02.喫茶店
六月九日。
暦上では梅雨の時期に分類されるが今日に限れば雲一つない快晴で、乱雑に配置されたビル群の狭間へ夕日が沈んで往く。
昼と夜。
光と闇。
両極端だかこそ成り立つ狭間の瞬間。
日が落ち月が登る交代する瞬間。
陽光から月光へと変化わる刹那。
輝き照らす夕日が地上へと降り注ぎ、街を茜色へと染めていた。
「………寒い」
一陣の風が吹き、僕はその寒さにぶるりと身体を振るわせた。
それは気温のせいか、それとも級友の彼女から受けた言葉の暴力のせいか、判断は出来ないが恐らく後者だろう。
なまじ悪意も害意もないぶんタチが悪い。
無邪気な言葉だからこそ心を抉り、止めを刺さすには充分過ぎた。
一ツ橋束、恐るべし。
学び舎たる校舎を後にし、今までどうやって移動したのかの記憶が曖昧だった。
制服の胸ポケットに納めた懐中時計を開き見れば、時刻は十七時半を廻ろうかというところだった。
「ーーーー何とか、間に合ったな」
先程まで意識の外でうっすらと聞こえていた車の走行音や人々の雑踏と喧騒は、もう聞こえない。
静寂。
見上げる先には、一軒の店。
ビルとビルの間、囲まれたように佇む平屋。
煉瓦調の壁面には無数の蔦が這い絡み、一見すれば朽ちた廃屋かと感じさせる佇まいだが、蔦が絡まる小窓から漏れる淡い光と軒先に掲げられた看板。
喫茶店『迷宮』は今日も今日とて絶賛営業中だった。
『知人からの呼び出しを』
一ツ橋さんに言ったことに嘘はない。
けれど語弊はあったかもそれない。
知人、とは確かに言ったが、僕は『友人』或いは『友達』とは一言も言っていない。
連絡、メールを送ってきた彼女とは友人や友達ではないのだから。
実際問題、僕へと呼び出しのメールを送信した彼女は友人でも友達でもなく。
友達より近くて。
親友というには遠すぎる。
家族というより繋がりは浅く。
家族というより絆は深かった。
友達とは言えない。
親友とは言えない。
ましてや家族などと言えるハズがない。
それでも僕らは。
確かに『仲間』だった。
硝子窓が填め込まれた古めかしい木製の扉を開けば、鈴の音。
扉の上部に取り付けられたドアベルが鳴ったのだ。
その音に反応して扉から見て真正面に位置するカウンターテーブル、その奥にいた初老の男性が顔を上げた。
僕を見て、薄く笑みを浮かべる。
朗らかな優しい笑みだ。
この喫茶店『迷宮』の店主だ。
僕は軽く会釈をしてから入店した。
店内はさほど広くはない。
カウンターテーブルに五脚の椅子と四人掛けのテーブルが三つあるだけ。
長い間丁寧に使い込まれたテーブルや椅子は飴色の輝きを放っていた。
お客らしき姿はない。
「おまちかねだ」
店主の低く通る声。
店内には僕と店主以外誰もいないが、僕は頷く。
室内の片隅に置かれた置時計へと歩を進める。
間近で見ればその大きさに圧倒されるだろう。
人一人が悠に入れる横幅に高さがある長方形の上部にはローマ数字のアナログな時計版があり、下部には振り子時計が左右に揺れているが、至近距離で見ればそれが高解像度の映像だと解る。
見た目は古い物だがその実中身は高度な技術が詰め込まれているのだ。
その内の一つ。
声紋照合のために、僕は口を開く。
「円堂シロト、役名はーーーー」
さぁ、行こう。
異端へと。
僕の眼前、置時計の振り子時計の部分が左右に開かれた。
音も無く開かれ、現れた『入口』は人一人が余裕で這入れる大きさだった。
そして先に続くのは下へと降る階段。
照明のない階段は延びるほどに闇に染まっている。
僕は一歩、確かにその階段へと脚を踏み入れた。