ムッシュ
私は勝手に彼(?)をムッシュと呼んでいる。時々、夕食に立ち寄るファミリーレストラン。夕食時も混雑していない。私は大きなテーブルで、小さな夕食をとるのが好きだ。 今日はミラノ風ドリアとトマトサラダ。気が向けば仕事もする。とりとめのないことを考える。派遣社員は、社員のことを社員さんと言う。蔑視か、羨みか。もちろん私もそう呼ぶ。同じ仕事をしながら待遇がまるで違う。月給と時給の違いは大きい。会社の都合でいつ首を切られても……文句は言えない。ああ、こんなのでいいのかなあといつも思う。年齢は容赦なし。いつの間にか三十路が迫ってきた。結婚……。気の小さい私が、他人と暮らしていけるだろうか。それも男と。ムッシュが来た。彼がメニューを広げる。メニューにつけられた番号を押す。ボタンはムッシュの胸にある。
「ミラノ風ドリアとトマトサラダ。ありがとうございました」ムッシュは復唱する。
料理を待つ間小説を読む。「老人と海」ヘミングヴェイ・福田恆存訳。短い小説を何度も読む。薄い本は、私のどこにでも滑り込ませることが出来た。
「この男に関する限り、何もかも古かった。ただ眼だけがちがう。それは海と同じ色をたたえ、不屈な生気をみなぎらせていた」
海と同じ色。長い間、海を見ていない。次のお休みに行ってみようか。海が見たくなる。
「お待たせしました」
ムッシュが料理をテーブルの上に置く。
「ありがとう、ムッシュ」
私は声に出さずに言う。
冬の日、仕事で遅くなった。ファミリーレストランは閉まっているだろう。コンビニで何か買って帰ろう。色々考えながら、冬の夜道を歩いた。ファミリーレストランに電気がついていた。何気なく覗くと、ムッシュがいた。床に掃除機をかけていた。彼は眠る必要も、食べる必要もない。私はそんなムッシュを見ていた。
年が明けても、私の日常は変わらない。会社へ行って働いて、家に帰って眠る。去年の、もう去年になった、天皇誕生日に海を見に行った。誰もいない浜辺に座って海を見ていた。寄せては返す波を見ていた。私はこんな所で何をしているのだろう。友達もいない。正月は家に帰ろう。でも帰らなかった。もう家には私の居場所がない。ムッシュのことを思った。私はムッシュと同じだ。
今日は思い切って、「お子様ランチ」を注文した。ムッシュなら……。「お子様ランチ。ありがとうございました」と復唱する。ウェイターが確認に来た。すごくいやな気分になった。私は思わず言ってしまった。
「おかしいと思う? 君」
「機械ですから」
私は立ち上がった。
「もう、いい」
その日、私は夕食を食べなかった。
雪が降った。今年はよく降る。三回目。私はいつものファミレスにいる。今日もムッシュがいない。雪だから客も少ない。車はのろのろ運転だ。車のライトで浮かび上がる雪の白さは美しい。とっくに冷めてしまったコーヒーを前にして、深いため息をついた。ムッシュがいないレストランは、私の中で急に色あせていった。ウェイトレスが何回目かの水を注いだ。
「ありがとう。ここにいたロボット、近頃見かけないけれど」
「ああ、いなくなったみたいですね」
「どこへ行ったの?」
「知りません、何なら店長を呼びますが」
私は少し考えた。
「すみません、お願いします」
私は何を考えているのだろう。
ほどなくやってきた彼に見覚えがあった。お子様ランチの時の彼だった。あの時は若く見えたが、三十を少し超えていると思う。彼も私を覚えていた。
「あの時の」
彼は私の前に腰掛けた。
「ロボ・ボーイのことで?」
「ええ」
「彼は試作品だったんです。問題がありました。その一つは子供です。怖がる子供といたずらする子供。それと……」
彼は言いよどんだ。
「私の主観なんですけれど」
彼が話し始めた。とても不思議な話だった。
「初めは重宝していたんです。食べないし、休憩時間もいらない。文句も言いませんしねぇ。一日中働く。閉店後の掃除は任せられる」
だけどムッシュは少しずつ変化していった。
「私らにだって、苦手なお客様はいます。人間ですからね」
ムッシュの態度が、客によって微妙にちがってきた。そっと音を立てずに水を置く客と、少し乱雑に置く客。
「ロボ・ボーイの接客態度が悪い客は、私らが苦手だと思う客と一致しているんですよ」
それが段々と激しくなってきた。水をこぼすようになってきた。やくざに殴られると、反撃した。
「それと」
彼は言葉を句切った。
「彼は眠るようになった」
「眠る」
「私にはそう見えました。無反応になるのです。そういうことで返品しました」
「今はどこにいるのですか」
「敦賀だと聞いています」
「敦賀?」
「福井県じゃないですか」
福井県と言われても分からない。確か北陸だ。
「何なら、本部に聞いてみましょうか?」
「結構です。聞いてみただけですから」
「それはそうですね」
彼は出口まで送ってくれた。
「雪道は滑りますよ。気をつけて」
私の心は何年ぶりかで弾んでいた。敦賀へ行こう。ムッシュを探そう。
金曜日に敦賀へ行くことにする。久しぶりに休みをとった。昼過ぎに京都駅で精進弁当を買った。ちょっと迷ったが缶ビールを一本買った。二時間足らずの旅だが、一泊することにした。一人旅は何年ぶりだろう。短大の時はよく一人で出かけた。というより、人と旅することが出来なかった。枕を並べて他人と寝ることが出来なかった。一人旅は何も起こらない方がいい。ぼんやりとさまようのがいい。過ぎ去っていく時間の中で、私は消えていく。どこにも私はいない。私は風になる。誰にも見えない風になる。
車窓に琵琶湖が見えている。琵琶湖が見えなくなると、急に車窓が暗くなった。殺伐とした風景になった。雪が降り始めた。風も強いのだろう。黒と白の世界だ。私はどこへ行こうとしているのだろう。何を求めて。
敦賀は寂しい駅だった。目立つ色はなく、光の少ないモノクロ写真のような光景だった。線路やホームがたくさんある。雪はなかった。寒さが人の口を重くさせていた。こんな所にムッシュはいるんだ。昨日、ネットで、ロボ・ボーイで検索した。ムッシュがファミレスで注文をとる様子が出ていた。橋本製作所。原発の近くにある。敦賀湾に夕日が沈む頃、バスが来た。敦賀半島にある民宿へと向かう。通された部屋は二階で、近くに海を感じた。カニはあまり好きではないので、お造りをたのんだ。ビールを一本。小食で、グルメではないが、魚はおいしかった。明日は十一時の約束だ。海に行ってみよう。
朝は十時に宿を出た。灯台が見えた。あそこまで行ってみよう。灯台の扉は開いていた。作業服を着た人が二人いた。
「見学してもいいですか」
いつもなら言わない言葉が出た。二人は驚いたように私を見た。
「いや、いいです」
「かまわないですよ。どうぞ」
彼等は一月に一度の点検に来ているのだと言った。螺旋階段を上がる。無限階段というだまし絵を見たことがある。最上階に着いたと思ったら、そこは一階なのだ。上がるのと降りるのが重なった空間。長い螺旋階段を上がりながら、恐れた。
日本海は、暗く、荒れていた。宿で、おにぎりを作りましょうかと言ってくれたが断った。他人の手で握られるのがいやだった。昨日駅で買ったパンを食べた。荒れている海には何もない。私はコートの襟を立て、タクシーを呼んでもらうため、宿に帰った。
橋本製作所は原発のそばにあった。原発向けのロボットを作っているのかもしれない。ムッシュは危険な場所で働かされているのだろうか。受付で、柳原という人を呼んでもらった。痩せた童顔の男が出てきた。
「ロボ・ボーイのことで来られた村瀬さんですね?」
「はい。譲ってもらえますか?」
「まあ、倉庫にいますが。修繕の方が高くつくんですよ。でも開発費が結構かかっていますから、捨てるのもちょっと。回路を取り替えました。何に使われるんですか」
私は黙った。
柳原さんはまあいいやという感じで、
「上司と相談しましたが、二十万円でいかがですか」
思っていたより安い。五倍でも買うつもりだった。
「大丈夫です」
「それじゃ宅配で送ります」
私は住所を書いた。彼は振込先を書いた。
「すぐに、送りますよ」
「えっ、振り込むのが遅れるかもしれません」
「全然かまわない。あなたはそんな人じゃないから」
ちょっと上目遣いに私を見て、
「もう一人、あなたと同じことを言ってこられた方があるんですよ。タッチの差であなたの方が先だった。あっ、来られましたよ。多分あの人だ」
ドアを開けて入ってきた男に見覚えがあった。ファミレスの店長だった。彼ははにかみながら近づいてきた。
敦賀まで一緒のタクシーで帰った。車内では一言も喋らなかった。
駅に着くと、
「僕はもう少し先に行ってみようと思います」
と、言った。
私は京都に帰ると言った。
一回だけあの長いトンネルを通ったことがある。出口がないような長いトンネル。ずーっと暗闇の中にいるようで怖かった。敦賀は私の終着駅だ。
「それと」
彼は言いよどんだ。
「あなたの家に行っていいですか? 私は水村といいます」
彼は名刺を出した。水村優。優の字にユウとふりがながあった。
私はしばらく黙っていた。彼も言葉を続けなかった。私は名刺を持っていない。私の仕事には名刺が必要ではなかった。私は手帳を出し、私の住所と名前を書いた。携帯の電話番号も書いた。電車の時間が迫っていたので、私はホームへ急いだ。振り返ると彼が手を振っていた。私は無視して、ホームへの階段を上がった。柳原さんが、帰りがけに言った言葉が突然頭に浮かんだ。
「ロボ・ボーイが死ぬ日が来ます」
「死ぬ……」
「全機能を停止する日です」
私は何故か分かるような気がした。彼は続けた。
「明日かもしれないし、百年後かもしれない」
日曜日にムッシュが送られてきた。
「ムッシュ(ロボ・ボーイ)が来ました」と優にメールを送った。
「月曜日の午後八時に伺います。ムッシュとの再会が楽しみです」
「了解」
久しぶりに再会してスイッチを入れた。メニューボタンを押した。当然お子様ランチ。
「お子様ランチお一つですね。ありがとうございます」
懐かしい声が聞こえてきた。
「ムッシュ。君の名前はムッシュ」
「私の名前はムッシュ。名づけていただいてありがとうございます」
「ムッシュ」
「はい」
「聞いてもいい。君には心があるの?」
「こころ……。分かりません。プログラムされていません」
私はムッシュをキッチンに連れて行く。コップを取り、蛇口を押す。
「できる?」
「はい」
ムッシュは正確に私の行為をまねる。私は拍手する。
「完璧だよ、ムッシュ。私についてきて」
私のマンションは二DKだ。一部屋は机とパソコンを置いて書斎ふうに使っている。もう一つの部屋は寝室。
「掃除をお願いね」
彼自身が掃除機になっている。掃除をし始めたので慌てて言った。
「いいの、明日からで」
ムッシュは頷いた。
「分かりました。あなたの名前は?」
「私は村瀬瞳」
「私はなんて呼べばいいのでしょう」
「瞳でいいよ。ひとみって呼んで」
「ひとみ」
「はい」
「とても素敵な名前ですね」
私は再会を祝して、ワインを抜いた。
「ムッシュ、君と私に乾杯」
月曜日の午後八時。優はきっかりにやって来た。ダイニングに通す。ムッシュがお茶を運んでくる。
「ムッシュ、こんにちは」
「いらっしゃいませ、店長」
「店長はいいよ。優と呼んで」
「こんにちは、ゆう」
その日は、三十分ほどして優は帰った。
「また、来てもいい」
「いいよ、この時間ならほとんどいる。いない時はメールする」
「ありがとう」
一週間に二回ぐらい優は来た。時々泊まっていく。一つしか布団がないので、彼は寝袋を持ってきた。私は吹き出した。私とムッシュは寝室で眠り、優は書斎で眠った。書斎のパソコンは寝室に移した。二つの部屋はダイニングに面していて、手洗いに行く時もお互いの部屋を通ることはなかった。部屋の個別性は保たれていた。
私は彼のことを何も知らない。結婚しているのか、子供がいるのか、何も知らない。年令さえ知らない。私達は向かい合う。相手が何者かは関係がない。前にいる人が彼だ。私が知っている以外の彼を知りたくない。私達は向かい合い、とりとめのないことを喋る。テレビのニュースだったり、新聞だったりする。私達の間にセックスはない。だから、向かい合うことが出来る。優は時々朝ご飯を作る。おいしいと言うと、とても嬉しそうな顔をする。夜は、ムッシュと私が枕を並べて眠る。平穏な一日が過ぎていく。
春になった。私は春が嫌いだ。春は生殖のにおいに満ちている。性器である花は咲き乱れ、生殖を担う虫や鳥が飛び交う。なんていやな季節だろう。優と私とムッシュは一日中部屋の中にいた。珍しく休みが一致したのだ。テレビも一日中桜を映している。昼食後、事件が起こった。後片付けに動き出すはずのムッシュが動かない。二人はムッシュを見つめた。ムッシュが動かなくなった。
「ムッシュ」
語りかけても無反応だ。
「電池切れかなあ」
優が首をかしげた。
「ムッシュは電池で動いていたの?」
「さあ。でも、energyはFULLだよ」
「死んだ」
私がぽつりと言った。
「死んだ」
優は繰り返した。私は少し泣いた。オブジェになってしまったムッシュを二人で寝室に運んだ。優は私の肩を抱いた。私は目を閉じた。桜の花びらが舞っている。優の涙が私の胸に落ちた。強いものに突かれた。気の遠くなるエクスタシーが私の全身を震わせた。二人は満開の桜の下にいた。優の身体が離れ、やがて、降り注ぐ無数の桜の花びらの中に消えていった。彼は私の身体にしるしを残した。生まれた瞬間に死が約束される「いのち」。誰もが生を与えられた瞬間、死ぬという運命を与えられる。永遠なんてないんだよ。
私はその命と一緒に生きていこうと思った。