無謬の悪夢
いつもの通り、夜になれば目が冴える。
一人きりの病室の、少し開いたカーテンから覗く空は星を覆う雲しか見えず、まるで病院周辺そのものが死んでしまっているかのように静かで暗い夜だ。まあナースコールを押せばすっ飛んでくる人達はちゃんといるが……。
既に消灯時間はとっくに過ぎ、病室にも窓の外にも灯りなど無い。だけど、今夜も彼は居るのだろう。
ふと、病室の隅に視線を移し彼を探す。ほら、今日も居た。獣のような息遣いと、同時に本当に存在するのかと疑うほどの存在感の無さを連れて。
「こんばんは、悪魔さん。今日はどうしたんですか?」
病室の隅にこびりついたような獣の影が返答する。『こんばんは、今夜も貴方に忠告をしに参りました』と。悪魔の声は体の内側へ響くように伝わりやすく、また唄をうたっているかのように軽やかだ。
「なるほど、今日もですか。いつもありがとうございます」
礼を言うと影は揺れ、わざとらしい笑顔を作る……私にはそれが恥ずかしがって照れ隠しに笑ったように見えた。もっとも、本当に獣ならば笑顔など作ることは出来ないが。いや、だから……悪魔だから笑うことが出来るのか。
影がまたユラリと揺れ『明日、また朝にいつもナースが貴方を殺そうとします。昼には知らぬ女性が貴方の財産を求めて言い寄ってくるでしょう』と言う。笑顔のままで。悠々と。
「なるほど、明日はそんな事が……。恐いですね。ナースは人を癒す天使のような者だと若い頃は思っていましたが、人を殺そうとするような天使だとは」
肩をすくめて自虐するように悪魔へ言ってみせた。それに対して『そうでしょうとも。元より天使は神の御使い。神がいる場所などあの世でしょうよ』そう言った。まるで自分はそうでないと言うように。
「なるほど、その通り。あのナースは新入りのようでしたから、少しのミスなら笑って許そうと思っていたんですけどね、なら仕方が無い。
私だって死にたくありません。追っ払いましょう」
それに悪魔も『それがいい』とユラリ、と揺れそう言った。笑顔のままで。淡々と。
「ところで、最近どうも医者達が私の知らないところで私の話をしているのです。何か知りませんか?」
それはもちろん、と悪魔は話し出し『貴方の体のことですよ。彼らは医師ですよ? やれ貴方はどうしてそんなに異常なのか。どうしてそんなにも醜いのか。何かの病気ではないのか。そう思案を交わしているのでしょう』ユラリと揺れた。笑顔のままで。辛辣に。
「なるほど、だから最近は良く医者達は話しかけて来ていたのか。あれは私を観察しバカにするつもりだったのですね」
まさにその通りとまた影は揺れる。それでも声に出して笑うのを堪えているのか『貴方の死後はホルマリン漬けでしょうよ』と低い声で抑えるように言い。
ユラリ、と揺れた。笑顔を消して……。
朝になる。話すと時間が過ぎるのは早い。もう窓の外で雀が鳴いている。角度の問題でこの病室に朝日は差し込まない。
「小崎さん、起きてますか?」
ノックが鳴り、スライド式のドアを横に開けてナースが姿を表す。いつものナースだ。
「おはようございます、小崎さん。今日はまずは採血と、一緒に栄養も入れますねー」
ナースに返答をせず黙って睨みつける。私だって怒鳴ったりはしたくない。自分から出ていってくれるのならそれでいいのだ。何より死にたく無い。
「もぅ小崎さん、聞いてますか?」
ナースが除き込むように目を合わせてくる。少し前ならこの仕草も可愛らしく見えたかも知れないが、今となっては私を殺そうとする者にしか見えない。それは恐怖だけを私に与える。
ナースが採血用の注射針をコチラに向けた時、やっとの事で恐怖にすくんだ声を絞り出した。
「止めろ……! 今すぐ帰ってくれっ」
「きゃっ、お、小崎さん?」
手振りと声で意思を示し、ナースを牽制する。ナースは怯えたような表情で困っているが、出ていこうとはしない。
「で、でも、せめて栄養だけでも容れておきましょう? 食事もろくにとっていないんですから、お願いします。小崎さん」
そこまでして私を殺したいのか。なんて恐ろしい女だ。
「出ていってくれ……!」
「でも、小崎さん……」
食い下がるナースについ感情的になり、語気が荒くなる。
「出ていけ!」
そう言うと、ナースは悲しそうな表情を作ったあと、いつもの顔を戻り「じゃあ、失礼します。またお昼に着ますね……」と言い残し病室から消えた。獣は表情を作れない。
ほんの少しだけ、良心が痛む。だがあのナースが何を考えているかは知らないが、やすやすと殺されるわけにもいかないのだ。
「だけど、最低の気分だ」
そう誰にとも無く呟いた。病室には誰も居らずその呟きは静かな病室に解けるだけだったのだが、いつの間に出てきたのか、悪魔が返答をする。
『でも良いことをしたのです。貴方は生存の為に仕方が無い事をしただけなのです』
それもそうだ。悪魔の言葉に納得する。仕方が無い事だったのだ。私は当然のことをした。
それはそうと、朝に悪魔と話したのは初めてだった。
昼前になると、病室に客が来た。
「アナタ、おはよう。昨日頼まれた雑誌と着替え、持ってきたわね」
と、知らない女性が来た。見てくれはとても好みの女性なのだが、昨夜の悪魔の言葉を思い出せば気を許すわけにはいかないものだ。
「ああ、ありがとう」
とりあえずはこの女性は土産を持って来たのだ。礼は言わなくてはいけない。
「あとこれも、ほら好きでしょう?」
女性は病院の売店のものであろうビニール袋からヨーグルトを取り出す。なぜこの会った事もない女性は私の好きなものを知っているのだろう。しっかりとした下調べをしたのだろうか。
「病院の先生たちが言っていたわ。アナタ、全然食事を摂らないんだって? ダメよ……病院のご飯は美味しく無いとは聞くけど、ちゃんと食べてくれないと困るわ」
驚いた、この女は医者達にも通じているのか。それはもう危機が迫っているという事だ。この会った事もない女が私の医者達に通じ、何かを狙っているのかも知れない。下調べどころか既に外堀から埋められているのか……!
そういえば、聞いたことがある。被害者が昏睡状態にあるあいだに被害者との婚姻をすませ妻になり財産をかすめ取るのだ。聞いたことがある。小説か何かで読んだ事がある。
なんて恐ろしい女だ。
「アナタ? どうしたの、ぼうっとして……」
「出ていってくれ……」
聞こえなかったのか、女は私の言葉を聞き返す。なら聞こえるように言ってやろう。
「出ていけ」
「そう……。ごめんなさいね、じゃあ、明日も来るから……」
女は慣れたように退室した。くそ、手馴れた詐欺師め。少しでも魅力的だと思った自分が忌々しい。きっと、今の私は……獣のようなのだろう。
***
「聞いた?」
「なにが?」
「ほら、四号個室の、ほら、ほとんど寝たきりの小崎さん。またあの子を追い出したらしいわよ」
「また? あ、そう言えば今日も奥さん顔出しにきてたわね」
「あの人もよく来るわね、もう見捨てちゃえば良いのに」
「そうもいかないんじゃない? 入院したての頃は……もう、見てるのも嫌になるくらい仲良かったし」
「そうね、長い入院生活は人を変えるのかしら」
「あ、そう言えば聞いた?」
「なにが?」
「あの小崎さん、夜勤の人から聞いたんだけど、夜はずっと一人で話してるんだって。獣がどうだとか」
***
既に消灯時間は過ぎた。病院は静かだ。時々一定して耳鳴りが聞こえるが、あとはやはり静かなものだ。
「今日は酷い目にあった」
いつも病室の隅にいる悪魔に語りかける。が、いつもの返答は無い。
「どうした? 今夜は休みか?」
返事は無い。
「おい、ふざけるなよ? いるんだろ?」
返事は無い。いつの間にか開いていた窓からの風で、カーテンがユラユラと揺れているだけだ。
「おい、ふざけるなよ? いるんだろ?」
繰り返すが、返答は無い。返ってくるのは風だけだ。
悪魔がいない。それだけの事にとてつもない恐怖を感じる。駄目だ。私は誰に頼ればいいんだ。怖い。ここは獣だらけなのに。
「いるんだろ? 頼むよ、出てきてくれ。私に語ってくれ、お願いだ。お願い致します。……出てこいよ!」
いるはずだ。いないはずがない。いないはずがない。いるはずだ。いないわけがない!
ナースコールを押してしまっていたのか。いつの間にか夜勤の医者やナース達が駆けつけ、「落ち着いて」だの「大丈夫ですよ」だの喚きちらして体に触られる。まるで全身にダニやカマドウマでも這ったかのような不快感を擦り付けられたみたいだ。
「止めろぉぉ!! 離せぇっ!」
ふと首筋に痛みを感じ。いつの間にか、眠りについていた。
朝日が昇る。雀が鳴き、朝を報せる。
優しい太陽の暖かさをカーテンが塞ぎ、病室は暗く、どこか寒々しい。私は辺りを見回している。彼はどこだろう。臭いはせず。何も聞こえない。モノクロだ。
だが思い当たる事があるのだ。彼はきっと移動しただけで、まだ近くにいる。感じるのだ。
医者やナース達は何やら慌しく廊下を駆け、また詐欺師の女が甲斐甲斐しく私の身の回りの世話をする。熱心な詐欺師だ。私にそんな保険金や財産はないというのに。私が死んでから時間の無駄だったと後悔すればいい。獣に与えるものは無い。
「鏡……」
「どうしたの、アナタ。鏡が欲しいの?」
女はそう言って自分のハンドバッグから手鏡を取り出し手渡してくる。
ほら、やっぱり。悪魔はここにいたのだ。自然と頬が弛み、笑顔を作ってしまった。
御精読有難う御座いました。