【第一章 発端 】
~エリート~
ドンドンドン~ ドンドンドン~
「田野倉さん、居るのは分かってるんだ。 支払いの期日はもうとっくに過ぎてるんだから、今日中に利息だけでも払ってもらうよ」
古い二階建てのアパートのドアの向こうで借金の取り立て屋が怒鳴っている。
当の本人、田野倉は部屋の隅で息を殺して、じっと取り立て屋が帰るのを待っていた。
「しょうがねぇーなぁー。 また、明日も来るぞ」と渋々取り立て屋は部屋を後にした。
この男、田野倉 賢一は複数のカード会社や、消費者金融から多額の借金をしており、こうした取立てが毎日のように訪れる日々に怯えてながら暮らしている。
元々は、国立大をかなり優秀な成績で卒業し、大手の証券会社に就職して30代半ばでにして課長職にまで就いたやり手のエリート社員であった。
その間、結婚もし2人の子供にも恵まれ、何不自由ない生活を送っていた。
それが今では、妻と離婚し2人の子供達とも離れ離れになり、残されたのは多額の借金とこの6畳にも満たないボロアパートのみだ。 その借金の総額は、5、000万円以上にものぼる。
事の発端は、ある女性との出会いから始まった......
この女性との事に触れる前に、それまでの賢一について説明しておこう。
田野倉 賢一は厳格な両親の元、三人兄弟の長男として生まれた。 父は大学教授で、母は一流のピアノ奏者で躾や教育にはことのほか厳しかった。
そんな両親の期待を一身に背負い賢一は、小、中、高そして、大学も優秀な成績で卒業し、一流の証券会社の[笹井証券]に就職した。 元来、真面目な性格に加え、頭の回転の速さ、物事の理解力、そして何より『人より上に行きたい』という出世欲が他の同期社員よりかなりずば抜けていた。
そして、見る見る内に業績を上げ、他の先輩社員を押しのけて36歳という早さで課長に就任した。
人当たりは決して良いほうではないが、『人より早く出世したい』という欲がそれをもカバーしていた。
前の妻である、美優ともこの職場で知り合った。 3つ年下の美優にとっては当時の賢一は憧れの存在であり、職場の先輩社員から一人の男性として意識するのにそれほど時間はかからなかった。
告白をしたのは美優の方からではあったが、いつしか賢一も自分に対する一途な思いに惹かれていった。
2年の交際を経て、賢一29歳、美優26歳の時結婚した。
結婚後1年後に男の子、更に2年後に女の子を授かり都内にある高級マンションをその翌年購入して、順風満帆な幸せな生活を送っていた。 しかし、この頃から賢一の仕事がそれまで以上に忙しさを増し、休みもない日が多くなり次第に夫婦の間に溝が出来るようになった。
家庭よりも仕事を優先し過ぎる賢一を頭では理解しながらも、寂しさと子育ての疲れから顔を合わせる度に文句が口をついて出るようになった。
だが賢一は、美優の気持ちを理解しようとはせず、まるで美優を避けるかのように仕事に益々のめりこむ様になっていった。
その甲斐あって、若くして出世街道の階段を昇っていった。
ちょうどその頃、先程の女性と出会う事になる。
~転落の始まり~
その女性の名前は、[小山 まなみ]といい、東京銀座の一流クラブ『es~エス~』のキャストで、源氏名は
「雅」と名乗っていた。
賢一がこのクラブ『es』に通い始めたのは、自身の課長就任の約2年程前からで、主に会社の接待で良く使っていた。 会員制のクラブで「笹井商事」自体がこのクラブの法人会員であったがそれとは別に、賢一は年会費100万円を払い個人会員となり、プライベートでも良く通っていた。
その理由は、お気に入りの「雅」つまり、小山 まなみを1人で行った時も指名したかったからである。
会社の接待で訪れて最初にテーブルに着いたのがこの”雅”だった。 この時、若干22歳で『es』のナンバー1であった雅に賢一は、今まで感じた事のないような胸の鼓動の高鳴りを覚えた。
この頃、家庭内がギクシャクしていた事も要因ではあるが、賢一は小さい頃から勉強漬けの毎日で、しかも判で押したような真面目な性格で遊びも知らずに来たので、雅との出会いはカルチャーショックだった。
それほど雅自身が美しく、一流クラブ『es』の中でも格段に華やかで、一際目を引く存在であったからであろう。
この”雅”こと、小山 まなみは、東北地方の出身で地元の商業高校を卒業した後、上京しファストフード店や、コンビ二のアルバイトを転々としたのちクラブ『es』に勤める事となった。
元来、まなみは負けず嫌いな性格で、特に人に取り入る事に関しては天性なものがあった。 そしてなんといっても一番の魅力は、その美貌である。
身長は158センチとそれほど高い方ではないが、東北美人とでも言うべきか肌が本当に透き通るくらい綺麗で
スタイルも上から、88、56、85と抜群である。
21歳の誕生日の3ヶ月前に入店し1年足らずで、ナンバー1にまで上り詰めた。
ただ、それとは別にお店で売れ為の努力も欠かさなかった。 お店に行く前には、主要な新聞を5紙読み、時間があれば経営学や自己啓発から文学小説や推理小説まで、あらゆるジャンルの本を読んでいた。 お得意様へのメールも小まめに送っていた。 そのメールもただ、来店してもらうようなものは少なく、相手と普段の会話をするような平凡なものが多かった。 まなみは、あえてそうしていたのだが、”雅”の事を気にいっているお客にはすこぶるその内容は評判が良かった。 多分、まなみの一見商売っ気がないような文がお客の心を掴んで離さなかったようだ。
(メール文)雅『先日は有難うございました。 楽しんでいただけましたか? 私は○○さんのお話しをいろいろ聞いてスゴ~く刺激を受けました。 そういえば、○○会社さんとの契約交渉来週ですよね! 頑張って下さね! でも、お体には充分気をつけて下さい。 それでは、また。
~雅より~ 』
といった感じである。
相手の事をかなり細かい所まで覚えて必ず、その話しの話題をメール文に持ってくる。
そして、特徴としては営業めいた言葉が殆どないことだ。
当然、お客の誕生日や他の記念日も全て把握し、送り物も欠かさない。 ただし、あえて高価なものは送らない。
見た目の華やかと、その質素さのギャップも雅の魅力の一つだ
そんな雅に入れ込んでいた”一人”の賢一が、課長に就任してから初めて『es』に来店したある日、珍しく雅から相談を受けた。
「田野倉さん、これはまだ誰にも言ってないんですけど実は私、来年位に自分のお店を持とうと思ってるんです。 私、経営の事とかお金の管理の事あまり詳しくないので、ご迷惑でなければいろいろお勉強されている田野倉さんにレクチャーしてもらいたいんですが.....
あっ、でもお忙しいですよね。 課長さんになられたんですものね。 ごめんなさい、自分勝手言って」
と雅が話すと賢一は、
「ううん、大丈夫だよ。 平日は難しいけど、週末の土曜とかなら夜、時間取れるし。 それにお店の中では話しずらいでしょう?」そう言うと雅は、
「有難うございます。 でも週末の夜だと奥様とか待っているんじゃないですか?」
「いやぁ~、僕が居ない方がうちのやつも落ち着けていいと思うから大丈夫だよ」と言って賢一は笑った
そして「で、雅ちゃんはいつが都合いいの?」続けて賢一が雅に聞くと、
「田野倉さんの都合が良ければ、再来週の土曜日、六本木の『ブランニュー』で1時にいかがですか?と言って、そこの住所をメモに書いて賢一に渡した。
「うん、いいよ。 じゃあ、再来週、ここで先に待ってる」
「はい、有難うございます。 間に合うように少し、早めにお店あがらせてもらえるようにママにお願いしておきますから」と雅は笑顔で答えた。
それから、2週間後土曜日賢一は一足先に約束の『ブランニュー』に来ていた。
3杯目のターキーを飲み干した時、『サァー』と入り口ドアが開いて仕事終わりの雅がお店に入って来た
「ごめんなさい、田野倉さん遅くなって」そう言いながら賢一の隣に座った。 「ううん、大丈夫だよ。
遅刻って言ってもたった5分じゃない。 気にしなくていいよ。 で、雅ちゃん何飲む?」
「え~と、じゃあドライマティーニ下さい」そう雅は言うと「すぅー、はぁー」と一つ深呼吸をした。
「随分、急いできたんだね」賢一が微笑んで聞くと、雅は「はい、最後のお客さんがギリギリまで居たので...途中走ったんですけどちょっと遅れちゃいました」そう言いながらペコリと頭を下げた。
「いいよ、いいよ。 じゃあまず乾杯しよう」賢一はそういうと自分4杯目のターキーが入ったグラスを持ち『仕事お疲れ様。 乾杯!」と雅のグラスに『カチッ』と合わせた。
[雅]「すいません。 忙しいのに時間取っていただいて」
[賢一]「いいよ、いいよ。 で、早速なんだけど雅ちゃん、来年のいつ位にお店出そうと思ってるの?
[雅]「遅くても10月にはオープンしたいです」
[賢一]「そっかぁー。 10月ねぇ。 あと1年と3ヶ月か。 それで場所はどの辺りで考えてるの?
[雅]「ここ六本木で、広さは50坪位と考えてます」
[賢一]「そっか、六本木ねぇ。 僕もあまり店舗の事については知識がある方ではないけど、この辺りだと賃貸にしても安くて3万円以上だと思うよ。 失礼な事聞くようだけど今、貯金は幾ら位あるの?」
[雅]「お恥ずかしいですけど、1500万円ちょっとです。 あと1年、今のお店で頑張ってもう1000万円貯めようと思ってます」
[賢一]「すごいね、その年齢でよく貯めたね。 僕よりあるよ。 結構前から考えてたんだね」
[雅]「そうなんです。 この仕事を始めていろんな方と出会って行く内によりこの仕事が楽しくなっていってそれで何れは自分のお店を持ちたいと思うようになって、少しずつですけど貯金もするようになりました。 ようやくメドが立ってきたので来年にはと思ってます」
雅はそういい終わると少し潤ませた瞳で賢一を見つめた。
「そっかぁ~、、雅ちゃんはしっかりしてるから自分でお店を持ってもきっと上手くいくよ。 僕お客さんに不動産関係の人もいるからお店の物件探してもらうように頼んでみるよ。 あと、税理士さんもいるから金銭的なこともアドバイスしてもらえるように聞いてみるね」
賢一はそう答え、雅の手に自分の手を重ねた。
「ありがとうございます。 やっぱり田野倉さんは頼りになります」 雅は軽く頭を下げた。
二人はその後、暫くして『ブランニュー』をあとにした。
それから賢一は自分のお客さんの不動産屋にお願いして、物件のリサーチを始めた。 同時に金銭的な面でも、銀行関係者や税理士などにもコンタクトを取り情報を収集していた。
賢一は、お気に入りの雅からの頼みという事もあるが、仕事に於いてもこう決めたら行動が早い。流石に若くして出世するはずである。
その間、以前より頻繁に『es』に通い、雅とお店出店の計画を話しあっていた。
雅が、自分のお店のイメージや夢の話を笑顔で話しているを隣で聞いていると、何時しか賢一もまるで自分の事のように嬉しくなり益々、雅にのめり込むようになっていった。
この頃から二人は、月に数回”大人の関係”を持つようになっていた。
幾度か身体を重ねる内に賢一は完全に雅に”心”も奪われてしまっていた。 「まなみとなら家庭を犠牲にしてもいい」そこまで賢一は考えるようになっていた。 ただ、雅の方からは直接的な愛の告白はまだなかったのだが.....
それと反比例するかのごとく賢一の家庭は冷えきっていきつつあった。
~裏切り~
雅が賢一にお店出店の相談をしてから約10ヶ月後のある日、二人は例の場所『ブランニュー』で会っていた。