遠藤織枝とろくでもない家族
「ふぅ。気持ちよかったー」
夜、家の階段を昇りながら、わたしはつぶやいた。
風呂上がりのこと。火照る体の心地よさに、思わず頬が緩む。
ドアノブに手をかけ、さあ、今晩はSTFの練習でもしようかと自室の扉を開けたわたしは、そのままの体勢で固まった。
ウサギだった。
わたし愛用のストレス発散愛玩用着ぐるみ、ウサミディールが胡坐をかいて座っている。
最近頻繁に、いろんな人間に被られる気がするが、それでも夜、この時間帯に、というのは初めてのことだ。
しかし誰が入っているというのか。
しぐさから、男だと判断できるけど……人によっては通報も辞さない。
「私だ」
「お父さん!?」
思わぬ声に、叫ぶ。
「っていうか、なんでお父さんまでウサミディールに入ってるの!? 止めて加齢臭がするから! 臭い移るから!」
「……そうか」
床に両手をつき、がくりと首をうなだれるウサミディール。
見ようによってはかわいい仕草だが、中に父親が入っていると思うと、なんだか哀しくなる。
「で……お父さん。なんの用なの?」
「いや」
一息つくと姿勢を正して、ウサミディールin父はこちら似顔を向け、言った。
「――すこしお前に話があってな」
あらたまった話だと察して、わたしは正座して父に向き直る。
「なに? 父さん」
物堅く、くだけたところのない父だが、わたしや妹をひどく大事にしてくれている。
それがわかるから、わたしも父のことは、はっきり言うのも恥ずかしいが、大好きだ。現在進行中でやっている奇行はどうかと思うが。
向かいあうこと、しばし。
父はゆっくりと口を開いた。
「……最近、学校ではどうだ」
「それなりにやってるよ。成績は、わたしあんまり頭良くないけど、そこそこの位置にはいるし」
父の質問に、わたしは素直に答える。
そもそも蘭陵女子は、中学時代のわたしの成績から言うと、相当背伸びして入った学校だ。
それでも、わざわざお嬢様学校に入れてもらって落第点なんて取って父を落胆させたくないので、頑張ってるんだけど。
「部活動などは、しなくていいのか。花とか、お琴とか、お茶とか……あの学校には色々とあるようだが」
なんとなく。
わたしは父の、言葉の裏に隠されたものを察した。
父はわたしの乱暴な趣味――もっといえばプロレス趣味に関して、あまりよく思っていない。
お嬢様学校を勧めてくれたのも、おそらく、すこしはおしとやかになって欲しいという願いからだ。
お花やお琴なんかを勧めるのも、その延長線上。
気持ちは嬉しいし、わたしも父が望むなら、応じることにやぶさかではないのだが。
じつはそのあたりの部活、案外クセモノなのだ。
「うーん。どうも性に合わなくて。周りみんなお嬢様だしね。わたしじゃどうしても浮いちゃうっていうか」
「お前も見習ってくれるといいんだがな……」
「そりゃ、頑張って蘭陵女子に通わせてもらってるんだし、お父さんがそうして欲しいなら、期待にこたえたいんだけど……どうもあのあたりの部活って、初心者向きじゃないっていうか、別のところでちゃんと習ってる人たちのサロンになってるんだよね」
すこしだけ、愚痴をこぼしてしまう。
入学当初、すこしは父の期待にこたえたいと、そのあたりの部活を下見してまわったのだが、初心者お断りの雰囲気に、挫折してしまった経緯がある。
「――まあ、できる限りは、お嬢様たちを見習うように気をつけるけど……お父さん、ほんとどうしたの?」
「いや、たまには娘と話がしたい。それは嘘ではないんだが」
父はどうも言いにくそうな様子だ。
「なに? 言いにくくても、はっきり言ってくれた方がうれしいんだけど」
「その、だな……」
父は、それでもまだ、ためらって。
しばらくして、ようやく口を開いた。
「……“クンカクンカゴロゴロムフー”とはなんだ? 母さんは教えてくれんのだ」
「ああああああああああっ」
父の言葉に、わたしは頭を抱え叫んだ。
「どうした織枝っ!?」
着ぐるみ姿のまま、心配そうに声をかける父。
言えない。
平太郎の匂いに包まれたいがために着ぐるみ着こんでごろごろ転がりながら悶絶してる様子だ、なんて言えるはずがない。
さすがに女の仁義として、母も父に詳しいことは教えていないみたいだけど……母の口から伝えてもらった方がマシだったかもしれない。
そうすれば、すっぱりとあきらめもついて開き直れたのだろうけど、いまさら自分の奇行について、あらためて説明しろと言われれば、相当の覚悟がいる。でも、誤魔化すのも……嫌だ。
「実は……」
わたしは覚悟を決めて、一から説明した。
わたしが、お隣さんの幼馴染、平塚平太郎のことが好きだということ。
その平太郎が先日、わたしの部屋を訪れて、なぜかウサミディールを着込んだこと。
それから。血迷って、平太郎の匂いがしみ込んだウサミディールを着込んで悶え転がっていたこと。
父はそれを難しい顔でうなずきながら聞き。
わたしが説明を終えると、携帯を取り出して、どこかへとかけた。
「もしもし、良蔵。私だ」
良蔵は平太郎の父の名だ。
おたがい幼馴染。四十を越え、別々の職についたいまでも、ときどき会っては盃を交わす仲だ。
「大事な話がある。久々に飲まんか」
父はそう言ってから落ち合う場所と時間を打ち合わせして、通話を切った。
「織枝。すまんが、いまから出かけてくる」
そう言って着ぐるみを脱ぎ、あわただしく部屋を出ていく父の真剣な様子に、なんの用、とも聞けず、わたしは黙って見送るしかなかった。
◆
父は、なんの話をしに、平太郎の父と会うのか。
直前にあったわたしの、例の件が関係しているのは確実だが、いまいちわからない。
着ぐるみの頭を抱えながら、考えていると、メールの着信音。
差出人は母だ。今回の一件の張本人――というか、完全なる戦犯。
件名は“大変!”
本文は“お父さんが本気を出したよ! ひょっとして平太郎ちゃんと織枝の婚約が決まっちゃうかも!”
「ちょ!?」
思わず声を上げる。
たしかに。
わたしが平太郎のことを好きだという事実は父に伝わった。
「でもでも、だ、だからって……こ、こ、こんやくだなんて……まだ早い――じゃなくて、うわあああああああっ!?」
恥ずかしさに顔を隠しながら、ひとしきりごろごろ転がる。
メールが来た。
“うちの娘がまた転がってるよ!”
わたしは気持ちを鎮めるように、深く息を吐く。
それから携帯を床に置き、震える手でゆっくりと着ぐるみに人型サンドバックを詰め込む。
この母は、なんでいちいち娘の奇行を周囲に報告してまわるのか。
こみ上げてくる恥ずかしさをごまかすように、ウサミディールの股と肩に手をかけ、一気に掬いあげると、急転直下ベッドに向けて頭から落とす。
――エメラルドフロージョン!
「ぶふっ!」
なぜかベッドが悲鳴を上げた。
「……」
わたしは無言で布団をめくる。妹がいた。
遠藤恵理。
お人形さんのような顔立ちをした、二つ年下の妹だ。
頭を押さえながら、彼女はわたしと目が合うと、「やば」と口にした。
「恵理」
「お、織枝姉ぇ、いきなりエメラルドぶつけてくんのはひどいと思うな」
あはは、と口の端を引きつらせながら、恵理は弱い抗議の声を上げる。
でも、聞かない。
「あんた、聞いてたでしょ。見たでしょ。わたしが……いろいろ言ったりやったりしてたこと」
「聞いてたし、見てたけど、これは不可抗力っていうか……いつもの相談しに来て、ウサミディールをかぶろうと思ってたら、父さんが入ってきて、思わず隠れちゃったっていうか……ごめんなさい?」
首を傾ける妹の足を無言のまま取ると、そのままリバースハーフ・ボストンクラブをかける。
片足を極められ、恵理は悲鳴を上げた。
「お姉ちゃんごめんギブギブっ!」
バンバンと布団を叩く妹。
聞かずにそのままじわじわと……
「――と、お父さんにすこしはお嬢様を見習うって約束したばっかりか」
思い出してぱっと手を離す。
「今日のところは優しいお姉ちゃんでいてあげるから、安心なさい」
「うう、ありがとうお姉ちゃん……でもすでにけっこうダメージ喰らってる気がする」
布団に突っ伏したまま、妹は呻くようにつぶやいた。
「……で、恵理、何の相談があったの?」
動かない妹にたいして、わたしはベッドわきに腰をかけながら尋ねる。
彼女はくるっと半回転して、そのままの姿勢で口を開いた。
「いや、こないだの続きだったんだけどね? 最近仲いい男の子の行動が、やたらと不審なんで、どうしたものかなって」
「また? 前もそんなこと言ってて、とりあえず様子見に落ち着いたんじゃなかったっけ? たしかあのときは、その子がいきなりメールで自分の性癖暴露してきたんだっけ?」
「それ以外は普通だったんだけどね……それからもちょくちょくおかしくて……なんか超絶決め顔の写真といっしょに、俺はビッグな男だぜ! なんて文章送ってきたり、かと思えばわたしと友達に見たかった映画の券を送ってくれたり、いきなり土下座してきたり」
たしかに意味不明な行動だ。
だけど、理由を求めるとすれば、やっぱりひとつしかない気がする。
「その子、恵理のこと、好きなんじゃない?」
「……やっぱり、そうなのかな?」
すこし気恥かしげに、妹は頬を染めた。
姉の欲目抜きにしても、そのしぐさはすごくかわいい。
くだんの男の子の行動はともかく、気持ちは理解できなくもない。
「どうもね、努力が変な方向性に暴走してる感が」
「お姉ちゃんみたいに?」
「言わないで、凹むから」
妹の鋭い指摘に、わたしは弱く返した。
あらためてそう言われると、身につまされて気分が沈んでくる。
「まあ、でも、恵理が良かったら……」
わたしは妹の横に寝転がりながら、提案する。
「一度その子に直接話聞こうか?」
なんにせよ、かわいい妹の悩みだ。協力を惜しむつもりはない。
◆
話しこむことしばし。
相談の末、段取りが決まると、妹は「おやすみ」と自室に戻っていった。
ようやく、一息。そうなると、やはり父が出かけた理由を思い浮かべてしまう。
母の言う通りなら……父は、わたしと平太郎の結婚の約束を、平太郎の父と交わそうとしている。
どきどきする。
ちょっとズルイと思うけど。
平太郎にとっては迷惑かもしれないけど。
それでも、わたしと平太郎が結ばれるなら。それがかなうなら。やっぱり――嬉しい。
どきどきがとまらない。
否応もなく、窓越しに見える部屋の中に居るだろう平太郎のことを意識してしまう。
平太郎。
平太郎。
平太郎。
心の中で平太郎に何度も声をかけ。
――なんていうか、重いなあ。
自覚してため息をつく。
なんというか、気持ち的にはさっぱりとありたいと思うのに、平太郎が絡むとどうにも粘着質になってしまう。
それから、ずっと悶々とし続けて。
深夜ちかくになって、ようやく父が帰ってきた。
「ただ今」
と、部屋に入ってきた父は、手に持ったものを、わたしに優しく手渡した。
それが何なのか理解して、わたしは目が点になる。呆然とするわたしを尻目に、父は至極真面目な顔で言う。
「平太郎くんの肌着を貰ってきてやったぞ」
どう答えればいいのかわからない。
つまり父は、わたしと平太郎の許婚の約束をしに行ったのではなく。
わたしの奇行を性癖と理解し、その欲求を満たすために平太郎の肌シャツを彼の親からもらってきたのだ。
……父に理解がありすぎて本気でつらい。
顔を耳まで真っ赤にしながらうなだれていると、メールが鳴る。
嫌な予感がする。見れば、やはり平太郎からだ。恐る恐る本文に目を通す。
“幼馴染として、いち常識人として、その性癖はどうかと思うと忠告しておく”
この日、わたしは父の前で、本気で泣いた。