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第1話:婚約破棄――すべてを失ったその日、俺は彼女を選んだ

■第1話:婚約破棄された公爵令嬢を、俺は見捨てなかった


「クラリス・フォン・アルヴェルン。貴様との婚約を破棄する」


王太子レオニードの冷徹な声が、豪華絢爛な大広間に不協和音として響き渡った。

静まり返る会場。貴族たちの視線が、一斉に中央の二人に集まる。

そこに立っていたのは、銀髪を美しくなびかせた公爵令嬢クラリス。彼女はこの国の貴族の模範であり、次期王妃として誰よりも厳格に、そして高潔に生きてきた女性だ。だが今、その積み上げてきたすべてが、たった一言で瓦解しようとしていた。


「……理由を、お聞かせ願えますか」

静かな問いだった。しかし、その声はわずかに震えていた。

「理由だと?」

レオニードは鼻で笑い、隣に寄り添う可憐な少女――男爵令嬢セシリアの肩を強く抱き寄せた。

「セシリアに対する数々の陰湿な嫌がらせ、そして先日の暗殺未遂……。貴様の冷酷な本性、もはや見過ごすことはできん! 清廉潔白を装いながら、裏でこれほど醜悪な真似をしていたとはな。貴様のような女は、王妃の座にふさわしくない」


それは身に覚えのない罪だった。クラリスは震える唇を必死に噛んだ。

完璧であるために、彼女は私欲を捨て、公務と研鑽に明け暮れてきた。友人と遊ぶ時間も、おしゃれを楽しむ余裕もなく、ただ国の未来と婚約者のために尽くしてきたのだ。そんな彼女が、なぜこれほどまで無残に貶められなければならないのか。


「私は……そのようなことは、断じて……」

「言い訳は見苦しいぞ! すでに証拠は揃っている。公爵家からも、貴様を勘当し、国外追放とする許可は得てある。今すぐこの場から失せろ! 二度とその不快な顔を見せるな!」


レオニードの宣告に、周囲の貴族たちは嘲笑の視線を投げかける。「氷の令嬢」と揶揄され、誰よりも高潔だった彼女の失脚を、彼らは最高の娯楽として楽しんでいた。

絶望が彼女を包み込んだ。味方はどこにもいない。信じていた婚約者も、誇りであった家族も、心血を注いだこの国さえも、彼女を使い古した道具のように切り捨てたのだ。


その時だった。


「――そこまでにしておけよ、王太子殿下」


重厚な扉が開かれ、静かだが広場全体に響き渡るような、重みのある低い声が届いた。

現れたのは、漆黒の外套を纏った一人の男――俺だ。

俺は唖然とする貴族たちを無視し、床に崩れ落ちかけ、絶望に震えるクラリスの傍らへと歩み寄った。俺は自分の外套を脱ぎ、彼女の細い肩を包むようにそっとかける。


「……だ、誰……?」

潤んだ瞳で俺を見上げるクラリス。その表情には、困惑と、ほんの少しの救いを求めるような色が混じっていた。


「通りすがりの、お節介焼きですよ」

俺は彼女の冷たくなった手を取り、優しく、だが力強く引き寄せた。


「国が、王太子が、そして家族が君を捨てるというのなら。俺が君を連れて行く。君という真の価値を理解せず、泥を投げるような連中の元に、君を置いておくわけにはいかないからな」


世界中が彼女を敵に回しても、俺だけは彼女を見捨てない。

俺は驚愕に染まる広間を背に、彼女を抱き寄せ、堂々とその場を後にした。

これが、俺たちの新しい物語の始まりだった。





王太子レオニードは勝ち誇ったような笑みを浮かべ、隣に立つ少女――エリナの肩を引き寄せた。エリナは庇護欲をそそるような仕草で身を縮め、上目遣いにクラリスを見つめる。その瞳には、勝利者の優越感と、獲物を追い詰めた残酷な光が宿っていた。


「私は、このエリナを愛している。彼女は君のように身分や形式に囚われず、常に等身大の真心で私に接してくれた。お前のような冷たい女ではなくな」


大広間の空気が、冷たい嘲笑で満たされる。

「氷の令嬢」と呼ばれたクラリス。彼女がどれほどの献身を持って王太子の公務を支え、どれほど私生活を犠牲にして国のために動いてきたかを、この場の誰もが知っているはずだった。しかし、知っているからこそ、彼らは彼女が失墜する瞬間を待ち望んでいたのだ。完璧すぎる彼女を泥にまみれさせることは、歪んだ快楽を与えていた。


誰も助けない。誰も声を上げない。

実の父であり、家督を継ぐ公爵本人であるアンジェリカさえも、冷徹な視線を娘に向けている。彼にとって、婚約を破棄された娘はもはや利用価値のない失敗作でしかない。


「……そう、ですか」


クラリスは静かに目を伏せた。

その気高さは失われていない。だが、握りしめた扇の骨が悲鳴を上げ、指先は血の気が引いて白くなっている。彼女の心は、すでに限界を迎えていた。裏切り、侮蔑、孤独。この国のためにすべてを捧げた結果がこれならば、自分は何のために生きてきたのか。視界が絶望で歪み、漆黒の淵へと突き落とされるような感覚に襲われた。


その時だった。


クラリスの視界に、半透明の淡い光を放つ**「文字」**が浮かび上がった。


<<警告:精神的負荷が許容値を超えました>>

<<運命の分岐点に到達。対象者の『価値』を再評価します>>

<<ステータス:絶望。救済プログラムを起動します>>


それは、この世界の理から外れた、異質な光景だった。クラリスが驚愕に目を見開くと、その文字はさらに書き換えられていく。


<<外部干渉を感知。……『唯一の理解者』が接近中>>


「何だ……? その光は」


レオニードが不審げに眉をひそめる。彼にもその文字が見えているのか、あるいはクラリスから放たれる異常な魔力を感じ取ったのか。広間のざわめきが止まり、奇妙な沈黙が流れる。


その沈黙を切り裂いたのは、周囲の貴族たちを押しのけて歩み寄る、力強い足音だった。


「ずいぶんと賑やかな茶番だな、王太子殿下」


そこに現れたのは、誰の顔色を伺うこともなく、堂々と胸を張って歩く一人の男――俺だ。

俺は、震える肩を抱いて立ち尽くすクラリスの前に立ち、レオニードと、そして彼女を見捨てた全ての観衆を遮るように背中を向けた。


「誰だ貴様は! 公爵令嬢の勘当と国外追放は、女王アリシア陛下も黙認される決定だ。部外者が口を挟む余地はないぞ!」


「部外者か。確かにそうかもしれないな。だが、こんな美しい宝石をゴミ箱に捨てるような無能な王に、この国を任せておくつもりはないんでね」


俺は振り返り、呆然としているクラリスに向かって手を差し出した。

彼女の瞳に浮かぶ「文字」は、今や金色の輝きに変わっている。


<<接続完了。新たな誓約を承諾しますか?>>


「クラリス。俺と一緒に来い。君を道具としてしか見ない連中のために、これ以上その涙を流す必要はない。俺が、君の本当の価値を証明してやる」


世界が彼女を否定しても、俺だけは彼女を、その高潔さを知っている。

俺たちの物語は、このどん底の舞台から始まるんだ。





大広間の冷気に、肌が粟立つ。

王太子レオニードの傲慢な声が止んだ直後、俺の視界には「それ」が唐突に現れた。


クラリス・フォン・アルヴェルンの頭上に、淡く輝く半透明のウィンドウが浮かんでいる。


【統治能力:SS】

【外交適性:S】

【将来性:国家中枢級】

(……は?)


思考が真っ白に染まった。

何だ、これは。SS? 国家中枢級?

俺は隣に座る他の貴族たちを見るが、誰もその光に気づいていない。次に、勝ち誇った顔で平民の少女・エリナを抱き寄せる王太子を見た。


【判断力:C】

【精神:不安定】

(……おい、冗談だろ)


理解した瞬間、胸の奥が焼けるような怒りで支配された。

この男、何ということをしてくれたんだ。この国が数十年かけて育て上げ、ようやく手にした「至宝」を、あろうことか自らの手で、こんなくだらない嫉妬と妄想で捨てようとしている。


「お前のような女は、誰からも愛されない。このエリナこそが、私の冷え切った心を癒やしてくれる真の聖女なのだ」


レオニードのその一言。それが、俺の中で張り詰めていた何かを、音を立てて断ち切った。


「……ふざけるな」


静まり返った広間に、俺の声が落ちた。


「誰だ」


レオニードが不機嫌そうにこちらを睨む。

周囲の貴族たちがざわめき、視線が俺に集中した。俺はただの男爵家の三男。この場にいる者たちからすれば、名前を覚える価値さえない端役に過ぎない。

だが、止まらなかった。


「その人を、侮辱するな」


一歩、前に出る。

震える足。心臓がうるさいほどに鼓動を刻む。だが、その恐怖以上に、目の前で静かに絶望を受け入れようとしている彼女を放っておけなかった。


「クラリス様は、あんたなんかより――ずっと価値がある。この国の未来そのものなんだ。それを、そんな程度の低い理由で踏みにじるというのか!」


一瞬の沈黙。

そして、大広間を揺らすような嘲笑が巻き起こった。


「はっ、ははは! 誰かと思えば、しがない男爵家の三男坊か。身の程を知れ! 貴様のような雑魚が、王家の決断に異を唱えるというのか!」


レオニードが俺の目の前まで歩み寄り、見下すように鼻を鳴らす。

隣ではエリナが不安げに、だがどこか楽しそうに俺を観察していた。


「なら聞こう。追放されるこの女を、どうするつもりだ? 寄る辺なきゴミを拾って、どう養うつもりだ?」


周囲の目が「滑稽だ」と言っている。

だが、俺の瞳には、彼女の頭上に輝く「SS」の文字が、希望の光のように焼き付いていた。迷いはなかった。


「――俺が幸せにする」


空気が凍りついた。

クラリスが驚愕に目を見開き、こちらを見る。彼女の瞳は潤み、今にも崩れ落ちそうなほど脆かった。


「……無理だな。雑魚が。せいぜい地べたを這いずりながら、共食いでもしているがいい」


レオニードは吐き捨て、背を向けた。

「好きにしろ。その女はもう不要だ。明日には国外へ放り出せ。アルヴェルン公爵、異論はないな?」


会場の隅に立つ、公爵本人であるアルヴェルンが、冷徹な一瞥を娘に投げ、無言で頷いた。実の父親にさえ見捨てられたその瞬間、クラリスはついに力なくその場に膝をついた。


俺は迷わず彼女の前に跪いた。


「……どうして。あなたまで、道連れになる必要はないのに……」


震える声。彼女は、自分を助けることがどれほど無謀かを知っている。


「約束する」


俺は彼女の細く、氷のように冷たくなった手を取った。

その瞬間、俺の視界にあるウィンドウが激しく明滅し、新たな文字が刻まれた。


【誓約:唯一の盾となる者】


「全部取り返す。君を捨てた連中が、後悔で喉を掻きむしるほどに。君が本来受けるべきだった敬意を、場所を、幸せを……俺が全部、作り直してみせる」


彼女の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。


「……バカね。本当のバカだわ……」


言葉とは裏腹に、その声には微かな、だが確かな救いが混じっていた。


その時だった。


「――くすり、と」


不意に、場違いな笑い声が聞こえた。

王太子のすぐ後ろ。側近として控えていた一人の男が、口元を隠しながらこちらを見ていた。その瞳は獲物を見つけた猛獣のように爛々と輝き、俺とクラリスを、まるで極上の舞台を鑑賞するかのように見つめている。


(……面白くなりそうだな)


声には出さない。だが、その視線は雄弁にそう語っていた。


この時の俺は、まだ知らなかった。

この不可解なステータスウィンドウが、そしてこの瞬間の一歩が、停滞していたこの国の歴史を根底から覆す、巨大な嵐の始まりになることを。


俺は彼女を抱き寄せるようにして立ち上がらせ、嘲笑に満ちた広間を、一度も振り返ることなく後にした。


俺たちの、反撃の火蓋は切られた。






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