06.殺人姫(2)
微かな風切り音が僕の耳に届いた。
少女の振るう刃が僕の頬を掠める。
熱いようで冷たい。
冷たいようで熱い。
何かが僕の頬を流れ落ちた。
「おにーさんっ!アタシの愛を受け止めてよぉー!」
「無茶言うな!受けたら死ぬからっ」
斬り。
避ける。
何度も繰り返された攻防ーーー正確には少女がナイフを振るい僕が避けるだけの一方的な交戦ーーーによって、僕の身体には数ヶ所の裂傷が刻まれていた。
幸い深い傷はないのが救いといえば救いだが、このままでは殺されるのは時間の問題だろう。
周囲に人影はない。
当然か。
こんな街灯も少ない薄暗い路地にそうそう人が来るとは思えない。
「くふふっ。おにーさん血塗れで格好いいよぉ」
赤く蒸気した表情で感慨深く呟き、逆の意味で赤く染まった顔の僕を見詰める。
歪んだ、狂気の笑み。
「でもアタシも疲れちゃったし、そろそろ死んでよ」
休み間もなくナイフの刃が踊る。
ーーーー来る。
僕の首筋を狙う突き。
その軌道を正確に読み取り、だから僕は避けようと右足に重心を乗せーーーー。
瞬間。
不可解な衝撃が僕の右足を貫いた。
視界が暗転する。
月。
夜空に浮かぶ満月が見える。
また、衝撃。
今度は背中から響く衝撃だった。
何が起こったのか瞬時には理解出来なかった。
けれど、
「ーーーーくふふっ」
眼前に突き付けられたナイフは妖しく輝き。
「お・う・て、だよっ!」
弾んだ声。
突き付けられたナイフ。
それが何よりも雄弁に状況を語っていた。
「…………」
………恐らくだが、少女の脚払いによって体制を崩したのだろう。
僕は地面へと仰向けで倒れ、その僕の身体を跨ぎ立ったまま僕へとナイフを突き付けた。
ご丁寧にもそのスカートから伸びた艶めかしい右足で僕の右手を踏みつけて、だ。
封殺された右手。
制圧された体勢。
少しでも不審な動きをすれば斬りつけられるのは火を観るよりも明らかだった。
「くふふっ」
少女が笑う。
それは勝利を確信した強者の笑みだった。
狩る側と狩られる側。
少女がどちらで僕がどちらなのか、言うまでもない。
事実。
僕に出来ることはない。
僕が何かをするために行動するより速く、彼女は僕の首を斬り裂くことが可能なのだから。
「おにーさん、最期の遺言はあるかなっ?あるなら訊いてあげる!」
少女の言葉に、僕は僅かに考える。
命乞いでもするか?
それとも恨み言か?
それとも…………。
「………いや、じゃあ、……その、最期に一つだけいいか?」
「くふふふー。アタシへの愛の告白でも恥ずかしい失敗談でもおっけぇーでーす」
「その、…………パンツ見えてるよ」
白い太腿の伸びる先、常ならばスカートで見えないはずの下着がはっきりと視認出来た。
それも必然だろう。
地面に倒れ込んだ僕。
その僕を跨ぐように立つ少女の右脚は僕の右手を踏みつけている。
自然と開かれた両脚。
そんな場面で下から見上げたらどうなるか、少女自身今気付いたのだろう。
「き、きゃぁぁあーっ」
慌てて僕の上から退け、スカートの裾を押さえて後退る少女の顔は赤く染まっていた。
ーーーー今だっ!
今こそ勝機にして唯一の活路。
僕は素早く起き上がり、一目散に人の多い方へと駆け出した。
背後で少女の喚く叫びが聞こえたが、止まるわけない。