おかえりなさいませ、旦那様
朝日が、寝室のカーテン越しに差し込んでいた。
辺境伯領に来てから、もう一ヶ月が経つ。
伯爵家は事実上崩壊し、ハインリヒは王都で裁きを待っている。母は辺境伯領の離れに落ち着いて、少しずつ体調を取り戻している。カミラお嬢様は修道院での暮らしを選んだらしい。
全てが、終わった。
偽りの花嫁としての日々が。
そして——新しい日々が、始まっている。
「フローラ様、おはようございます!」
侍女のマリアが、着替えを持ってきてくれた。
「カミラ様」ではなく、「フローラ様」。
ヴィクトルが屋敷の使用人全員に説明してくれた。身代わりの事情を。フローラが本当の名前であることを。
驚く者もいた。でも、怒る者はいなかった。
「フローラ様が来てから、この屋敷は明るくなりましたから」
マリアがにこにこと言う。
「旦那様も、最近よく笑うようになりましたし」
「……そう、かしら」
「はい! 前は怖い顔しかしなかったのに」
くすりと笑った。
今日は特別な日だった。
朝食を、私が準備する日。
ヴィクトルに「一度でいいから、私の手料理を食べてほしい」とお願いしたのだ。
台所に立つ。侍女たちが手を貸そうとするのを断って、一人で。
メルティだけが横にいる。
「フローラ、味見していい?」
「まだ駄目」
「ケチ」
笑いながら、パンを焼く。スープを煮る。母に教わった、素朴な田舎料理。伯爵令嬢の食卓には似合わないけれど、侍女の娘が作れるのは、これだけだ。
——でも、もう隠さなくていい。
台所に立つ自分を。花に水をやる自分を。子供の怪我を手当てする自分を。
全部、フローラなのだから。
食堂にスープとパンを運んだ。
ヴィクトルが席で待っていた。
「今日は俺が食べる側か」
「はい。覚悟してください」
「覚悟とは穏やかじゃないな」
「侍女の料理ですから、伯爵令嬢の食卓には程遠いですよ」
「俺は伯爵令嬢の食事など求めていない」
テーブルに皿を並べる。
そのとき——ヴィクトルの目が、私の手に止まった。
手袋をしていなかった。
初めて。この屋敷で、手袋を外して食卓に立っている。
左手首の奉公の印が、そのまま見えている。
「……外したのか」
「はい」
声が少し震えた。
「もう、隠さなくていいと思って」
ヴィクトルが立ち上がった。
テーブルを回って、私の前に来た。
左手を取った。
奉公の印に、指で触れた。
——あの日、手袋を外そうとしたヴィクトルを、私は怯えて拒んだ。
今は、違う。
「これもお前の一部だ」
ヴィクトルが言った。
「伯爵家がお前に押した印だ。消えはしない。だが——これがあるから、お前はお前だ。侍女の娘で、花に水をやって、子供の怪我を手当てして、使者に啖呵を切って、俺の前で泣いて笑った——お前だ」
涙が、また出そうになった。
「もう泣くなと言ったのに」
「泣いてません」
「嘘つき」
「もう嘘はつかないと言ったじゃないですか」
「矛盾しているぞ」
二人で笑った。
食卓に座る。向かい合って。
ヴィクトルがスプーンを取り、スープを一口すすった。
沈黙。
「……どうですか」
「美味い」
「本当ですか?」
「俺は嘘をつかない」
「鬼伯爵の仮面は嘘じゃなかったんですか?」
「それは仮面であって嘘ではない」
「同じです」
「違う」
また、笑い合った。
温かいスープ。焼きたてのパン。窓から差し込む朝日。
辺境の穏やかな朝。
偽りの花嫁ではなく、フローラとして迎える、初めての朝食。
「美味しいです……旦那様」
「ああ。お前が淹れた茶は、いつも美味い」
「パンも食べてください」
「食べている」
静かな食卓。でも、満ちている。
午後、テラスで母と一緒にお茶を飲んだ。
母の顔色は、伯爵家にいた頃よりずっと良くなっている。辺境の空気が合うのかもしれない。
「フローラ。あなたは、いい場所を見つけたわね」
「……うん」
「あの辺境伯様は、いい人ね。不器用だけれど」
「うん。すごく不器用」
二人で笑った。
庭の花が風に揺れている。ヴィクトルの母が植えた花。私が水をやって、ようやく咲いた花。
これからも、毎日水をやろう。
夕方。
ヴィクトルが巡回から戻ってきた。
玄関で出迎える。手袋のない手で。
「おかえりなさいませ、旦那様」
ヴィクトルが足を止めた。
私を見て——ほんの少しだけ、目を細めた。
「……ただいま」
短い言葉。でも、温かい。
これが日常になる。これから先、ずっと。
偽りではない、本物の日々。
「フローラ様! お手紙です!」
マリアが駆けてきた。
封書を受け取る。差出人は——
「カミラ・フォン・ヴァレンシュタイン。王都修道院より」
メルティと目が合った。
封を切る。
『フローラへ
修道院を出ることにしました。
父のことは裁きに委ねます。
わたくしは——もう逃げません。
辺境伯領に参ります。
あなたに、直接会って謝りたいのです。
——カミラ』
ヴィクトルが横から手紙を覗き込んだ。
「カミラが——来る?」
「……そう、みたい」
窓の外に目をやった。夕日が、麦畑を金色に染めている。
第1章は終わった。
でも、物語はまだ続く。
カミラお嬢様が来る。逃げた令嬢が、偽りの花嫁が本物になった場所に、戻ってくる。
それが何をもたらすのか——まだ、わからない。
でも、もう怯えない。
私の名前は、フローラ。
この場所は、私の居場所。
隣にいる人は、私が選んだ人。
「大丈夫よ、メルティ」
「本当ですか?」
「うん。——もう、大丈夫」
手袋のない左手を、ぎゅっと握りしめた。
奉公の印が、夕日の中で光った。
もう、隠さない。
第1章「偽りの花嫁」、完結です!
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第2章では、カミラが帰ってきて……? お楽しみに!




