、佳子はだいぶ疲れていたのか愚痴を続けた。


「だって、朝昼夜食事準備しなきゃいけないし、家事だって、買い出しだってやってるんだよ?もう2年目だし、だいぶ慣れたや。昔はさ、何もやったこと無かったんだけどね」


 はあ、と深くため息をつく。


「母親は?二人暮らしなんだろ?」


「母さんは、そんなことできないよ。今まで専業主婦で、仕事なんてしたことなかったから、家ではずっと寝てる」


「それでも何かひとつぐらい―――」


 言い募る朔矢を遮った。


「駄目なの」


 それはまるで、己に言い聞かせているようだった。


「母さんは、駄目。凄く、追い詰められてて、何も言えない。あたしだって、役に立ちたいけど、あたしじゃ駄目」


「じゃ、父親は?離婚したっつってもおまえの父親だろ?」


「父さんとはね、月に一度会ってるよ。優しくてお小遣いもくれるし、あたしの養育費だって出してくれる。でも、母さんのことは、駄目だ」


 佳子は自嘲するように笑った。


 佳子の母親は、昔からどこか精神的に危ないところのある人だった。それまでは父親がそれを支えてきたが、きっと限界だったのだ。だから別れた。


「母さんは、父さんに見棄てられたと思って、恨んでる。あたしが父さんに助けを求めたら、あの人は、もっと、追い詰められちゃうよ」


 思い出すのは、放り出されたカッター。多分、佳子の母親は死にたいわけではない。でも、いつかあれが、もっと恐ろしいものに変わってしまうのではないかという考えが、佳子の中にあってしまう。


「おまえ、大変なんだな」


 しみじみと、朔矢は言った。今まで、複雑な家庭だとは思っていたが、家庭内の環境は良好で、大変だと思ったことはなかった。自分は恵まれているのか、と柄にもなく思う。


「そうでもないよ。あたし、中学まで私立校だったし、甘やかされてたから。きっと、反動。今まで楽してたぶん、苦労してるんだ」


 そう難しく考えなくてもいいのにな。


 朔矢はそう告げたが、自分の声がきっと届かないことは分かっていた。





 ゜゜゜゜





 午後イチの授業に出る気が起きなくて、朔矢が屋上に向かえば、そこでは、佳子が膝に顔を埋めて丸まっていた。


「どうしたんだ?」


 顔を上げた佳子は、この寒いというのに、頬が上気して酷く幸せそうだった。


「ねえ嘉山、松下っていいやつだね」


「松下?」


「修学旅行の時、チョコくれたやつだよ」


 ああ、あいつか。そう呟きながら、朔矢は少し身構えた。彼は確か、佳子のことが好きなはずだったから。

 地べたに座りながら、尋ねる。


「あいつが、どうかしたのか」


 佳子は笑った。すごく嬉しそうなのに、泣きたいような笑顔だった。


「…………あたし、告白された」


「………。そうか」


 朔矢はそれだけを、なんとか絞り出したように言った。

 何ら問題ない、今までだって何度も告白されても、全て断ってきたのだから、と言い聞かせる。けれど。


「松下はあたしに、あたしのことが知りたいって言ったんだ。あたしが抱えてるなにかを、支えてやりたいって」


 その声は、喜びに満ちていた。

 いつもの、どこか鬱積した感情をすっかり取り払っていた。


 それをしたのが自分ではない、ということに、焦りを感じ、灼けつくような喉から朔矢は声を絞り出した。


「………良かったんじゃねえの?それで」


 朔矢は、俺ならどうかと言いたかった。けれどその言葉を飲み込んだのは、ちっぽけな矜持のせいだ。


 今まで何もしなかったのに、どうして今、言えるのだろうか。松下よりよっぽど彼女を知っているのに、彼女をあんな気持ちにさせたのは、朔矢ではなかったのだ。


「俺、いくわ」


 立ち上がって、努めて無感情に言った。

 背中で、佳子の声が聞こえるのではないか、と思った。そう、願った。


 だが、そんなものが、追って来るわけがなく。




 授業は勿論サボった。


 煙草を吸いたいと、がらんどうの心で思った。隙間を、煙草の煙で満たしてしまおう。


「ただいま」


 乱暴に靴を脱ぎ散らかして、大きな足音をたてて朔矢はリビングへの廊下を歩いた。


「朔ちゃんお帰りー」


 能天気に笑う父親に、ずいと手を差し出せば、彼は首を傾げる。


「何?お金がほしいの?」


 察しの悪い彼に、朔矢は舌打ちをして手に持った煙草を指差した。


「それだよ、それ。煙草!さっさと出せ」


「ええ!?朔ちゃん禁煙してるんじゃないの?」


 大仰に驚いた父親に、苛立ちが募る。


「それは、…やめた」


 低い声で言う。胸の奥が痛むが、気にかけなかった。


「そーなんだ。ま、いいけどね」


 気怠げに答えた父親は、引き出しから出した煙草の箱を朔矢に投げる。朔矢は受けとると、我慢できないように封を開けながら自室に戻りながら背を向けた。


 だが、ふと思い付いたように振り返って言う。


「俺、今学期はもう学校いかないから」


「ん?もう終業式まで3日、4日?良いんじゃない?じゃあ、学校には連絡しておいてあげるから」


「頼んだ」


 煙草を銜えながら自室に戻る。


 荷物をおいて、ライターで火をつければ、久々の煙草に噎せてしまった。


 煙に燻された喉の痛みがまるで想いの深さを物語っているかのようで、それを誤魔化すかのように、煙を胸いっぱいに吸い込んだ。



 それから、朔矢は年が明けて学校が始まるまで学校にいかなかった。







 ゜゜゜゜






年が明けて、新学期が始まった。


 朔矢はきちんと毎日学校に通った。


 けれど、朔矢が会いたいと思って、会いたくないと思った佳子は、学校に来なかった。

 毎日、病欠だという報告が来た。

 だが、朔矢は可笑しいと思った。彼女は熱があっても、学校やバイトを休むことはなかったから。


 可笑しいと思っても、朔矢は佳子の連絡先も、住所も知らない。佳子も朔矢も親しい友人はいないし、二人の接点も目に見えるところでは何もなかったから、聞くこともできなかった。

 それに、誰かに尋ねたところで、何を知っている訳がないということを、何となく分かっていた。


 その内に、あの日までは名前すら知らなかった松下を目で追うようになった。

 だが、松下は、佳子の何も知らないようだった。それを変だと思いながらも、朔矢は行動を起こすことができなかった。




 ただ、待っていた。

 あの屋上で。

 煙草の煙を見つめながら。




 2週間近く経ったある日のことだった。

 雪が降った次の日だった。

 屋上にも白い雪が積もっていた、冷気が身に凍みるような朝だった。


 吐く息の白さに目を細めて、見上げた曇天の冷たさに、身震いした。


 煙草の煙の白と、吐く息の白が混じりあっていた。


 今にも泣き出しそうな空だと思ったのは、朔矢のどこかにも、泣き出したい心があったからかもしれない。


 雪の白さが全てを包み込んでいくような朝だったから、その足音はよく目立った。


 ばたばたばた、と階段をかけ上がる音がした。

 教師かもしれないと思いながら、やけっぱちな気持ちで、朔矢は煙草を銜えた。


 だから、本当に驚いた。


 勢いよく開いたドアのノブをつかんで、会いたくて会いたくない彼女が立っていたから。


「え………」


 呟いた拍子に煙草が口から落ちて、慌てて掴み直す。


 それを見た佳子は、かすかに笑って言った。



「嘉山……、あけまして、おめで、とう」


 もう年が明けて半月以上たっているのに、佳子は笑って言った。


 それは、あのときの笑顔とまるで反対だった。

 すごく泣きたそうにしているのに、嬉しそうでもある笑顔だった。


「おまえ………」


 顔には、赤い腫れがあった。身体は、最後に会ったあの日より、ずっと細くなっていた。今にも消えてしまいそうに、笑っていた。


「……あんた、煙草やめるのやめたんだね」


 呟くような声。朔矢はその響きに、胸が引き絞られるような悲哀を感じた。


「そうだな」


 その悲哀をもて余して、そんなことしか言えなかった。


 佳子は、朔矢の横に、朔矢の方を向いて座り込んだ。肩を壁に預ける。


 手足や首もとにも、大小様々な怪我があった。覗く首筋に常とは違う意味でどきりとした。


「……大丈夫、か?」


 そんなことしか聞けない。だが、佳子はそれでも少し、救われたようだった。

 ありがとう、と笑みの形に歪めた唇が声を紡いだ。


「まだ、大丈夫だよ。多分、ね」


「……怪我、は」


「…いつものこと、なんだと思うよ。今度は酷く長かっただけでさ」


 ひどい顔をしていた。

 笑みを作っているつもりだろうが、全然なっていない。苦しいだろうに、それに気がついていない顔だった。


「嘘じゃ、ねえだろな」


 唇の端を震わせて、喉の奥を鳴らした。彼女は笑っているつもりなのだろう。


「どうだろう?あたしにはもう、分かんないや」


 声は震えていた。それなのに無理な表情は変わらず、朔矢は佳子を抱き締めたいと思った。


「話せよ。俺が決めてやるから」


 勝手だなぁ、と佳子は言ったが、訥々と話し始めた。


「母さんの束縛が、凄くて。この間、お給料を母さんに渡したら、こうやって恵んでやって気分がいいんだろうって、殴られた」


 佳子が見ているのは、掌。母親の、殴る手について考えているのかもしれない。


「あたしが楽しそうにしてたら、母さんが、あんたもあたしを捨てるんだろう、って。

 殴ったあとに、泣くの。ごめんなさい。そばにいて、って。遠くにいかないで、って」


 置いていかないのに、と悲しそうに佳子は目を伏せ、それから怯えるように、両腕で身体を抱き締めた。


「だんだんエスカレートして、何も自由にさせてくれなくなったよ。ただ、そばにいてくれればいいんだ、って言うの。

 逃げてきたの。母さん、どうかしちゃったのかもしれない」


 言いながら、泣くことはなかった。

 どうして泣かないのだろうと思って、泣けないのだと分かった。我慢しすぎて、泣き方を忘れてしまったのだと、分かった。


「なあ、ちょっと顔あげろ」


 極力優しく声を掛ければ、佳子はゆっくりと顔をあげた。


 朔矢は煙草に火をつけて、思いきり吸い込むと、佳子の顔面に煙を吹き掛けた。


「な、何!?」


 目や鼻や口に入った煙を困ったように追い出す佳子に、更に息を吹き掛けて言う。


「おまえの母親のことは、やっぱわかんね。でも、おまえは頑張りすぎだな。

 泣けよ。泣いたら少しは楽になる」


 瞠目して、笑おうとした佳子は、どうしようもなく唇を歪めた。


「泣けよ。煙がさ、目に染みるだろ」


 堤防が決壊したみたいに急に、佳子の瞳から大粒の涙が溢れた。ぼろぼろと、拭っても止まらない。

 何度も目を擦って涙を止めようとした佳子に、朔矢はまた息を吹きかけた。泣け、と言うように。


 佳子は、涙を止めようとしていた手を下ろした。

 涙に歪んだ視界で、朔矢を見つめて言った。


「………けむりが、目に、……沁みるだけ、だから…だから………」


 嗚咽が混じる。

 何か縋る縁よすがが欲しくて宛もなく手を伸ばせば、その手を捕まれ、とん、と気がついたら朔矢の胸に額を当てていた。

 そこは温かくて、佳子は更に顔を歪めた。


 シャツを掴んで、溢れる涙を押さえるのをやめた。


 どうしてこうなったのか、思わずにいられなかった。


 母さんは、言った。

 あんたは、私を捨てないで。そばにいて、と。

 けれど、それを言う口で、佳子を罵る。

 どうせどっかに行ってしまうんだ。私を見捨てるんだ。

 言いながら、叫びながら、よく佳子を殴った。否定の言葉など聞かず、首を絞められそうになったことも、ままにある。


 けれど、殴ったあとに、佳子を抱き締めて、ついた傷を酷く申し訳なさそうに撫でて、泣きながら謝る。ごめんなさい、愛してる。だから捨てないで、と。


「…母さん、もう、普通じゃないよ。どうしちゃったの…?」


 泣きながら、答えがない問いを叫ばずにはいられなかった。

 母親は、佳子を束縛した。

 まず、バイトに行かせてくれなくなった。私を捨てるんだ、と泣き叫ぶので、行けなくなってしまった。学校も、買い物も同じだ。


 携帯も財布も没収された。バイト先には、母親がもう行かせないと怒鳴りながら電話をしていた。


 母親の許可なしには何もできなくなった。


 食事も、入浴も、何もかもが。



 食事が喉を通らなくなれば、私の作ったものなんか食べたくないんだ、私をバカにしているんだろう、と無理矢理口に入れられた。


 最初は彼女の気が済んで、元の母親に戻るまで、とそれに付き合っていた。


 けれど、それがすぐに本当の服従に変わってしまったのは、あまりに彼女がおかしくなっていたからだ。


 部屋の片隅に座って、母親の願うように振る舞った。母親がいなければ何もできない、子供のように。



 それが、母親の望みだった。



「恐いの。……どうすればいいかなんて、わかんない!あたし、どうすればよかったの……」


 声を出して泣いた。


 煙草の匂いに包まれる。それは朔矢の香りだった。酷く安心した。


 あまりに激しく泣けてしまうものだから、息が何度も苦しくなった。そのたびに朔矢が背中を擦ってくれて、何度も何度も泣いた。



 どれぐらい泣いていたのかわからない。長かったのか、短かったのか。


 気持ちが落ち着いて来てやっと、佳子はまともに話した。


「あたし、逃げてきたんだ。母さんは、あたしの服も靴もみんな隠しちゃったけど、やっと見つけたの」


 手が仄かに震えていた。


「着替えと靴だけ持って、裸足で家から逃げたんだ」


 母親の隙をついて、転げるように家から出たと話す。公園で着替えて、歩いてここまで来た。


「このままじゃだめだって、分かってた」


 朔矢のシャツを握りしめた手を、震えながら離す。もうこれ以上は頼らないと言うように。決意の台詞と共に。


「でも、どうしよう…。あたしは、逃げちゃった。母さんから逃げて来ちゃったんだ…」


 また感情が高ぶって佳子はかぶりを振った。


「もし、……もしも、母さんがっ…」


「…どうしたんだ」


 嫌な予感に蒼白になる佳子に、朔矢が訝しげに尋ねた。佳子は、冷静になって浮かび上がった嫌な予感に、心臓が塗りつぶされるのではないかと思う。

 母親は、佳子の首を絞めながら、狂ったように何度も告げたのを思い出す。


 ―――あんたが私を捨てるんなら、私は死んでやる。自殺してやる!


「……母さんは、たまに、カッターを使うの。…あたし、今まで知らないふりしてた。何て言ったらいいのかなんて、分かんなかった。母さんが苦しいこと、知ってたのに!」


 身体の震えが止まらない。どうしてこんなことを忘れていたのだろう。


「腕を、切るの。もう、ずっと前から、そのぐらい追い詰められてた」




「嘉山、どうしよう!?母さんが、もし、あたしに捨てられたんだと思って、…………もし……」


 言葉を継ぐことはできなかった。酷く不吉な言葉だったから。


 もうずっと、佳子は不安に思っていた。何かがあって、母親が、もっと大きなもの―――包丁を持ち出してしまったら。もっと大きな血管を、もし、そうしてしまったら、と思うと不安で仕方がなかった。


 そうでなくても、やり方など多様にあるのだ。


 もし、彼女が行動を起こしてしまったら、止められるのは佳子しかいなかった。

 それなのに佳子は逃げ出してしまった。


 帰らなければいけないと、思った。


「あたし、帰んなきゃ。帰んなきゃならない…。でも、怖いよ。母さんが死んでるかもしれない。死んでなかったら、もとに戻らなきゃならない。………嘉山、あたし、怖い」


 足が震えて立ち上がれない。踞ったままの佳子を、とうに煙草を潰していた朔矢は見詰めていた。


 彼女はあり得ないぐらい軽装だった。雪の中、ブラウスとスカートしか身に付けていなかったし、足元は素足に革靴だった。それも雪に濡れたのか、水が滴っている。

 挙げ句の果てには、鞄すら持っていない。


 どれ程切羽詰まっていたのか、それだけで察することができた。


 首筋に、痣があった。朔矢は、それをつけた人物を大嫌いになる予感があった。けれど、彼女はその人を想ってこんなに泣いているのだ。立ち上がろうと思った。


「佳子………」


 勇気をくれと、願った。

 きつく、きつく抱き締める。勇気が出るように。

 助けたい相手を助ける勇気を欲しいが為に、その相手に勇気をくれと願うのだから、変だ。けれど、朔矢は佳子を抱き締めて、その身体の細さに意を決した。


「……俺が、ついていってやる。だから、怖いものなんかねえよ。どんな結末だって、一緒に背負ってやる。だから、行こう。おまえの母親も、おまえも、助けてやるから」


 本当に助けてやれるかなど分からない。できる気もしない。だが、守ってやりたいと思ったのだ。


 額をつけて、目を見て朔矢は佳子に囁いた。


 それから自分のコートを佳子に掛け、マフラーをぐるぐると巻き付け、手を引いて立たせた。


 その手の細さと冷たさに、急がなければならないのかもしれないという予感が浮かんでわれた。





 ゜゜゜゜





 朔矢の着せかけてくれたコートもマフラーも、涙が出そうなぐらい温かかった。

 泣きすぎで目が痛くて、何度も擦ったら涙が出てきそうになった。


 道がわからなくて行きは何度も遠回りをした道も、電車を乗れば数十分だ。


 佳子は、暖かい車内で夢のようだと思った。冷えきって、縋る縁のなかった手は、握られていて、恐ろしくてたまらない現実に、共に向き合ってくれるという人がいるのだ。



 駅からは、一歩一歩が重く感じられた。


 何とか目に入ったアパートを指差せば、朔矢がごくりと息を呑んだ。


「芳野…大丈夫、だからな」


 励ます朔矢に佳子は手を握り返した。



 部屋のドアに手をかける。ドアノブを捻れば難なく開いて、小さな部屋が目に入った。


「…………。か、あさん?」


 部屋は荒れ果てていた。どこにそんなにものがあったのか、というぐらい荷物が散乱していて、一歩踏み出そうとした佳子は悲鳴を飲み込んだ。


 足を置いたすぐ近くに、包丁が落ちていた。


「っ!かあさん!かあさん!かあさん!どこにいるの!!?」


 佳子は部屋の中をがむしゃらに探した。朔矢は慌てて彼女に付いていく。


 半狂乱で佳子は母親を探した。だが、どこにも彼女が見当たらなくて、へなへなと、佳子は座り込んだ。


「……芳野、大丈夫だ。きっと、大丈夫」


 朔矢は佳子の肩を抱いて、慰めた。


「どうしよう…あたしのせいで、母さんが……」


「おまえのせいな訳あるか」


 呆然と呟いた佳子の言葉を、朔矢が眉値を寄せて一蹴したその時。


「………佳子、ちゃん?………帰ってきたの……?」


 ドアを開けて、色濃い疲労を顔に刻んだ老年の女性が現れた。





 ゜゜゜゜





 雪が溶け残った屋上。次の日の放課後。


 朔矢は相変わらず煙草を吸っていて、佳子はその近くに座っていた。


「………ほんと、あんたには感謝してもしきれないよ」


 佳子はコートを着ていた。昨日朔矢がくれたマフラーも巻いている。


「俺のお陰というか…大家夫婦の圧勝だっただろ、あれは」


 あの日、佳子の名前を呼んだ女性は、アパートの大家の夫人だった。

 大家宅に案内されれば、消沈して座り込んでいる母親がいた。暴れて怪我をしたのか、あちこちに手当ての跡があった。


 彼女は、自殺しかけたのだと聞いた。佳子の不安は的中していた。

 ただ、誤算があっただけで、母親は生きていたのだ。

 世界は、佳子が思うより少しだけ、本当に少しだが、優しかった。


 かこ、と名を呼んで、彼女は佳子に近づこうとした。佳子自身も母親に近づこうとしていた。けれど、朔矢が佳子を背中に庇うように隠して、手を振り上げた。


 小気味良い音が響いて、母親の右頬が熱を持った。


 朔矢はその手を握りしめて、激情を圧し殺して告げた。


 ―――俺は、てめえが何してたか知ってる。追い詰められてたのを知ってる。けどな、やっていいことと悪いことがあるだろ。芳野はてめえの人形じゃねえんだ。一人の人間なんだよ。


 母親は崩れ落ちて泣いた。朔矢の後ろにいた佳子が、母親の前にしゃがみこみ、彼女の顔をあげさせて乾いた音を立てた。


 朔矢はすごく驚いた。佳子と母親の関係は、歪な共依存を含んでいると薄々感じていた。だから、佳子は絶対に母親に手をあげることができないと思っていたから。


 吹っ切れた、ということなのかもしれない。



 佳子は、忘れない、と言った。やられたことを忘れることはできないと。だからあなたも覚えていろ、と。


 それから母親を抱き締めた。

 母さんから離れていくことはあっても、それは大人になるからだ。捨てていないし置いていってもいないのだ、と何度も言い聞かせていた。



 あの日母親は大家の部屋に世話になって、佳子は一人で部屋に戻ることになった。

 朔矢は荒れた部屋の片付けを手伝って、遅くまで佳子と共にいたが、夜には家に帰った。


 不安はあった。


 彼女の母親が、いつ元のように戻ってしまうか分からない。もしかしたら、佳子を学校に行かせる気などないのかもしれない。それでも、朔矢は帰るしかなかった。



 そして今日、佳子はやって来たのだった。



「でも、あんたのお陰であたしは立ち上がれたんだ」


 佳子はかすかに首を振った。あたし一人ではできなかった、と。

 そうして見つめた瞳には、純粋な感謝があった。


「……。そ、そういえばさ、おまえ、なんで松下に相談しなかったんだ?」


 照れ臭さに閉口した朔矢は、話を逸らしてずっと気になっていたことを聞いた。


「松下?松下がなんで出てくるの?」


「は……?いや、おまえ、松下と付き合ってるんじゃねえのか?」


「は?」


 お互いに顔を見合わせて目をぱちくりさせる。

 佳子は、思い出したと言った。


「そっか、そうだ。あたし、松下に告白されたんだった。すっかり忘れてた!」


 朔矢は声も出ない様子で驚いている。


「あー、あれかぁ。確かにあれは嬉しかったけど、断ったよ」


「…なん、で」


 掠れた声しかでなかった。


「誰かにあたしのことを知りたいって言って貰って嬉しかったけど、あたしは自分のことなんて話したくなかったから」


「は?」


 別の意味で目を白黒させる。朔矢は意味が分からないと思った。だって、朔矢はずっと、佳子の話を聞いている。


 佳子は、恥じ入る感情を隠すように苦笑いを浮かべる。


「あたしの家のことなんて、恥だよ。………あんたにしか、話せない。他の人にはどうしても話せない。だから、断った。確かに良い奴だけど、きっとあたしが好きになることはないと思ったから」


 また、佳子が顔を朔矢に向ければ、いつかのように朔矢は口元を手のひらで覆っていた。


「……おまえは…、そんなこと、言うのかよ」


 絞り出した声は、甘やかに掠れていた。


「そんなことってなに。失礼だよ」


 腹をたてて抗議すれば、朔矢は横目で佳子を見て、尋ねた。


「おまえさぁ、なんで昨日、ここに来たんだ?別に、あの大家夫婦の家でも、バイト先でも、父親のところでも良かったわけだろ?ならどうして、ここに、俺に会いに来たんだ?」


 佳子は少し考えるように黙る。

 朔矢は期待した。答えが、朔矢の求めるものであるのではないかと。


「そういえば、どうしてだろう…。

 ……ただ、嘉山の顔が浮かんだんだ。どこかに逃げたいと思って、思いついたのがあんただった。あんたのいるここだった」


 呻き声のような音をあげて、朔矢は立てた片膝に額を擦り付けた。


「な、なに?どうしたの」


「……期待以上じゃねえかよ」



 決めた。言おう。


 顔を伏せたまま10秒ほど黙って、それから朔矢は気持ちを紡ぎ始めた。


「ほんとは、言うつもりなんてなかったんだ。でも、言う」


「どうしたの、改まって」


 何度も朔矢は話し出しを考えているようだった。


「………俺、おまえのことが、好きだわ」


 けれど、結局そんな単純な言葉しか選べない。でもそれで良いと思った。


「………は?なに言ってんの?」


「だから、結構前からおまえのこと、好きだって言ったの」


「…え?あんたが?あたしを?」


 疑わしいと言うように聞き返されるものだから、朔矢はため息をついた。


「……まあ、なんだ。おまえはけっこう、良い女だった、ってことなんじゃねえ?」


 投げやりになる。自己評価が低いのは分かっていたが、面と向かっておまえに価値があると言うのは恥ずかしい。


「………ちょっと待って。いつから?」


「煙草やめたぐらいに自覚。その前から」


「……………………………」


 柄にもなく混乱して呆けた口を開けている。


「それで?返事は?」


 朔矢が急かせば、佳子は冷静になろうと何度もまばたきをした。


「……えっと、あたし、今は誰とも付き合う気…」


 思ったより早く平静になった佳子は、すらすらと告げる。何も考えていないような言い方に、朔矢はそれが通常の定型文なのだと気がついた。


 それでは、嫌だった。


「そんなこと聞いてねえ」


 皆まで言わせず佳子に言い放った。


「な……返事しろって言ったのは」


「俺は」


 思いの外語頭が強く響いた。


「俺は別におまえと付き合いたくて言ったんじゃねえ。恋愛ごっこなんていらねえ」


 朔矢は少し躊躇した。


「……気持ちが、俺に向いてりゃそれで良いんだ」


 消え入るような語調だったが、聞き取れた佳子は赤面した。どこまでもそれは愛の言葉のように聞こえた。


「なあ、おまえさ、俺には自分の恥だって思うことを話せるんだろ。泣きたいときに、俺のことが思い浮かぶんだろ。それってもう、そういうことじゃねえのかよ、……なあ」


 伏せた目蓋の下から、朔矢は佳子を見た。甘えるような、強請るような声色に、佳子の気恥ずかしさは募った。


「あたしは……別に、そんなこと考えたことないし……」


 耳まで赤くなっているのがわかって、顔を両手で覆った。


「知ってる。でも、おまえがあんまり言うもんだから、期待しちまった」


「期待?なんで?」


 分からないと首を振るが、朔矢は小さく笑った。


「俺のことが最初に浮かぶんだろ?

 それってさ、俺のことが一番みたいだろ?」


「いちばん……?」


 佳子は、間違いなく朔矢は家族以外で一番大事だと思った。それは、正しい。


「なあ、認めろよ。おまえ………、俺のこと、けっこう好きだろ」


 朔矢はおもむろに手を伸ばした。彼と彼女の間にある見えない壁に触れるように指先を伸ばす。冬でもきれいな、指輪が似合いそうな指だった。



 佳子は、その時には赤面せずに、腕を、上げた。

 優しく指先を伸ばす。

 少し荒れていて、関節に数ヵ所、絆創膏が貼ってあるが、ほっそりとした指だった。



 触れるか触れないか分からないところで、指は迷うように近づいて離れた。



「―――かこ…」



 名を呼ばれて、佳子は優しく微笑む。

 指先が触れ合って、指を組んだ。




 それが答えだ。




「………あたし、たぶん、あんたのことが好きだよ、さくや」


「知ってる。負ける賭けはしない主義だからな」


 たぶん、という一言が気に入らなかったのか、朔矢は軽口を叩いて、二人は元の空気感に戻った。


「なにそれ、ずるい」


「ズルくねえし。おまえが鈍すぎるんだよ。バ佳子〜」


「うわ、めっちゃ失礼じゃん、バ嘉山!」


 二人はくすくすと笑った。いつもと変わらないが、それでいい。




 言葉はないまま時間が過ぎる。


「ああ……そろそろ帰んなきゃ」


 薄暗くなって、佳子は呟いた。朔矢はそれなら、と立ち上がる。


「俺も帰るか」


「一緒に帰るの?」


 不思議そうに佳子が訪ねれば、朔矢は不機嫌に答えた。


「悪いか」


「…ううん。悪くない」


 どこからともなく笑いが込み上げて、佳子は朔矢に手を伸ばした。


「朔夜、寒い」


「俺も寒い」


 手を繋いだ。



 今までなかった、帰路の暖かさだった。

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