遠藤織枝とろくでもない魔術師
走る。
家に向かって一直線に。
行き交う人が何事かと目を瞬かせる。
通りすがりの知人が、ああまたか、と生暖かい視線を向けてくる。
そんな中を、鞄を振りまわしながら、スカートがめくれあがるのもかまわずに、ただひたすらに走る。
怒っていた。
憤怒が体中を駆け巡り、灼熱が頭を焼く。
ともすれば暴走しそうな衝動をかろうじて抑え込みながら、わたしは「ただいま」も言わず家に飛び込んで、そのままの勢いで自室へ駆け込む。
わき目もふらず、ベッド脇へ。
目当てのものはそこに膝を投げ出し座っている。
ウサミディール。
人型サンドバッグの入ったウサギの着ぐるみの片腕を、素早く取り、引き上げる。
「平太郎のぉっ――クソ朴念仁っ!!」
そのまま後ろに回り込むんで、両手を胴に回してクラッチ。
ベッドに飛び乗りながら、背後へのけぞるようにして担ぎ、怒りの咆哮とともに投げ落とす。
――ジャーマンスープレックス!
「……げぶしっ!?」
ワンテンポ遅れて、間近で聞こえた、カエルを潰したような声。
それがウサミディールから発せられたと気づくのに、しばらく時を要した。
「……誰?」
目を眇めながら、ベッドの上で二つ折りになったままの着ぐるみに向け、声をかける。
ウサミディールの中に人が入っていることに関しては、もはや「またか」という感想しか抱きようがないが、声は聞き慣れないものだった。
「うーむ」
低いような、高いような、独特の声色で、着ぐるみは唸り声を発し。
「小娘、まずはワシの体を起こせ」
尊大な口調でそう言った。
ウサミディールの体は、さきほどからピクリとも動いていない。
◆
「ふう、やれやれ。乱暴な娘だ」
ウサミディールを起こし、ベッドに持たれかけさせると、謎の人物はそう言った。
不可解だった。
抱えてみてわかったが、ずいぶんと軽い。
20㎏あるかないか、その程度の重さだ。
それに持った感触も、使い慣れた人型サンドバックとまったく変わらない。
中に誰も入っていないにもかかわらず、ウサミディールがしゃべっているのではないかという疑惑さえ覚える。
「あなたは?」
「ワシはベイ。偉大なる魔術師である」
どうしよう。
わたしは冷や汗が頬を伝うのを感じた。
着ぐるみを着込んだ謎の人物が、自分は魔術師だとか言いだした時、どうすべきか。
いままで蓄積した経験から得た常識を総動員しても、適正な対処法は割り出せない。
「とりあえず、ライガーボムでも喰らわせるべきか……」
「待て待て、不穏な動きを止めろ!」
焦った声で制止を呼び掛ける自称魔術師。
「小娘、貴様のお粗末な脳では理解できまいが、教えてやろう。ワシは貴様が知る世界よりはるか彼方、異なる世界より、偉大なる魔術の力にて思念を飛ばし、この形代を通じて貴様と交信しておる」
よほどあわてたのか、自称魔術師は一息に言いきった。
この不審者の言葉を、しばしかみ砕いて咀嚼する。
「えーと。つまりあなたは、わたしのウサギに乗り移った幽霊みたいなものってこと? どれどれ」
確認のため、ウサミディールの頭部を外してみる。
「ぬわー!? 貴様! 躊躇なく頭をもぎ取りよったな!? 形代だと言ったろうが! 痛みがあるのだぞ! なんと恐ろしい小娘だ!」
中身は、なんの変哲もない人型サンドバッグだ。
いったいどこから声が出ているのか。細かく調べる前に、自称偉大なる魔術師の猛烈な抗議を受け、しぶしぶウサギの頭を元の位置に戻す。
「ふう……まったく、野蛮人め。異界の客人に対する礼儀というものを弁えるがよい」
ベッドにもたれかかったまま、悪態をつく自称魔術師。
ちなみに。
現状把握している、ウサミディール・ベイ氏について。
・魔術師を自称(未検証ゆえ現状自称止まり)。
・自宅への不法侵入(精神のみとはいえ、不法侵入は不法侵入である)。
・わたしの大事なストレス発散用愛玩人形を不当に私有化している。
投げるか、極めるか、蹴り飛ばすのが相応な対応だと思うのだが、気のせいか。
「で、その異界の客人は、なにをしにここへ来たの?」
「そうさな。話をしに来た」
「……どういうこと? なんの話?」
「貴様の居る世界は、ワシの居る世界より、最も離れた界域に存在する。この偉大なるワシの魔術を持ってしても、劣悪な精度でしか交信できぬほどにな」
「声が変な感じなのもそのせい? でも、その割りには痛がったりしてなかった?」
「呑みこみの悪い小娘め。先も言ったが、形代なのだ。劣化すれども衝撃は伝わるに決まっておろう。この野蛮人が――あ、ちょっと、止めてくれるがいい」
前蹴りをかまそうとした気配に気づいたのか、急に弱気になる自称偉大なる魔術師様。
「とにかく、ワシは貴様と話がしたいのだ」
「たとえば、どんな話? 国とか、文化とか?」
「そこまでのことは求めておらぬ。小娘から偏狭な主観の交じった、歪んだ情報を集めるよりも、この聡明にして人類史に残る天才であるこの偉大なる魔術師ベイが、段階を経て情報を得る方が、よほど効率がいいというものだ」
「ふーん。じゃあ、あなたはわたしと、なんの話をしたいの?」
「いま行っているような会話だ。現状でも、聡明なワシはすでに、我らと貴様らが精神的に、非常に似通っていると察しておる」
言葉が真実だとすれば、この自称魔術師は実際たいした人間なのだろう。
しかし言動がいちいち腹が立つ。
「それに、外見もな。劣化した映像情報ゆえ、細かな部分は把握できんが、我らと貴様らの外見は、類似する点が極めて多いようだ」
「そうなの?」
「うむ。貴様の外見的特徴は、我が世界の人間の、雌性体、それも幼年のものと一致する……ぶべっ!?」
胴に向けて前蹴りをお見舞いすると、自称魔術師はワンテンポ遅れて悲鳴を上げた。
「な、なにをしよるか小娘!?」
「人の外見を幼いなんて言いやがったからに決まってるでしょ! 悪かったわね、これでもちゃんと大人なんだから!」
「……ふむ? つまりこの世界の人類は、幼い外見のまま成人……ぶごぉっ!? な、なるほど、推察した。貴様が例外的に幼いだけで通常の雌性体は我が世界の人類と変わらぬ、とおおおおっ!? ぶげらっ!?」
ライガーボムを喰らい、沈黙するウサミディール・ベイ。
女としての敗北感を噛みしめながらの虚しい勝利である。
「さ、察したぞ」
虫の息のような声で、自称魔術師が口を開く。
「貴様はおのれの外見が幼いことに、非常な劣等感を抱いておる。刺激されれば暴力で返すのは、貴様の生来の凶暴性、というよりよりも、劣等感の強さに起因する。
この世界で成人年齢にも関わらず、幼い外見を持つことが、社会的に危忌の対象と言うわけでもあるまい。ならば、その劣等感の強さがどこから来るか、考えられる可能性は、多くはない。
それにお主の怒りは、そうさな、放出ではなく、集中。ある一点に向けられている。この形代に暴力を振るうのは代償行為だ。おそらくは――」
ぞっとした。
細やかな分析は、頷きがたいところもあるが、否定できない。
そしてウサミディール・ベイは言った。
「――貴様、番いたい雄性体がおるな? しかも、見向きもされておらんとみた!」
机の上からの奈落式バーニングハンマーをお見舞いしたが、わたしは悪くない。
◆
「うごごごご、乱暴な小娘め……」
虫の息といった風情で、か細く吐き捨てる自称魔術師。
それにたいして、ひとまず矛先を収めたわたしは、ため息を吐きだした。
「あんたの言う通り、好きな人は、いる」
降参するように、わたしはつぶやく。
言い方は気に入らないが、自称魔術師の分析は正確極まりない。
「――でも気づいてくれない。こんな体だし、幼馴染だし。相手朴念仁だし。わたしは魅力的じゃないし」
「ふむ。どこでも――これほど遠い世界でも、男女の悩みは変わらぬものよ」
含蓄ありげな言葉を吐くウサギの着ぐるみ。
よく考えればシュールな絵面だ。
「そうなんだ」
「聞かせろ。貴様にとってその男はどれほど恋しい人間か。恥ずかしがることはない。どうせ神代の人が老いず、飢えず、疲れずに現在まで駆け続けていたとしてもたどり着けぬ、それほど遠い世界の人間よ」
「……そうだね」
その声は、どこかやさしいもので。
釣られるようにわたしは話し始める。
「平太郎といる時の、ふわっと包まれてる感覚が好き。ずっと一緒に居たいと思う。片恋慕なのはわかってるけど、それでも、平太郎がわたしのこと妹みたいにしか思ってないと知ってても、あきらめられない。だってわたしは、平太郎のこと、心の底から……好きだから」
そう言って、わたしは息を吐く。
顔が熱い。耳まで赤くなっているのがわかる。
ありったけの想いを、あと戻りできないレベルで吐き出したせいで、腰砕けになっている。
「小娘、よい話が聞けた」
「そりゃあ、よかったね……わたしはすっごい恥ずかしいんだけど」
恥ずかしさから、不貞腐れたような口調で返す。
「安心しろ。ワシの魔術的勘が言っておる。貴様の願いは早晩叶う」
「本当?」
「本当だ。ふふ、では、この偉大なる魔術師ベイが貴様に魔術をかけてやろう。よい話を聞かせてくれた礼よ」
動かぬままに、自称魔術師は言った。
「魔術?」
「恋愛成就の魔術だ。なに、簡単なものだ。貴様は相手に向かってこう言えばいい。“あなたが好きです”と。ワシの魔法は必ず貴様の告白に力を与えるであろう」
どきどきしてる。
妙な高陽感。魔法の力添えがあるなら、ひょっとしてあの鉄壁の朴念仁も堕ちるかも。そんな思いが頭をよぎる。
「それでは、よい会話であったぞ、小娘」
「そう。あなたも、ありがとう」
「では、さらば――お母さんただいまー。誰とお話してるのー?」
突然。別人の声が割って入った。
声音には聞き覚えがない。しかし。
喋り方の特徴が、非常に、わたしの愛する妹にそっくりだった。
「それ何? おっきい携帯――ふははは、ではさらばだっ!!」
声が途切れる。
しばし放心。頭の中で、起こった状況を整理し。
わたしは無言でウサミディールの頭を取り払った。
人型サンドバッグを開けると、中には無線機らしきものがある。
確定的だ。
こんなことをやらかすのは、母親しかいない。
声が変だったのは、変声機か何かを使ったのだろう。
つまりわたしは、。母親にたいして、本気の本音で平太郎への思いをぶちまけてしまったのだ。
無線機を握りながら、わたしはつぶやく。
「アルゼンチンバックブリーカー、キャメルクラッチ、チキンウィングフェイスロック、ナガタロックⅡ、ストラングルホールドγ……」
「じゅ、呪文みたいに関節技の名前並べるの止めて欲しいなー。怖いから」
無線機から声。
もはや完全に母の口調だ。
「じゃあ母さん、わたしが行くまでに決めといてね。どれがいいか」
「お、お母さん歳だし、関節技とかすごくキツイんだけど」
「それはよかった。全部かけさせてくれるんだ。待っててね。いま行くから」
死刑宣告をしながら。
わたしは母の居るであろう台所へ向かって、ゆっくりと歩きはじめた。