第2話:壊れた令嬢――誰にも頼れなかった彼女を、俺は救う
第2話:壊れた令嬢
月明かりさえも拒絶するかのように、厚い雲が空を覆っていた。
大広間での騒乱を抜け、俺はクラリスを連れて王都の外れにある古びた隠れ家へと逃げ延びた。ここは男爵家の三男という、日陰者の俺が密かに手入れしていた場所だ。
部屋の中は、微かなランプの灯りだけが頼りだった。
その淡い光の中で、クラリス・フォン・アルヴェルンは床に膝をついたまま、ぴくりとも動かなかった。
銀色の髪は乱れ、先ほどまで彼女を包んでいた気高きオーラは霧散している。
今の彼女は、ただの、あまりにも脆い一人の少女に過ぎなかった。
「……どうして」
絞り出すような声が、冷えた空気に溶ける。
彼女の視線は虚空を彷徨い、焦点はどこにも合っていない。
俺の視界には、依然としてあの奇妙な「識眼」が浮かんでいた。
【精神状態:崩壊寸前】
【信頼対象:なし】
(……誰も、いないのか)
胸の奥が締め付けられる。
「信頼対象:なし」。
公爵令嬢として、次期王妃として、彼女の周りには常に人がいたはずだ。へつらう者、傅く者、教えを乞う者。だが、彼女が心から背中を預けられる人間は、この広い世界のどこにもいなかったのだ。
「全部、やってきたのに」
震える声が、少しずつ熱を帯びる。それは怒りではなく、深い悲鳴に似ていた。
「国のために……。民が飢えぬよう、税制を組み直し、隣国との摩擦を避けるために夜を徹して書簡を綴り、レオニード様の隣に立つにふさわしい振る舞いを……。遊びたい盛りをすべて、そのために捧げてきたのに」
言葉が途切れる。
彼女の指が、床の板を強く掻いた。
「……無駄だったの? 私が生きてきた時間は、すべて、あんな一言で捨てられる程度のゴミだったの?」
彼女が顔を歪める。
その瞬間、俺の視界にある文字が赤く点滅を始めた。
【警告:崩壊(精神)進行中】
【喪失感による自我消滅の危険あり】
(……このままだと、本当に壊れる)
彼女の中にある「公爵令嬢」という柱が、レオニードと実の父であるアルヴェルン公爵によってへし折られた。今、彼女を支えているものは何もない。虚無が彼女を内側から食いつぶそうとしている。
「……違う」
重苦しい沈黙を破り、やっとの思いで声を出した。
喉が渇ききっていた。だが、今言わなければ、彼女は二度と戻ってこれない。
「無駄じゃない」
クラリスが、ゆっくりと顔を上げた。
涙に濡れた瞳。そこには、俺への期待など微塵もなく、ただ「何を根拠にそんなことを」という冷めた絶望だけが宿っていた。
「……何がわかるのよ。男爵家の、あなたに。王太子殿下にも、お父様にも見捨てられた私に、価値なんて……」
「価値なら、ある。誰が認めなくても、俺が知っている」
俺は彼女の前に膝をつき、視線を同じ高さに合わせた。
識眼が示す【統治能力:SS】の文字。それは、彼女がどれほどの血を吐くような努力を重ね、どれほどの成果を上げてきたかの証明だ。
「君が夜を徹して書いた書簡のおかげで、北部の領民は冬を越せた。君が調整した関税のおかげで、市場には安価なパンが並んだ。王太子はそれを自分の功績だと思い込んでいるようだが……数字は嘘をつかない。君がいたから、この国は崩壊せずに済んでいたんだ」
「そんなの……誰も見ていないわ。評価されない努力に、何の意味があるの?」
「俺が見ている」
俺は彼女の手を、今度は包み込むように握った。
「誰も君を愛さなかったとしても、君が成し遂げた仕事は、この国の土に、民の腹に、確かに刻まれている。それを無駄だったなんて、俺が絶対に言わせない。レオニードが君を捨てたのは、彼に君を使いこなす器がなかっただけだ。あいつは、太陽の眩しさに耐えられなくて、目を逸らした臆病者なんだよ」
クラリスの瞳が、微かに揺れた。
赤く点滅していた警告表示が、ゆっくりと収まっていく。
【精神状態:不安定(回復の兆し)】
【信頼対象:分析中……】
「……どうして、そんなに一生懸命なの? あなたに、何の得があるというの」
「得なんて考えてない。ただ、俺は美しいものが好きなんだ。宝石を泥に投げ込むような真似を見て、黙っていられるほど人間が出来ていないだけだ」
俺は不敵に笑ってみせた。
本当は、俺だって怖い。王太子を敵に回し、公爵家を怒らせた。明日には追っ手が来るかもしれない。だが、この【SS】ランクの才能を、ここで腐らせるわけにはいかない。
「クラリス様。俺はあなたを『幸せにする』と言った。それは、お姫様のように守ってやるという意味じゃない」
彼女の手を強く握る。
「君の才能を、君の知略を、今度は自分のために使ってほしい。君を捨てた連中が、君がいなくなったことでどれほど無能を晒し、没落していくか……特等席で見てやりたくないか?」
クラリスの口端が、ほんの少しだけ動いた。
それは、自嘲のようでもあり、だが確かな闘志の灯火が混じった微笑だった。
「……性格が悪いのね、あなたは」
「お褒めに預かり光栄です。で、どうしますか? ここで泣き濡れて終わるか、それとも、俺と一緒に『復讐』という名の新しい人生を始めるか」
沈黙が流れる。
外では雲が切れ、微かな月明かりが部屋に差し込んできた。
クラリスは、深呼吸を一つ。
そして、俺の手を力強く握り返した。
「……いいわ。どうせ捨てられた身。あなたのその『バカな賭け』に、乗ってあげる」
その瞬間、識眼の表示が劇的に書き換わった。
【精神状態:覚醒】
【信頼対象:……(確定中)】
【現在の目的:再起】
(……よし。繋ぎ止めた)
俺は安堵で背中の汗が冷えるのを感じた。
だが、物語はここからだ。
王太子の背後で笑っていたあの側近、そして女王アリシアの真意。
俺たちが生き延びるためには、ただの「逃亡者」でいるわけにはいかない。
「それじゃあ、クラリス様。まずは明日、この国を――『合法的に』脱出する準備を始めましょうか」
「ええ、いいわ。私の頭脳を安売りするつもりはないから、覚悟しなさい?」
涙を拭い、背筋を伸ばした彼女は、まだボロボロのドレスを着ていながらも、紛れもない「公爵令嬢」の輝きを取り戻していた。
――この時、俺たちはまだ知らなかった。
俺たちの脱出が、王国経済をわずか一週間でパニックに陥れる引き金になることを。
そして、闇の中から俺たちを監視する、あの「側近」の正体を。
運命の歯車は、凄まじい速度で回り始めていた。
第2話:壊れた令嬢(承)――「俺が必要としている」
隠れ家の窓から差し込む月光は、冷たく鋭い。その光に照らされたクラリスの横顔は、まるで精巧に作られたがゆえに一度の衝撃で粉々になってしまった硝子細工のようだった。彼女がこれまで「正解」だと信じて積み上げてきた努力、献身、そしてプライド。それらすべてが、レオニードという無能な男の手によって「間違い」という烙印を押され、泥に塗られたのだ。
「間違ってたのはあんたじゃない」
俺は、彼女の絶望が渦巻く空間へと、静かに、だが確実な一歩を踏み出した。
「間違ってたのは、あいつだ。あいつには、君というあまりにも巨大な才能を受け止める器がなかった。ただ、それだけのことだ」
「……でも、私はもう、すべてを失ったわ。家も、名誉も、明日への居場所さえも。公爵令嬢としての私は、あの大広間で死んだのよ」
「終わってない」
俺は彼女の言葉を、強い語気で遮った。
まだ震えの止まらない彼女の細い手を取り、逃げられないようにしっかりと、だが壊さないように優しく包み込む。
「終わらせるな、クラリス。君がここで消えてしまったら、この国は本当に、あの暗愚な王太子と共に沈むだけだ」
「無理よ……。私一人に、何ができるというの? 周りは敵ばかり。私を助ける者なんて、この広い世界のどこにも――」
「俺がいる」
即答だった。コンマ一秒の迷いもない俺の声に、クラリスが弾かれたように顔を上げる。
「俺が、君を必要としているんだ。君の知略、君の統治能力、君が持つその気高さ……すべてが、俺の描く未来には不可欠なんだよ」
その瞬間、俺の視界にある『識眼』が、眩いばかりの光を放って更新された。
【信頼:レオン(上昇)】
【精神状態:氷解】
彼女の端正な表情が、均衡を失ったように歪んだ。これまで「完璧な淑女」として一度も人前で崩さなかった仮面が、内側から溢れ出す感情に耐えきれず、音を立てて剥がれ落ちていく。
「……こわかった」
ぽつりと、掠れた声が漏れる。
「怖かったのよ……。一生懸命やって、それが当たり前だと思われて、最後には石を投げられて……。誰一人、私のことを見てくれている人なんていないと思ってた……っ」
大粒の涙が、彼女の頬を伝って落ちる。
一度決壊した感情は、もう誰にも止められなかった。俺は何も言わず、彼女の細い体を、壊れないようにしっかりと抱き寄せた。
「大丈夫だ。君の努力も、その痛みも、俺が全部知っている。これからは一人で背負う必要なんてない」
俺の胸の中で、彼女は声を上げて泣いた。
幼子のように、今まで溜め込んできた不条理と悲しみをすべて吐き出すように。その温もりを感じながら、俺は改めて誓った。
彼女を泣かせたすべてに、相応の報いを受けさせてやる。
レオニード、そして実の娘を切り捨てたアルヴェルン公爵。
この国を蝕む腐敗した連中に、俺たちがどれほど恐ろしい「宝石」を拾い上げたか、思い知らせてやる。
月明かりの下、彼女の泣き声だけが響く。
それが止んだ時、新しい時代の幕が上がるのだと、俺は確信していた。
ステータス確認:
クラリス・フォン・アルヴェルン
状態:覚醒準備完了
【信頼:レオン(確定)】
「……さあ、始めようか。俺たちの反撃を」
昨晩の嵐のような感情の奔流が嘘のように、隠れ家には静かな朝の光が差し込んでいた。
クラリス様は、俺が用意した簡素な寝台でようやく深い眠りについたようだった。泥を投げられ、尊厳を奪われた彼女にとって、このボロボロの隠れ家だけが唯一、世界から隔離された安息の地となっていた。
俺は朝の冷気に当たりながら、今後の計画を練るために表へ出た。
国外脱出、物資の調達、そして女王アリシア陛下への非公式な接触。やるべきことは山積みだ。今の俺はただの男爵家三男だが、この「識眼」と、隣にいる「最強の知略家」がいれば、不可能ではない。
その時だった。
「あ、やっぱり! レオンじゃん!」
背後から突き抜けるような、明るい声が響いた。
場違いなほど屈託のない、春の陽だまりをそのまま形にしたような声。俺が振り返ると、そこには見慣れた、だが今の状況には最も似つかわしくない少女が立っていた。
「久しぶり! 相変わらず地味な服着てるねー」
彼女――ミーナは、弾けるような笑顔でこちらへ駆け寄ってきた。
近衛騎士団の炊き出しを手伝っていたり、下町の市場で値切り交渉を仕切っていたり、とにかく王都のあらゆる場所に顔を出す「街の有名人」だ。俺が以前、路地裏でトラブルに巻き込まれていた彼女を助けて以来の腐れ縁である。
とにかく距離が近い。パーソナルスペースという概念がないのか、彼女は当たり前のように俺の肩を叩き、ぐいぐいと顔を近づけてくる。
(……一応、今の俺は王太子殿下に楯突いたお尋ね者なんだけどな)
苦笑しながら、俺は無意識に発動していた「識眼」で彼女を見た。
【人心掌握:SS】
【交渉適性:S】
【適応力:規格外】
(……なんだ、こいつ。化け物か?)
思わず二度見した。
クラリス様が【統治:SS】という「静」の頂点なら、このミーナという少女は【人心掌握:SS】という「動」の極致にいた。
群衆を扇動し、味方を増やし、敵の懐にすら入り込む。この能力があれば、一国の世論すら操作できるのではないか。
「昨日のやつ、もう街中で噂になってるよ! 王太子殿下が絶世の美女を捨てて、平民の子を選んだって。で、その後に無名な男爵家の子が彼女をさらっていった……って、それレオンのことでしょ?」
話が早すぎる。
情報収集能力も相当なものだ。彼女の周りには、意識せずとも人が集まり、情報が落ちてくるのだろう。
「……ああ、そうだ。今は俺のところに匿っている」
「やっぱり! さすがレオン、やるねー! で、その公爵令嬢様はどうしてるの? 氷の令嬢様でしょ? 怖い人? それとも、やっぱり泣いちゃってるとか?」
ミーナの瞳は好奇心でキラキラと輝いている。悪意はない。ただ、彼女は「面白いこと」が好きなだけなのだ。
「……会うか?」
俺がそう尋ねると、ミーナは一瞬だけ驚いたように目を見開き、すぐに満面の笑みを浮かべた。
「いいの!? 会いたい会いたい! 私、本物の公爵令嬢って見たことないもん!」
俺はミーナを連れて、隠れ家の重い扉を開けた。
中では、物音に気づいたクラリス様が椅子に座り、背筋を正してこちらを凝視していた。ボロボロのドレスを纏っていても、その佇まいは凛としており、昨晩の弱々しさは微塵も感じさせない。
「クラリス様、知人です。……こちら、ミーナ。騒がしいですが、悪い奴ではありません」
「ミーナです! よろしくお願いします、公爵令嬢様!」
ミーナは遠慮なく部屋の奥まで踏み込むと、クラリス様の目の前で深々とお辞儀をした。……と言っても、貴族的な優雅な礼ではなく、どこか芝居がかった、活気溢れる挨拶だ。
「……クラリスです。アルヴェルン公爵家の名は、既に捨てました。今はただの、行き場のない女に過ぎません」
クラリス様の声には、明らかな警戒の色が混じっていた。
無理もない。彼女の周りにいたのは、常に計算高く、自分を利点としてしか見ない貴族たちばかりだったのだ。こんな、心臓の音まで聞こえてきそうなほどストレートに感情をぶつけてくる人間は、彼女の人生に存在しなかった。
「もう! そんな固いこと言わないでくださいよー! 昨日のレオンのタンカ、格好良かったですよ? 『俺が幸せにする』なんて、街の劇でも聞かないような名台詞なんだから!」
「なっ……!?」
クラリス様の頬が、一瞬にして朱に染まった。
昨晩のあのやり取りを、第三者の口から聞かされるとは思っていなかったのだろう。彼女は動揺を隠すように、俺の方を鋭い視線で射抜いた。
「レオン、あなた……まさか、あんなことを街中に言いふらしたの?」
「まさか。俺だって恥ずかしい。ミーナの情報網が異常なだけだ」
俺が肩をすくめると、ミーナは我が物顔で部屋の隅にある椅子を引き出し、クラリス様の隣に陣取った。
「クラリス様、街の人たちはみんな王太子殿下に呆れてますよ。あのエリナって子、裏では結構評判悪いですし。逆にクラリス様がどれだけ頑張ってたか、下町のみんなは知ってます。あんないい税制の調整、普通の人間にはできませんから!」
「……民が、私の名前を知っているというの?」
「名前は知らなくても、結果は食べてるパンの中にありますよ。だから、そんなに落ち込まないでください! むしろ、あんな浮気王太子とおさらばできてラッキーじゃないですか!」
ミーナの言葉には、不思議な力があった。
論理的ではないし、敬語もめちゃくちゃだ。だが、彼女の放つポジティブなエネルギーは、クラリス様が必死に築いていた「絶望の壁」を、いとも簡単にすり抜けていく。
【信頼:ミーナ(上昇)】
クラリス様の頭上に浮かぶステータスを見て、俺は小さく息を吐いた。
【人心掌握:SS】。
この能力は、単に人を操るためのものではない。凍りついた心を溶かし、再び前を向かせるための「光」でもあるのだ。
「……ふふ、本当に変わった方ね。あなたは」
クラリス様が、今日初めて微かに微笑んだ。
その笑顔を見て、ミーナはさらに調子に乗る。
「でしょー! さあレオン、これからどうするの? 私に手伝えることがあったら何でも言って! 王都の裏道から美味しいお肉の店まで、全部私が把握してるから!」
俺は、二人の対照的な少女を見つめた。
最強の知能を持つクラリスと、最強の愛嬌を持つミーナ。
そして、それを見極める目を持つ俺。
(……これなら、いける)
「ああ、頼りにしてる。まずは、この王都からクラリス様を密かに出国させる。ミーナ、裏ルートの手配はできるか?」
「任せて! 一番安全で、一番美味しいお土産が買えるルートを組んであげるから!」
「お土産は不要です、ミーナさん……」
困惑しながらも、クラリス様の瞳には確かな生気が戻っていた。
昨日まで一人で死を待っていた令嬢は、今、新しい「仲間」を得て、その一歩を踏み出そうとしている。
物語は、まだ始まったばかりだ。
この二人のSSランクを並べた時、世界がどう変わるのか。俺はそれを、一番近くで見届けるつもりだった。
「さあ、会議を始めよう。俺たちの『反撃の行軍』のルートをね」
俺の声に、二人が力強く頷いた。
隠れ家の古びた木造の床が、ミーナの弾むような足取りに合わせて小さく鳴る。
朝日が差し込む窓辺で、クラリス様は椅子に深く腰掛け、凛とした、だがどこか防衛的な空気を纏っていた。昨日までの絶望の淵からは脱したものの、彼女の心にはまだ幾重にも重なる「警戒」の壁がそびえ立っている。
そんな氷の城のような静寂を、ミーナの声が、あまりにもあっさりと粉砕した。
「うわ……綺麗……」
ミーナが足を止め、溜息を漏らすように呟く。その大きな瞳は、一点の曇りもなくクラリス様の銀髪と、その端正な顔立ちに釘付けになっていた。
「本当にお姫様みたい! 髪の毛、銀の糸でできてるみたいにキラキラしてるし、肌なんて透き通って見えちゃう! 私、今までいろんな人を見てきたけど、こんなに綺麗な人、物語の中から飛び出してきたのかと思っちゃった!」
一点の迷いも、下心もない、純粋な感嘆。
クラリス様の頭上に浮かぶウィンドウが、小刻みに揺れ動く。
【警戒:中】
クラリス様は一瞬、言葉を失った。
彼女の人生において、美しさを称賛されることは珍しいことではなかった。だが、それらは常に「王太子の婚約者として相応しい美貌」であったり、「公爵家の威厳を示すための装飾」としての評価だった。
目の前の、平民の少女が向けるような、花を見て「綺麗だ」と言うような無邪気な言葉は、彼女の世界には存在しなかったのだ。
「……あ、ありがとう。でも、今の私はただの……」
「そんなの関係ないですよ! 綺麗なものは綺麗なんだもん。あー、見てるだけで目が幸せになっちゃうな」
ミーナは屈託なく笑い、ずいおっと距離を詰める。クラリス様は思わず身を引こうとしたが、ミーナの持つ不思議な親しみやすさに、その動きは途中で止まった。
【警戒:低下】
(……崩したな)
俺は傍らでその光景を見守りながら、心中で小さく呟いた。
どんな熟練の外交官でも、クラリス様の心の扉をここまで早く開かせることはできなかっただろう。だが、ミーナの【人心掌握:SS】は、技術ではなく「本能」で相手の懐に潜り込む。打算がないからこそ、計算高い人間ほど、彼女の直球に弱くなる。
だが、ミーナの「目」は、ただ明るいだけではなかった。
彼女はふと、その笑顔を少しだけ落ち着かせると、クラリス様の瞳を真っ直ぐに覗き込んだ。
「……でも、ちょっと無理してる?」
その一言は、鋭い刃のように静寂を切り裂いた。
クラリス様の肩が、一瞬だけびくりと震える。
「……そんなことは、ありません。私は公爵令嬢として、常に……」
「あるでしょ」
即答だった。ミーナは首を傾げ、困ったような、だが優しい笑みを浮かべる。
「そんなに背筋をピンと伸ばして、指先まで力を入れて。それじゃあ、美味しいお茶を飲んでも味がしないでしょ? ここはレオンの隠れ家なんだから、もっとだらーっとしても大丈夫だよ。ねえ、レオン?」
「ああ、そうだな。少なくとも、この部屋には君を裁く人間も、君に完璧を求める人間もいない」
俺の言葉に、クラリス様は呆然としたように俺とミーナを交互に見た。
彼女の中で、何かが音を立てて緩んでいくのが分かった。張り詰めていた緊張の糸が、ミーナの無遠慮なまでの優しさに解かされていく。
クラリス様の肩から、不自然な力が抜けた。
彼女は小さく溜息をつき、椅子の背もたれにその細い背を預けた。
「……あなたたちには、敵わないわね。本当に、調子が狂うわ」
【精神:回復傾向】
その表示を見た瞬間、俺の胸に確かな手応えが宿った。
絶望の底にいた彼女が、ようやく自分を許し始めたのだ。
俺は確信した。
統治と戦略の天才であるクラリス。
人の心を掴み、情報を操るミーナ。
そして、それらの真価を見極め、道を示す俺。
(……この三人なら、いける)
この隠れ家を出る頃には、王国は「捨てた宝石」の真の価値を思い知ることになるだろう。
俺は二人の少女を見つめ、静かに不敵な笑みを浮かべた。
「さて。それじゃあ、本格的に始めようか。俺たちの『反撃』の第一歩を」
ミーナが元気よく拳を突き上げ、クラリス様が少しだけ照れくさそうに、だが力強く頷いた。
物語は、ここから加速していく。




