第8話 前編 クエスターの試験
なんだかんだ言って、結局2万文字になってしまいました。
これ位無いと落ち着かないタチなのでしょうか。
なので前編後編と分けさせていただきます。
誤字脱字がありましたらご指摘お願いします。
首都ディスティナで初めて迎えた朝、セイラムは横たわらせていた体をのっそりと起こした。布団代わりに被っていた毛皮の蓑は腰下へめくれ落ち、今まで温かった上半身に少しばかり冷えた空気が流れ込む。
くあっと欠伸をしながら背伸びをしたセイラムは、眠たげな目を手でこすり、暫く同じ場所をジッと見つめていたが、徐々に思考が覚醒して行き自分の今の状況を思い出した。
現在の場所は、川岸近くの少し大きめの木の下。セイラム達は、宿に泊らず野宿をしていたのだ。
先の誘拐未遂事件の一件で知り合ったミキリとシノンの二人が帰る姿を見送った後、ツェイト達はヒグルマ達と屋台の並ぶ川沿いで食事を取った。夜になり、何処で寝ようかと考えたのだが二人はそこで思い悩む。悩みの種は、ツェイト達の寝床である。
城下町の事に詳しいヒグルマ達に訊ねても、ツェイトの巨体が入れる様な宿屋は無いという返事が返って来た。多くの種族達が行き交うこの大都市で、ツェイトの体に合った施設が無いと言う事は、すなわちこのネオフロンティア、もしくはこの連合国内ではツェイト程大きな体の国民はいないのか、本当に稀にしか存在していないのかもしれない。
野ざらし状態で寝る事は想定済みだったツェイトであるが、ならばセイラムはどうするかと考えなければならない。セイラムは普通に入れるのだから、ちゃんとした場所で寝かせてやりたい。それに金銭的な問題もあるので、出来れば低コストが望ましい。
ヒグルマ達の家はどうなのかと考えるが、ツェイトの知り合いとはいえ、男の住む家に若い娘であるセイラムを入れるのはどうなのかと思う。ご近所の女性の住まいを借りる事も考えられたが、それも厚かましいのではと思うし。
其処でセイラムがツェイトと一緒に適当な場所で野宿をする事を提案したのだ。どうせ今後も野宿を機会が多くなるだろうから、今やろうが後でやろうが大差変わらない。と言うのがセイラムの言い分だった。セイラムは子供の頃から狩りでウィーヴィルと一緒に野宿をしていた経験があった為、それほど気にはしていなかったのだ。
結局野宿をする事になった二人。途中、町の中を見回りしている役人達に声をかけられたが、訳を話すと「それはまた、災難だな」と笑うべきか、同情するべきかよく分からないと言った顔でツェイト達を見逃してくれた。
そして、今に至る。雑草が生えていたので、砂利道の上で寝転がるよりかは大分マシではあるものの、それでも布団の上で寝るのと比べれば、やはり快適とは言い難い。
セイラムは、ボーイッシュなヘアスタイルの己の頭をガリガリと片手で掻きながら、先程寝ていた場所の寝心地を思い出し、ちょっとだけ布団の上が恋しくなった。
そこでふと、何となしに頭を掻いていた自分の手を見る。
その手は、肘から指先まで黒く無骨な外骨格で覆われており、本来の昆虫人の女の子の手としてはいささかごつすぎる。足も同様に、膝から下が外骨格で形成されており、脚装を身に付けている様である。靴などを履く必要が無いので便利と言えば便利かと当人であるセイラムは思う。
他にも、セイラムの体は所々同族である筈の昆虫人とは違い、全身に備わっている外骨格の個所がとても多い。手足は言うに及ばず、顔に至っては顎やこめかみにまである為、防護面積の小さいヘッドギアを付けている様である。
物心ついた時から自身の体がこの様な姿をしていたので別段不便さは感じてはいないが、それでも不思議に思った事は度々ある。何故自分は他の皆と違うのか、と。
育ての親であるウィーヴィルとは、血が繋がっていない事は既に知っている。
ならば本当の親は誰なのかと当時のセイラムが訊いた時、旅の途中でお前を拾ったので分からない、と辛そうに顔を歪めてしまったのでそれ以上訊けなくなってしまい、それ以降はその話題には触れないでおく事にした。別にそこまで知らなくても困る状況では無いのだからと、楽観的に考えていたのだ。
だが気にならないと言えば、嘘になる。今も心の奥では、本当の両親が誰なのかを知りたいと思っている自分がいるのだから。
そしてその気持ちは時間が経つ毎に増して行く。それは、あの兵士達が村を襲ってきた時からだ。
何故自分が狙われた。何故、私だけが。
自分の生まれに関係があるとするのならば、一体何の関係がある。別れを告げた村を思い出し、分からない事だらけで頭の中がもやもやしてきたセイラムは少しばかり気が滅入って来るが、頭を振って暗い感情を無理やり振り払った。
気を紛らわせる様に、セイラムは自分と一緒に寝ていた大きな同行者であるツェイトを見た。
(あれ、寝てる?)
まだ出会ってからそんなに日が経っている訳ではないのだが、ツェイトは自分よりも早起きだという印象がセイラムにはあった。
しかし今、その彼が寝ている。セイラムは、ツェイトの寝ている姿を見るのは初めてだった。
普段は蛍火の様に青白い光が灯っている目の部分には何も灯されず、まるで機能を停止したアイアンゴーレムが木にもたれかかっている様に見えるが、外骨格に覆われたツェイトの逞しい胸部が僅かに上下しているのが見えるので、確かに生きている事が分かる。
ツェイトの体重が加わった事で、背持たれている本人の胴体程は太い筈の木が若干弓なりに曲がりかけている。それを見て、いったいどれだけ重いんだと驚きと呆れの混じった溜息をつくセイラムだが、一緒に歩いているときに聞こえる重い足音からかなりの重さが考えられた。
不思議な奴、とセイラムはツェイトとの出会いを思い出す。
凄い力を持ち、友達を探す為に住んでいた森を出て旅をしているという、友人思いな虫の巨人。
兵士達に追われて川に流され、目が覚めたときにその姿を見た時は思わず声をあげて身構えてしまったものだ。それ位ツェイトの姿はなんというか、おっかない。特にあのような状況下におかれていれば尚更警戒しても仕方が無いだろう。
しかし話して見れば見た目の割に、と言えばツェイトには悪いが、随分と理性的で穏やかな性格をしている。尤も、彼女にとってそれ以上に意外だったのは、その年齢が自分と10歳程度しか変わらないと言う点に尽きるのかもしれない。そう言った所が、セイラムから警戒心や遠慮を削ぐのに一役買っていたのは確かだった。
そしてその外見に繋がって来る事だが、その種族だ。
ハイゼクター。昆虫人とは違い、虫としての特徴を色濃く残した姿をした別の昆虫種族。
ついこの間まで聞いた事も見た事も無かった種族ではあるが、セイラムは全身が外骨格に覆われているその大きな姿を見て、自分の体との共通点をほんの僅かながらも感じていた。
だからこそ、セイラムはツェイトを知りたいと思ったのだ。それは男女としてのものでは無く、己自身を知る為のカギとして、そして自分を助けてくれた恩人への純粋な好意として。
ツェイトと一緒にいれば、何か分かるかも知れない
根拠と言えるものは無い。セイラムがツェイトの姿と自分の体を見比べて、何となくそう思っただけに過ぎない。
自分の親のどっちかは、もしかしたらツェイト達と同じハイゼクターって奴なのかもしれないな、とセイラムは自分が気づかないうちに真実に指をかけていたのだが、寝起きの為、あまり頭の回らないセイラムはすぐに忘れてしまった。
その代わりに、ツェイトの寝顔と言う新しい一面を見て気を良くしたセイラムは、調子に乗って何かを思い付く。
辺りを見回し、誰もいない事を確認する。今の時間は太陽が顔を出し始めている早朝時、セイラムは知る由もない事だったが、この時間帯で起きているのは町の警備を任されている兵士達位なものだ。しかもそれは城壁と町の大通り付近に限った事。セイラム達がいる様な場所にまで来る事は、この時間帯だとほとんどない。
人の気配が自分たち以外はいないと分かったセイラムは、ツェイトに気付かれないようそっと懐まで忍び込む。ツェイトの顔を覗きこんでも、まだ起きる気配が無いと分かるとセイラムは、ツェイトの腹にそっと手をやった。
そこは、金属の様な硬さと同時に、何処か弾力の様なものも感じられる不思議な手触りと微かな温もりが感じられた。
その外骨格から感じた微熱は、以前行った電気熱のそれとは違い、生物が自然的に発する熱のそれ。すなわちツェイトが生物として生きている事を証明している。
触っても起きない事が分かったセイラムはこれに調子づき、自分の手の甲でコンコンと軽くツェイトの体を叩いてみたり、指でこすったり、顔を近づけてまじまじと観察したりしていた。
……凄い顔してるなぁ、と見つめる先はツェイトの顔。仰々しい鎧かぶとの様な作りをした外骨格で頭部を覆い、額から伸びた角は、鋭利な刃の様に鋭く、その長さは大太刀(90cm以上)並と下手な刃物より長大でかつ、太い。
目に当たる2か所の真っ暗な部分は、ツェイトが起きている時は青白い光が灯っており、それがツェイトの顔により一層迫力を持たせている。
村の中や、今いる町の中ですれ違う女子供達がおっかなびっくりツェイトの顔を見てしまうのも仕様が無いのかもしれないなぁ、とセイラムは納得すると同時にツェイトに同情した。
(これって、どうなってるんだ?)
ツェイトの顔を眺めていたセイラムは、何となしにその顔に片手を伸ばした。
地面に座り込み、顔を俯かせて寝ている今のツェイトならば、セイラムの身長でもツェイトの頭に何とか手が届く。
目標は、ツェイトの口を覆うマスク状の外骨格だ。セイラムは、あの外骨格の仕組みが気になって仕方が無かったのだ。
何度かツェイトの食事する所を見たが、その際この繋ぎ目が見当たらないマスクが中央から縦に割れ、ツェイトの頬を覆う外骨格の内側にスライドして収納されるのだ。そしてそのマスクで隠されていた口は唇に当たる部分が無く、牙が剥き出しだ。咬まれれば只では済まなであろうほどに鋭く尖った牙が、ギラリと隙間なく生え揃っている。
正直な事を言えば、セイラムはあの口がちょっと怖かった。
怖い事は怖いが、しかしそれでもあのマスク状の外骨格の構造が気になる。怖いもの見たさの、ささやかな冒険心に心を炊きつけられてセイラムは手を伸ばした。
顔に触れたら流石に起きるんじゃ、いやでも。腕を伸ばしては躊躇い、されども再度伸ばすと言った行動を何度か繰り返した後、セイラムは覚悟を決めた。
セイラムの武骨な手……しかしツェイトの手と比べればとても小さなそれが、ツェイトの顔に迫る。
それに伴い、触れてはいけないものに触れてしまう様な、妙な背徳感と高揚感がセイラムの心臓の鼓動を高鳴らせた。指先が目標に接触するのはもう僅か。
だが、そんな空気をぶち壊す様に、突如ツェイトの口部外骨格が勢いよく開いた。
マスクだけでは無い、目にもツェイトが起きている事を示す様に、何時もの青白い光が灯っている。
「ぴゃぁっ!?」
突然の出来事と、ドアップでツェイトの牙が剥きだしの顔を見た衝撃でセイラムは奇妙な声をあげてすっ転げた。
更に運の悪い事に、転んだ際に後頭部が硬い外骨格で包まれたツェイトの足に直撃してしまい、セイラムは眼から火花が飛び出でる様な錯覚を覚えるとともに、頭を抱えて鈍痛に悶え転がってしまった。
「お……おい、大丈夫か?」
まばたきをする様に眼光を何度か点滅させたツェイトは、自分の足に頭をぶつけてして呻くセイラムに、心配そうに声をかけた。
「ほ、星が飛んだ」
「星? もう朝だぞ」
チラリと空を見上げたツェイトが惚けた事を抜かした。
「んな事は分かってるよっ」
自分の体に強打して呻き声をあげるセイラムを心配していたツェイトだったが、取りあえず元気そうなのでホッと一安心。ついでに口の外骨格も閉じておく。
「ところで、何をしてたんだ? 俺の顔に何かしようとしていたみたいだが」
「え!? あ、いや、その……」
ツェイトの問いにセイラム口ごもり、顔から冷や汗が流れ出す。額の触覚は忙しなく揺れ動き、今のセイラムの心境を代弁しているかのようであった。
セイラムが視線が宙を泳ぐ事数秒、何かをひらめいた。
「そう、埃! ツェイトの顔に埃が付いていたんだ!」
それを取ろうとしただけだなんだよ! 手を慌ただしくバタつかせながら、必死になって自身の行動に対して正当性を訴えてくるセイラムをツェイトは「そうか……ありがとう」と微妙な声色でセイラムに礼を告げた。
実は、ツェイトはセイラムが近付いていた頃には既に起きていたのだ。
目を瞑っていたので見えはしなかったが、足音と気配でおぼろげにそれがセイラムだと分かった。しかし当の本人は起こしに来る訳では無く、自分の体を調べ始めたではないか。
ツェイトはそのセイラムの行動に興味がわき、静かに事の成り行きを狸寝入りを決め込みながら見守る事にしたのだ。勿論、度が過ぎるものならばすぐさま叱るつもりだったが、そんな感じでもなかった。
体を調べられている事にくすぐったさを感じつつ、タイミングを見計らって脅かしてやろうと思っていたのだが、セイラムは面白い位にかかってくれた。
事の真相をセイラムに言ってしまっても良いのだが、教えたら教えたで可哀そうな気がしたので、ツェイトは気付かないふりで通す事にした。
そんなツェイトの内心を知らず、セイラムはツェイトが気づいていないのだと思い、必死に弁明しているのだが、本人は気付きつつも知らないふりをしている。これではセイラムが道化である。
「おい、ちゃんと私の話、聞いてるよな!?」
「ああ、聞いてるよ」
「本当に私は埃を取ろうとしただけなんだぞ! 本当だからな!?」
朝空の中、セイラムの元気な声と、鶏の様な鳴き声だけがその一画から響いていた。
「え、試験? クエスターに?」
時刻は朝。町の住民が、今日一日を過ごせるよう精を付ける為に朝食を食べ始める頃だ。
川のほとりで、木で出来たどんぶりに盛られた汁物をのんびりぱくついていたツェイトは、牙が剥き出しの口をポカンと開けた。食事中の為、普段付けているマスクは頬部分の外骨格の内部に収納されている。
今日の朝食の内容はヒグルマ自家製のごった煮である。適当な食料を適当な形に切った後、鍋の中に味噌と一緒に煮込むという乱雑な、良く言えば男らしい料理である。
セイラムもツェイトの隣でお椀に盛られたそれをもくもくと食べながら二人の話に耳を傾けていた。
ツェイトにそんな声をあげさせた張本人であるヒグルマは、何時も背負っている大筒を背負っておらず、身軽な状態で朝の一服――キセルに詰められた煙草を堪能していた。
「なんだ、知らなかったのか?」
「いや……」
セイラムは? とツェイトは訊こうとしたが、セイラムも初めて聞いたらしく、え? 何だそれ? と言わんばかりに目を丸くしていたので彼女も知らないのだろう。
自分達の聞いた登録方法とは違う。ウィーヴィルから教えられた話では、手数料を払って手続きをすればそれで済むものとばかり思っていたのだ。だからシノンと出会う前のあの時は、手早く済ませておきたくて組合の支店へ行こうとしていたのだ。
予想外の内容に、表情のうかがえない顔をしているツェイトではあっても、しかしハッキリと困惑の声が出ていた。
「手数料を払って、手続きをすればすぐに登録できるとしか聞いていないぞ」
「あぁ、十数年前に制度が変わっちまったんだよ。多分それ言った奴は、制度が変わる前の事を言ってたんだろう」
俺達も登録する時受けさせられちまった、とヒグルマが付け加える。まぁウィーヴィルも大分歳を取っている様だから、つい最近起きた制度変更の件については気付かなかったのだろう。
「どうもモラルや教養の無いアホが増えすぎたってのが理由でな、それを見かねた組合の方が新しく設けちまったってのが経緯らしいぞ」
しかめっ面になりながらヒグルマはやや悪辣に言う。恐らくは、そんな極一部の輩の影響で自分達も面倒な試験を受けなければならなくなった事に腹が立っているのだろう。それについてはツェイトもその意見には同感である。おかげで予定外の足止めを喰らいそうなのだからはた迷惑な話である。
しかし面倒な事になった、とツェイトは食べ終えたどんぶりを掌で転がしながら考える。
試験から合格までの期間は最大で2週間、最短で1週間近くかかるらしい。そのアバウトな期間が気になるが、先の問題で発足された試験となれば、何らかの常識が問われる内容になるのだろう。ネオフロンティアの常識を軽く齧った程度の今のツェイトで、果たして合格ラインにまで達する事が出来るのかは、正直な所怪しい。そして、そんな知識の欠如を補填するべく試験勉強をする必要がありそうなので、その期間も含めればどれだけ日にちが掛かるのかが全く見当がつかない。そもそも試験自体の難易度も分からないのだ。
出来れば手早く済ませてしまいたかったが、予想外の長期滞在という憂き目に遭う事になりそうな予感を感じたツェイトは、嫌な事を思い付いた。
――あまり長く留まっていたら、あいつらが来るかも知れない。
あいつら、とはセイラムを狙う兵士達の事だ。町に入り、同郷の知人と出会ってからは極力頭の片隅に追いやっていたのだが、此処に来てその不安が再びツェイトの心の中を占め始めて来た。
村を焼こうとするような奴らだ、この様な大都市で、しかも王が住まう場所を火の海にする様な事をしでかすのかどうかは分からないにせよ、追い付いて来たら何か仕掛けてくる事は考えられる。
他にもまだまだ問題はある。
もし、あの兵士達がこの国に対して犯行声明を出し、目的としてセイラムを要求してきた場合、この国はどのような対処をするのだろうか。
規模の分からない一介のテロリスト風情の戯言など聞く耳もたんと排除に向かうのか、それとも小娘一人を生贄に奉げれば簡単に済む話だと判断して、セイラムを差しだすのか。
そんな状況下に陥った時、自分は、どうするべきなのか……。少なくとも後者に関しては断固として受け入れる訳にはいかない。
どれもこれもが可能性に過ぎない。だが確率はゼロでも無い。
どうする、思い切ってクエスターは諦めるか? だがまだ兵士達は来ていない、早計過ぎる。それに連中が今いないのだから、今のうちに済ませてしまえば良いだけの事、むしろ今がチャンスかもしれない。これを逃せば、次もまた同じ機会が訪れるかと言われれば分からないのだ。
クエスターになる事による今後の利便性と、その為にこの町に留まり続ける事のリスク。果たしてどちらを重視するべきか、ツェイトはどんぶりを近くに置いて腕を組み、二つを天秤にかける。
「何だったら、俺達が使ってた参考書、貸してやろうか?」
此処でツェイトに救いの手が差し伸べられる。しかも少々意外な形で。
「え、参考書? そんなものがあるのか?」
つまり筆記試験があるという事か。
この世界は昔、大きな戦争が原因で文明が衰退していたと聞かされていたので、参考書などと言う単語が此処で出て来た事にツェイトは驚いた。
もっとも、山奥の村であるカジミルの村のウィーヴィルの家に和紙の様な質感の用紙があった事から、意外な事にこの国、または世界の印刷技術や識字率等は低い訳ではないのかもしれない。という予想はある程度出来ていた。村であれなら、国の首都ではそれ以上の物が店に出されている事は想像に難くない。
「ああ、俺達も手持ちの品を金にした後に慌てて買って、2、3日勉強して受かった訳よ」
「……2,3日程度どうにかなるものなのか?」
ツェイトは訝しむようにヒグルマに訊ねた。まさかそんなものがあるとは驚きだ、しかし光明も見えて来た。短期の勉強で受かったと言う事は、さほど難しいものではないものと考えられる。
「まぁな。でも実際の所、2、3日もいらないかもしれねえなぁ……」
そんな言葉を残して一端長屋へ煙草を補充しに戻るヒグルマ。
どういう意味なのだろうかと疑問に思ったツェイトだが、それは後ほど判明する事になる。
「まさか、試験を受ける羽目になるとは」
「ウィーヴィルも肝心な所で話が違うんだもんなぁ……」
「ままならないもんだな、本当に」
良く考えてみれば、十分あり得た話なのだ。しかし、ウィーヴィルの言葉を全て信じたが故に、全く考慮していなかった。ウィーヴィルも知らなかった事態らしいので、ツェイトは彼を恨む気は無い。恨むべきは、そんな試験を導入させる原因となった者達だろう。
ヒグルマから伝えられた試験の話を聞いた二人は揃って川沿いで座りこけ、ぼんやりと川の流れを眺めていた。最初は気晴らしに町の大通りにでも行こうかと考えたのだが、長屋へ帰るときにまた迷うのは御免被りたいし、試験と言う難題が二人の頭にちらついてそんな気にもなれなかったのだ。
「此処で呆けても仕方ない。早速勉強に入ろうか」
「勉強とか苦手なんだけどな……体動かしてる方がよっぽど楽だ」
「そうぼやかない。今の内に苦労しておけば、後が楽になるんだ」
幸いな事に、参考書の厚さは漫画の単行本一冊程度、やれない事はない。それに、試験の日は今から二日後、試験自体も結構頻繁に行っているらしいので、絶望的な状況でもないのが救いか。
セイラムも読み書きは出来るので、後は本人の頑張り次第だ。試験を受けたヒグルマ達の話を聞く限りでは、その筆記試験とやらは問題の問いに対して指定された4つの回答から適切なものを選ぶ四択形式だとの事。記述式にされるよりかはマシかもしれないが、それでも油断は出来ない。
ツェイト達は、ヒグルマ達から借りた紐で綴じられた冊子状の参考書を渋々とめくり、試験勉強に勤しむ事にした。
「ワイルドマックの血って精力剤になるのか、すっぽんみたいだな」
「すっぽん? すっぽんって何だ?」
「え?……あー、亀みたいな奴って言えば分かるかな。その肉が美味いと聞いた事がある」
「へぇー、それってツェイトの住んでる所にしかいないのか? 美味しいって言うんなら、食べてみたいな」
時折脱線しつつも学習していく二人。そんな最中、ツェイト達はページをめくるたびにツェイトは安堵のため息をついていた。
(これは、何とかなりそうだな)
参考書に書かれた内容は、ツェイトにとってはそう難しいものではなかった。
簡単な計算式等が出てくるが、それらは小中学で憶えた基礎的な事を忘れていなければ大したものではないし、記載されていた基本的なモンスター関連の情報は、NFOの物と同じであった。その特性も同じなので取りてて新しく憶える様なものはそれほど多くなく、昔憶えた事を再復習している様な感じであった。
これだったら確かに自分達NFOプレイヤーならそう苦労する事も無さそうだ、とツェイトはヒグルマの先程の言葉に納得した。
勿論注意すべき所はある。例えば○○モンスターの肉を○○の地域の種族達は保存食にしている等、ゲームでは存在しなかった生々しい情報や、この世界の歴史や文化に関わるものだ。特に連合国内は異種族がわんさといるのでそれに付随して、記載されている内容の割合も他のものより多い。まぁ、内容自体はあまり突っ込んだものでは無く、あくまでさわり程度なのでそれが救いだった。
これらは注意しておかないと間違えてしまいそうなので気を付けなければならない。以前ウィーヴィルからは軽く教わっているが、先のクエスターの登録の件もある為、念には念を入れておいた方が良さそうだ。
ツェイトは黙々とページを読み進めては、その大きな指先で器用に参考書のページをめくっていく。
借りた参考書の大きさは、人間サイズで言う所のA4サイズのノート程度。ツェイトにとっては、自分の手のひらの半分も無い大きさ程の、とても小さな物だ。しゅっと、ツェイトの外骨格と紙が擦れる音と共に新しいページを開いたツェイトは、其処で指を止めた。
【エヴェストリア大境界溝】
ネオフロンティア大陸の中心に存在し、大陸を東西に分断するよう割れている、あまりにも巨大な地割れ。
幅だけで数百キロ以上に達し、その長さは大陸を縦に真っ二つにしてしまっている程。深さに至っては誰も分からないと言う謎の亀裂地帯だ。ネオフロンティア大陸の面積は、驚いた事にオーストラリア大陸と同程度の様なので、地図から見れば太い線が引かれている程度にしか見えないが、実際に目にすれば凄まじい光景なのだろう。
NFOの時の世界は、総面積自体は関東甲信越程の大きさだった。それだけでも驚くべき事だが、此方側では何百倍、いや何千倍にまで拡大しているのだ。その広さは世界地図越しだけでは想像だにできないものがある。
この地帯は、大戦争期の頃の影響による地殻変動で生まれたとも、この世界が誕生した時から存在していたとも言われているが、真相は全く解明されていない。多くのクエスター達がその謎を解き明かす為にその裂け目へと降りて行ったらしいのだが、戻って来た者はおらず、何時しかその地はクエスター達だけでなく、この世界の住人達にとって侵入禁止の禁断の場所となった。
しかし、禁止されているもの程やってしまいたくなるのは、知性を持った生き物の性か。制止の声を振り払い、その地を攻略しようとする者はいつの時代にも現れるらしい。
(そして、その境界溝を越えた先には人間達の住む領界がある、か)
ツェイトは再びページをめくり、ある項目に目を通す。
【ヒュミニアン】
ネオフロンティア大陸の東部を領域にもつ種族であり、その人口は大陸で一番多く、種族間連合の総人口とほぼ同じ。
身体能力や魔力に突出したものは無いが、総合的に秀でた種族で、他の種族にも引けはとらない。種族間連合と違い、5つの国によってその領域は統治されているらしい。
連合や、特にヒュミニアン達では大境界溝を越える事は困難なので、海に面した国から船を出して交易を行っている。と参考書には記されていた。
それが無難な所だろうな、とツェイトは交易方法の点について納得する。
何せツェイトの参考書を見る限りでは、この世界の文明では大境界溝を渡って移動などと言うのは非常に危険だ。
溝の幅が数百キロメートル以上あり、底無しと言っても良い程の深さをもつ大境界溝。仮に飛行可能な種族が飛んだとしても、渡り切る前に体力が尽きてしまったら大境界溝へ落ちてしまい、それが死に直結する。そんな危険が伴うのならば海から行く方が遥かに安全である。
(人間の国、いずれは行ってみたいが……)
人間――この世界のヒュミニアンの項目を読むうちに、ふと感傷に浸ってしまったツェイトだが、どうなのだろうかと今の自分の現状を振り返る。今の自分の姿を見た時、ヒュミニアン達はどんな態度を取るのだろうか。
本来は自分も同じ種族である筈なのに、何故だかツェイトは、その距離がとても遠く感じた。
一通り参考書に目を通したツェイトは、はたとセイラムの方を見た。集中して読んでいたからかもしれないが、セイラム方から物音が聞こえないのを不審に思っての事だったのだが、視線の先にあった光景を見てツェイトは外骨格で隠れた口元をひくつかせた。
セイラムは舟を漕いでいた。こっくりこっくりと頭を揺らし、何だか気持ちよさそうにスウスウと寝息を立てているではないか。しかも手元には、参考書の代わりに何故か雑草が握りしめられていた。恐らくは一度取り落した時、寝ぼけて参考書と間違えて掴んだのだろう。肝心の参考書はと言うと、何処か物悲しげな様子で足元に放置されていた。
しょうがない奴だな、とツェイトは困った顔(と言っても、外骨格で見えないが)をしてセイラムの肩に人差し指を乗せ、軽く揺すった。
「セイラム、セイラム」
「う、ん……んー……」
ツェイトに呼びかけでようやくセイラムが起きた。
まだ眠そうな顔でツェイトの顔を見上げたセイラムは、視線をゆっくりと自分の手元へと移し、自分の手に握りしめられた雑草を見てハッとした。
「うわ! 本が草になった!?」
「なるわけないだろ」
こんなんでちゃんと受かるのだろうかと少しだけ、ツェイトは心配になってしまった。
後編へ続きます。