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「冷酷な辺境伯」に身代わりで嫁いだら、三ヶ月の契約のはずが溺愛されて逃げられません  作者: 凪乃


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12/12

おかえりなさいませ、旦那様

 朝日が、寝室のカーテン越しに差し込んでいた。


 辺境伯領に来てから、もう一ヶ月が経つ。


 伯爵家は事実上崩壊し、ハインリヒは王都で裁きを待っている。母は辺境伯領の離れに落ち着いて、少しずつ体調を取り戻している。カミラお嬢様は修道院での暮らしを選んだらしい。


 全てが、終わった。


 偽りの花嫁としての日々が。


 そして——新しい日々が、始まっている。



「フローラ様、おはようございます!」


 侍女のマリアが、着替えを持ってきてくれた。


 「カミラ様」ではなく、「フローラ様」。


 ヴィクトルが屋敷の使用人全員に説明してくれた。身代わりの事情を。フローラが本当の名前であることを。


 驚く者もいた。でも、怒る者はいなかった。


「フローラ様が来てから、この屋敷は明るくなりましたから」


 マリアがにこにこと言う。


「旦那様も、最近よく笑うようになりましたし」


「……そう、かしら」


「はい! 前は怖い顔しかしなかったのに」


 くすりと笑った。



 今日は特別な日だった。


 朝食を、私が準備する日。


 ヴィクトルに「一度でいいから、私の手料理を食べてほしい」とお願いしたのだ。


 台所に立つ。侍女たちが手を貸そうとするのを断って、一人で。


 メルティだけが横にいる。


「フローラ、味見していい?」


「まだ駄目」


「ケチ」


 笑いながら、パンを焼く。スープを煮る。母に教わった、素朴な田舎料理。伯爵令嬢の食卓には似合わないけれど、侍女の娘が作れるのは、これだけだ。


 ——でも、もう隠さなくていい。


 台所に立つ自分を。花に水をやる自分を。子供の怪我を手当てする自分を。


 全部、フローラなのだから。



 食堂にスープとパンを運んだ。


 ヴィクトルが席で待っていた。


「今日は俺が食べる側か」


「はい。覚悟してください」


「覚悟とは穏やかじゃないな」


「侍女の料理ですから、伯爵令嬢の食卓には程遠いですよ」


「俺は伯爵令嬢の食事など求めていない」


 テーブルに皿を並べる。


 そのとき——ヴィクトルの目が、私の手に止まった。


 手袋をしていなかった。


 初めて。この屋敷で、手袋を外して食卓に立っている。


 左手首の奉公の印が、そのまま見えている。


「……外したのか」


「はい」


 声が少し震えた。


「もう、隠さなくていいと思って」


 ヴィクトルが立ち上がった。


 テーブルを回って、私の前に来た。


 左手を取った。


 奉公の印に、指で触れた。


 ——あの日、手袋を外そうとしたヴィクトルを、私は怯えて拒んだ。


 今は、違う。


「これもお前の一部だ」


 ヴィクトルが言った。


「伯爵家がお前に押した印だ。消えはしない。だが——これがあるから、お前はお前だ。侍女の娘で、花に水をやって、子供の怪我を手当てして、使者に啖呵を切って、俺の前で泣いて笑った——お前だ」


 涙が、また出そうになった。


「もう泣くなと言ったのに」


「泣いてません」


「嘘つき」


「もう嘘はつかないと言ったじゃないですか」


「矛盾しているぞ」


 二人で笑った。


 食卓に座る。向かい合って。


 ヴィクトルがスプーンを取り、スープを一口すすった。


 沈黙。


「……どうですか」


「美味い」


「本当ですか?」


「俺は嘘をつかない」


「鬼伯爵の仮面は嘘じゃなかったんですか?」


「それは仮面であって嘘ではない」


「同じです」


「違う」


 また、笑い合った。


 温かいスープ。焼きたてのパン。窓から差し込む朝日。


 辺境の穏やかな朝。


 偽りの花嫁ではなく、フローラとして迎える、初めての朝食。


「美味しいです……旦那様」


「ああ。お前が淹れた茶は、いつも美味い」


「パンも食べてください」


「食べている」


 静かな食卓。でも、満ちている。



 午後、テラスで母と一緒にお茶を飲んだ。


 母の顔色は、伯爵家にいた頃よりずっと良くなっている。辺境の空気が合うのかもしれない。


「フローラ。あなたは、いい場所を見つけたわね」


「……うん」


「あの辺境伯様は、いい人ね。不器用だけれど」


「うん。すごく不器用」


 二人で笑った。


 庭の花が風に揺れている。ヴィクトルの母が植えた花。私が水をやって、ようやく咲いた花。


 これからも、毎日水をやろう。



 夕方。


 ヴィクトルが巡回から戻ってきた。


 玄関で出迎える。手袋のない手で。


「おかえりなさいませ、旦那様」


 ヴィクトルが足を止めた。


 私を見て——ほんの少しだけ、目を細めた。


「……ただいま」


 短い言葉。でも、温かい。


 これが日常になる。これから先、ずっと。


 偽りではない、本物の日々。



「フローラ様! お手紙です!」


 マリアが駆けてきた。


 封書を受け取る。差出人は——


「カミラ・フォン・ヴァレンシュタイン。王都修道院より」


 メルティと目が合った。


 封を切る。



『フローラへ


 修道院を出ることにしました。

 父のことは裁きに委ねます。

 わたくしは——もう逃げません。


 辺境伯領に参ります。

 あなたに、直接会って謝りたいのです。


 ——カミラ』



 ヴィクトルが横から手紙を覗き込んだ。


「カミラが——来る?」


「……そう、みたい」


 窓の外に目をやった。夕日が、麦畑を金色に染めている。


 第1章は終わった。


 でも、物語はまだ続く。


 カミラお嬢様が来る。逃げた令嬢が、偽りの花嫁が本物になった場所に、戻ってくる。


 それが何をもたらすのか——まだ、わからない。


 でも、もう怯えない。


 私の名前は、フローラ。


 この場所は、私の居場所。


 隣にいる人は、私が選んだ人。


「大丈夫よ、メルティ」


「本当ですか?」


「うん。——もう、大丈夫」


 手袋のない左手を、ぎゅっと握りしめた。


 奉公の印が、夕日の中で光った。


 もう、隠さない。

第1章「偽りの花嫁」、完結です!

お読みいただきありがとうございました!

ブックマークと評価で応援いただけると次章の励みになります。

第2章では、カミラが帰ってきて……? お楽しみに!

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